第266話 第一章「死んだ王の行進」後編

 タルの村では、祭りが始まっていた。

 村名は、地面から生える筒状の草タルに由来する。

 死王の帰還を祝う楽器の名ではない。

 今夜だけは、誰もその違いを気にしていなかった。

「御王が歩いた!」

「谷へ戻られた!」

「今年の乾期は短いぞ!」

 巨大な足跡へ、油皿が七列。

 子どもたちは四本の指の窪みを走り、老人は踵へ塩を撒く。

 足跡は深い。

 雨が降れば池になる。

 今は祝場になっている。

「下から押された可能性があります」とセレナ。

 村の拍役は、黒外套を見て顔をしかめた。

「王都の法は、王の歩みを下からと申すか」

「王都の法ではなく、現場の土です」

「土が何を言う」

「押し出し痕がない、と」

「黙っているではないか」

「黙っている物へ、都合のよい台詞を与えない仕事です」

 セレナは敬称を崩さない。

 本気で怒る時の礼儀だった。

 拍役は、ガンガを見る。

「第一鼓候補。御王の帰還を見たな」

「見たのは窪みだ」

「王の足形だ」

「形は似ている」

「なら王だ」

「お前は自分の足型に似た靴を見て、自分が歩いたと思うか」

「靴と王を並べるな」

「王を形だけにするな」

 ガンガの声は低い。

 大きくない。

 村人のざわめきが、その低さへ引かれる。

 万獣鼓動は使っていない。

 使わなくても、大きな体と候補の角は、十分に人の注意を集める。

 ハルは周囲を見る。

 祭りを止めれば安全になるとは限らない。

 ここで王の帰還を否定すれば、村人は聞かない。

 肯定すれば、足跡の底へ子どもを残す。

「次の足跡、あと何分」とハル。

「四分二十秒」とエリア。

「同じ歩幅なら、ここ?」

「地図上では、村の北端。ですが地面の変形が足の向きを変えれば誤差があります」

「北端に何がある」

 村人の一人が答える。

「御王の息舎だ」

「息舎?」

「谷の風を飼う場所」

「風を飼う?」

「都市人は風も自由だと思うのか」

 ミラが聞けば、通行料の話を始めそうな言葉だった。

 村の北端には、低い石垣で囲われた円形の舎があった。

 中で、大きな生き物が横たわっている。

 牛ではない。

 鹿でもない。

 王獣を小さくした、と呼ぶには大きすぎる。

 肩まで三リュム。

 六本脚。

 額から左右へ広がる若い角。

 濃緑の毛の下で、半透明の喉袋がゆっくり膨らんでいる。

 脚へ、白い輪。

 装飾に見える。

 輪から地面へ、太い管が七本伸びていた。

「何の獣」とハル。

 拍役は言った。

「王息を保つ奉身仔だ」

「名前」

「役目を申した」

「名前を聞いた」

「王へ息を返す仔に、私名は要らぬ」

 ハルの右親指が、配達鞄の内側へ触れた。

 零星針の封印箱がある。

 蓋は開けない。

 役目で呼ばれ、名前を消された生き物を前にして、原因を指す針へ答えを預ける気にはなれなかった。

 ネムが舎へ近づく。

 拍役が止める。

「祭外の聞き手は触れるな」

 ネムは小板へ書く。

『触らない。聞く許可』

「奉身仔に許可はない」

『あなたへ聞いていない』

 拍役が意味を取るまで、二拍かかった。

 ネムは舎の外へ座る。

 胸太鼓を置く。

 打たない。

 若獣の左耳が動いた。

 ネムは一度だけ、床へ指を当てる。

 若獣の喉袋が膨らむ。

 返事とは断定できない。

 反応はある。

 ガンガが近づこうとする。

 ネムは手を上げた。

 止まれ。

 ガンガは止まる。

 祭場で覚えたばかりの止まり方だった。

「呼吸、浅い」とネムが掠れた声で言う。

 喉へ手を置く。

 続きを小板へ書いた。

『七拍目だけ深い。外からでなく下へ吸われる』

 ロロが管を見る。

「送気管じゃねえ。吸われてる?」

「王へ息を返す」と拍役。

「比喩じゃなく?」

「誓いだ」

「誓いで肺は動かねえ」

「動いている」

「なら構造がある!」

 ロロの補助腕が上がる。

 次の足跡まで、一分。

 エリアが村の北端へ光線を引いた。

「推定中心、息舎から三十リュム東」

「人は」とカイル。

「十二。子ども四」

「退避させる」

「王の歩みから逃げろと?」と拍役。

 カイルは王子の印章を出さなかった。

「地面が沈む可能性から離れてくれ」

「御王を疑うのか」

「王を信じる話と、足元を確かめる話を同じにするな」

「他国の王子が」

「他国の王子だから命令しない。頼んでいる。退避してくれ」

 拍役は迷う。

 ハダンが杖を地面へ置いた。

「決めぬことも決めたことだ。残り四十拍」

 村人が動く。

 全員ではない。

 カイルとエリアが子どもを誘導する。

 セレナが残る者の人数を記録する。

 ロロが地面へ圧力針を打つ。

 ハルは舎の若獣を見る。

 ノクスが、その前へいた。

 村人たちが黒い夜獣へ気づく。

「破約喰いだ」

「御王の嘘を嗅ぐ獣」

「破られた約束の臭いを追う獣〈ヴォウ・イーター〉!」

 呼び名が広がる。

 ノクスへ、干し肉。

 鈴。

 星滴を染み込ませた布。

 ノクスは星滴の布へ毛を逆立てる。

「近づけるな!」

 ハルが言う。

「王の誓いを確かめてもらう」と拍役。

「確かめるんじゃない。破れた時に出る匂いを追うだけ」

「同じことだ」

「違う。善い約束かも分からない。誰が破ったかも分からない」

「なら嗅がせれば」

「本人へ聞け」

「獣だぞ」

「だから、あんたの答えを使うな」

 ハルはノクスへ手を伸ばさない。

 出口になる隙間だけ空ける。

「来る?」

 ノクスは村人の輪を見る。

 干し肉を見る。

 星滴布を避け、干し肉を一つ取る。

「契約成立?」とカイル。

「食事成立」とハル。

「本人の分類を聞け」とエリア。

 ノクスは干し肉を半分食べ、残りを足元へ置いた。

 その瞬間、息舎の若獣が大きく息を吸った。

 七本の管が鳴る。

 一。

 二。

 三。

 四。

 五。

 六。

 七つ目が、遅れる。

 地面が沈む。

 息舎の東。

 エリアの推定中心。

 巨大な足跡が、下から押し抜かれたように生まれた。

 若獣の喉袋が一気に萎む。

 脚の白い輪が赤く光る。

 ネムが立つ。

『痛い』

「どこ」とハル。

『この仔だけじゃない』

 若獣の胸が、七つにずれた拍を打つ。

 ノクスの二本尾が、地面へ向いた。

 足跡の最後。

 その底が、ゆっくり上下している。

 大地が、呼吸していた。