第271話 第四章「七つずれた鼓動」前編

聞くことは、受け入れることではない。

 音は耳へ入る。

 命令は身体へ入る。

 恐怖は、許可を求めず心拍へ入る。

 人はしばしば、聞いたことを理解したと思い、理解したことを同意されたと思い、同意されたことを命令してよいと思う。

 ガンガ・オルバは、心臓を聞けた。

 だからこそ、聞こえたものを自分のものにしやすかった。

 骨鐘楼から先へ進む道は、橋ではなかった。

「さっきも橋じゃないって言った」とハル。

「今度は本当に道でもありません」とエリア。

「道でない道?」

「生体組織の上を、私たちが移動路として使うだけ」

「長くして責任を増やした」

「短くして生き物を設備へしないためです」

 前方には、七本の白い骨が空気嚢の上へ伸びている。

 太さは家の柱ほど。

 表面は滑らかで、ところどころ薄い膜が覆う。

 一本ごとに高さと角度が違い、呼吸のたび上下する。

 七本の上を同時には渡れない。

 一本を選べば、他の六本が別の方向へ動く。

「王の肋骨」とラハナ。

「死んでるのに動く」とハル。

「骨そのものが動くのではありません。周囲の膜と圧路が」

「王が歩く、と同じ言い方」

 ラハナは答えない。

 ガンガは裸足を最初の骨へ置いた。

 冷たい。

 その奥に、拍がある。

 一つ。

 近くない。

 大きくない。

 若い。

 北東から、速く浅い鼓動。

 二つ目。

 南から、遅く重い。

 三つ目。

 西の深い場所から、二拍続いて一拍休む。

 七つ。

 同時ではない。

「順番に来る」

 ガンガは胸を叩かない。

「何が」とカイル。

「心臓。七つ。最初の拍が骨を上げる。次が前へ送る。三つ目が沈める。最後が次の場所へ圧を渡す」

「一頭の心拍じゃない」とセレナ。

「違う」

「個体である根拠」

「呼吸の揺れが別。怖がる時の速まり方が違う」

「感情を断定しないで」とネム。

「速まり方」

 言い直す。

「生き物かもしれない。器官だけなら、ここまで違わない」

「王心監」とセレナ。

 ラハナは七本の鍵へ触れる。

「先へ進めば、記録があります」

「今、否定しない」

「否定できる材料がありません」

「肯定は」

「権限がありません」

「権限で心臓の数が変わる?」とハル。

「公表できる数が変わります」

「そこを変えてる事件だろ」

 ガンガは二人の言葉を遠く聞く。

 七つの拍が近い。

 万獣鼓動を使えば、もっとはっきりする。

 基準を一つ置き、周囲の心臓を寄せれば、ずれの幅が見える。

 だが、見えるために変える。

 それは角峰でトトを見失った方法と同じだった。

「使わないの?」とハル。

「使わん」

「聞きにくい?」

「聞きにくい」

「じゃ、どうする」

「近づく」

「身体的」

「お前が言うな」

 近づくためには、最初に自分の近くを疑わなければならなかった。

 七本骨の根元には、白い膜が浅い野原のように広がっている。膜の上では、米粒ほどの小さな虫が群れ、響花から響花へ銀粉を運んでいた。

 ガンガが一歩踏み出す。

 虫の群れが、一斉に右へ寄った。

 もう一歩。

 今度は左。

「使ってる」とネム。

「使ってない」

「漏れてる」とハル。

「水袋みたいに言うな」

「力袋?」

「袋から離れろ」

 万獣鼓動〈ハート・ハウル〉は、胸を叩いて始める術ではある。

 しかし、始める動作があることと、始まっていないことは同じではない。

 長く群れの中心へ立った者は、命令しなくても周囲へ拍を置く。

 声を出さない王の前で人が姿勢を正すように、剣を抜かない兵の前で道が空くように、力は使用より先に習慣となる。

 ガンガの歩調へ、膜虫が合わせていた。

「俺は虫へ命令してない」

「虫は命令書を読まない」とハダン。

「なら俺のせいじゃない」

「読まぬ者へ届くから、なおさらお前の責任だ」

 ガンガは足を止めた。

 虫も止まる。

 止まったことまで、同じだった。

 ネムが胸太鼓を膝へ置く。叩かない。七つの心拍珠だけを膜へ並べ、一本の指で輪を描いた。

 混ぜない譜が開く。

 北東の拍は細い金。

 南の拍は暗い緑。

 西の休符は、光のない間隔として残る。

 そこへガンガの拍が入ると、七色の縁がわずかに内側へ曲がった。

『聞いているだけで、近づけている』

 ネムの小板。

「どう止める」

『止める、も命令』

「じゃあ、何もしない?」とハル。

『何もしないふりをしない』

「難しい言葉を短くするな。短いから分かった気になる」

 ネムは二本目の線を書く。

『自分の拍を小さくしない。基準にしない』

 ガンガは鼻から息を吐いた。

 九歳の雨期を思い出す。

 濁流の前で怯えた小群れを、彼は落ち着かせようとした。胸を叩き、全員の心拍を自分へ合わせた。恐怖は減った。列は乱れなかった。大きな群れは橋を渡れた。

 ただ、橋の下へ逃げる習性を持つ小さな角鼠だけが、列の速さへ追いつけず、退路を失った。

 その時も、彼は救った数を先に数えた。

 失った数は、誰かが後から教えた。

「基準にしないで、どう聞く」

『私が分ける。兄は順を言うだけ』

「お前の譜に任せろと」

『任せるのが嫌?』

「嫌ではない」

 即答が速い。

 ネムの右眉が上がる。

「……少し嫌だ」

「正直、二段階」とハル。

「お前は一段目から遅い」

「熟成してる」

「腐ってる」

 エリアが膜へ細い路図を引く。

「試します。ガンガは進路を決めず、ネムが分離した拍の到着だけを告げてください。私が足場を選びます」

「俺は先頭じゃないのか」

「先頭であることと、中心であることを分けます」

「長い」

「ガンガは聞く。私が決める」

「短いと腹が立つ」

「内容は同じです」

 最初の膜へ、エリアが足を置いた。

 沈む。

 ガンガは反射的に「右」と言いかける。

 右の拍が強かったからだ。

 だが、強い拍が安全な足場を示すとは限らない。

「北東、来る」

 決めずに、到着だけを言う。

 エリアは左の響花が閉じるのを見て、右へ移った。

「南、遅い」

 ロロが膜の張力を読む。

「待て、今は乗るな。遅れてるんじゃなくて、遠い圧が回ってる」

「西、二つ。休み」

 休符の間に、カイルが骨柱へ体重を預ける。

 一行は十歩だけ進んだ。

 十歩に、四十の合図が要った。

 速くはない。

 けれど、膜虫はもうガンガの周りへ集まっていなかった。

 金の群れは金の花へ、緑の群れは緑の花へ、それぞれ違う速さで戻っていく。

「遅い」とハダン。

「生きてる」とガンガ。

「遅いまま死ぬこともある」

「速くして殺すこともある」

 二人は互いに譲らない。

 譲らないまま、次の足場を待つ。

 国家の歩みは、たいてい一つの速度で記録される。

 進軍何日、遷都何年、改革何代。

 しかし実際の国は、歩ける者と担がれる者、止まりたい者と急ぐ者が、同じ地図の上で違う速さを持つ。

 七本の骨が一歩を作るなら、一歩とは同時であることではない。

 ずれたまま、次の重さを渡すことである。

 ガンガはその意味を、まだ答えにはしなかった。

「手順を作れる」とエリア。

「誰の」

「今ここにいる全員の。ただし、ノクスは従わない可能性があります」

 ノクスはすでに別の骨へいた。

「可能性、確定した」とハル。

「では、従わない者の出口も含めます」

 ガンガは七つの拍を聞く。

 近づけない。

 混ぜない。

 聞こえた順だけを、他人へ渡す。

 それは力を使わないことではなかった。

 力の行き先を、自分一人で決めないことだった。