第265話 第一章「死んだ王の行進」前編

王の足跡は、王のものではない。

 先に踏まれた土のものであり、後から道と呼んだ民のものであり、その道を通って税を取りに来た役人のものであり、さらに後の時代になって「初代王はここを歩いた」と石碑を立てた者のものでもある。

 歴史という仕事は、足を持たない。

 だから他人の足跡を借りる。

 英雄の進軍。

 開祖の巡礼。

 征服者の凱旋。

 同じ窪みでも、名を付けた側によって意味が変わる。

 ただし、土そのものは、意味より重さをよく覚えている。

 誰もいない草地で、四つ目の巨大な足跡が生まれた。

 踏まれたのではない。

 沈んだ。

 ハルたちから二十歩ほど北の地面が、音もなく家一軒分の形へ落ち込んだ。四本の指。幅広い踵。踵の中央へ、角を押し当てたような深い窪み。

 草は倒れた。

 だが、土は外へ盛り上がらなかった。

「下へ沈んだ分、どこ行った」

 ハルが縁へ駆ける。

「近づきすぎです」

 エリアの声より、白い日傘が速い。

 細身の地図槍グリムリリーへ変形した傘の石突きが、ハルの赤いマフラーを後ろから引っ掛けた。

「首」

「止まったでしょう」

「止め方が首」

「肩では前例があります」

「治ってきた場所を例にしないで」

「治ってきたと、治ったを混ぜないでください」

 左肩は一。走るだけなら痛まない。腕を頭より高く上げ、体重をぶら下げると二か三になる。

 それをエリアへ申告したのは三日前だった。

 申告した情報が、こうして逃げ道を塞ぐ武器へ変わる。

「健康管理は情報戦だ」とカイルが言った。

「王子が言うと悪い意味になる」

「実際、王城ではなる」

 カイルは右籠手を左拳で一度叩き、足跡の縁へしゃがむ。今夜は深紅の半マントを外し、背中の火傷へ風を通す短い旅装だった。

 ロロが測定板を滑らせる。

「触るなよ。俺が触っていい範囲を決める」

「その範囲、誰が決めるの」とハル。

「俺」

「自分で決めるんだ」

「壊した時の修理代を請求されるのも俺だ!」

「じゃ責任込み」

「責任を取れば何してもいいわけじゃねえ!」

「自分へ先に効く言葉」

「お前にも効かせてんだよ!」

 四本の補助腕が、本人より先に足跡へ測定針を立てた。

 一本。

 二本。

 三本。

 深さを取る。

「底まで二・八リュム。縁の崩れ、ほぼなし。表面圧縮は上からだけど、底の粉は下から出てる」

 ロロは白い粉を小さな匙で掬う。

 歯へ当てようとして、セレナの視線に気づいた。

「非接触鑑定にしろって顔すんな。歯の振動が一番早い」

「証拠を口へ入れる行為は、鑑定方法の名で免責されません」

「入れねえ。当てるだけ」

「唾液が付着します」

「じゃピコ」

 機械鳥ピコが、白粉へ嘴を近づけた。

「生きた機械へ食べさせるのもやめてください」

「ピコは機械だ!」

「では、食べさせる理由がさらにありません」

 ロロは不満そうに粉を測定板へ置く。

 セレナは黒い証羽を一本伏せ、見た範囲だけを記録した。

「観測。第四の窪みは、直前まで平坦な草地。大型生物の接近痕なし。窪みの外周に押し出された土なし。底面の白粉は周辺土と異なる」

「足跡」とハル。

「形状上の呼称としてなら」

「死んだ王の」

「伝承との類似としてなら」

「言うたび注釈が増える」

「増やさず断定すれば、誤りが増えます」

「注釈と誤り、どっちが重い?」

「訂正できる方を選びます」

 セレナは白粉を採取管へ封じる。

 ノクスが足跡の底へ降りた。

「ノクス」

 ハルは呼ぶ。

 戻れとは言わない。

 黒い夜獣は底へ鼻を付け、右の尾を北へ、左の尾を地面へ向けた。

「新しい匂いと古い匂い?」

「翻訳しないで」とセレナ。

「質問」

「本人が答えられる形で」

 ハルは足跡へ降りず、その場で赤い布環を見せる。

「戻る?」

 ノクスは「ナァ」と鳴いた。

「残る?」

「ノゥ」

「両方違う?」

 二本の尾が左右へ広がった。

「それ、三つ目の答え?」

 ノクスは白粉を前脚で掻いた。

 粉の下から、細い灰色の筋が出る。

 骨。

 大きな骨ではない。

 細かな骨片を樹脂で固めた、古い補修層だった。

 ロロのゴーグルが下りる。

「人工」

「断定根拠」とセレナ。

「粒の大きさが揃いすぎ。樹脂も入ってる。自然に砕けた骨を、わざわざ同じ目へ通して撒いてる」

「燃料?」とハル。

「燃えてねえ。焦げなし」

「墓の骨を道へ?」

「まだ道とも墓とも言ってねえ!」

 ロロは言いながら、補修層の端へ指を近づける。

 触れる前に止めた。

 前の巻で、祭具を分解しそうになった時より、指一本分だけ早い。

 成長は、派手な技より止まった指へ出ることがある。

 足跡は、死王谷へ向かっていた。

 谷と呼ばれているが、両側に山はない。

 翠獣環ヴァルカでは、大地そのものが巨獣の背へ載って移動する。昨日まで丘だった場所が、獣の寝返りで斜面になる。地図上の谷は、地形の低さより、古い王獣の背骨と背骨の間を示す言葉だった。

 月のない夜、ゼロスター号は低く飛んだ。

 片帆の帆柱へ、祭場から持ってきた臨時灯が三つ。

 船底すれすれを、湿った草が流れる。

 足跡は一つずつ増えた。

 生まれる間隔は、きっかり七百二十拍。

「十二分」とハル。

「お前の心拍で数えるな」とロロ。

「今、落ち着いてるから一秒くらい」

「お前の落ち着きに時計を預ける国があるか」

「ないと思う」

「即答すんな!」

 エリアは地図板へ時刻線を引く。

「十一分五十八秒、十二分三秒、十一分五十九秒。誤差五秒以内」

「歩いてるなら、足を出すの遅すぎない?」

「大きさが違います」

 ガンガは船首へ立っていた。

 裸足。

 胸を二度叩かない。

 地面から返る拍を聞いている時、彼はいつも自分の胸と地面を交互に叩く。

 今は、どちらにも触れない。

「聞こえる?」

 ハルが訊く。

「多い」

「足跡一つなのに?」

「地面の下へ、細い拍がある」

「何個」

「数えると、揃う」

「数えたら揃う?」

「俺が聞くと、俺へ寄る」

 万獣鼓動〈ハート・ハウル〉

 近くの生命を一つの拍へ束ねる力。

 使わずとも、ガンガが深く聞こうとするだけで、弱い生き物の心拍が大きな彼の拍へ引かれることがある。

 祭で彼は、それを止めることを覚えた。

 止めたからといって、聞き方まで完成したわけではない。

 ネムが胸太鼓を膝へ置く。

 打たない。

 細い指で、七つの心拍珠を一列へ並べる。

 一つだけ、列から外す。

 ノクスが真似して、ロロのネジを一つ外した。

「返せ!」

 ノクスは口へ入れる。

「食うな!」

「食べ物じゃないって分かってる顔」とハル。

「分かっててやる方が悪い!」

 ネムが小板へ書く。

『今は六つと一つ』

「七つじゃない?」

『七つ。六つが近い。一つが遠い』

「足跡の下?」

 ネムは横線。

『方向はまだ』

 ハダンが三叉杖で甲板を一度叩く。

「谷へ入れば、地面が厚い。聞こえは悪くなる」

「じゃ今、止める?」とハル。

「何を」

「足跡を追うの」

「悪くなる前に聞けるものは聞く。悪くなった後は、別の方法を使う」

「昔の歌?」

「歌は方法の一つだ。答えではない」

 ハダンは白濁した左眼を谷へ向ける。

「死王は、三百二十年前に角峰の北へ伏したと歌われる」

「死んだ?」

「歌には『歩みを七つへ預け、土へ眠る』とある」

「死んだって書いてない」

「歌は葬りにも眠りを使う」

「じゃ分からない」

「だから来た」

 谷の入口へ、灯が見えた。

 一つではない。

 足跡の底へ、何百もの小さな灯が並んでいる。