第273話 第五章「乳歯の保管庫」前編
歯は、骨より正直である。
骨は折れれば繋がり、削られれば形を変え、死後には王墓の柱にも兵士の笛にもなる。
歯も削れる。
抜かれる。
飾られる。
それでも、育った季節を内側へ残す。
飢えた年。
熱を出した月。
土の成分。
生え替わった時期。
王の年代記は書き換えられる。
乳歯の成長線は、書記官を知らない。
空気嚢の外側は、狭かった。
縦穴の途中で合流した肺守バサが先導している。灰色の口覆い、胸へ巻いた風量縄、腰には七本一組の古い鍵。死王の体内で生まれ育った男で、地上へ出ると「天井が遠すぎて落ち着かん」と不平を言うらしい。
ハルには、である。
ガンガには、狭いという語が足りなかった。
「通れない?」
「通る」
「肩が引っ掛かってる」
「骨を引っ込める」
「できるの」
「今から試す」
「身体を試作品にしないで」
エリアが前方から言う。
ガンガは息を吐き、片腕を頭上へ伸ばした。白い角を壁へ擦らないよう、首を斜めにする。
ネムが後ろから、肩掛けの房を一つずつ外す。
祭で受け取った要求の房。
「切れ」とガンガ。
ネムは首を振る。
「時間がない」
『戻せる』
「命より房か」
『二つにするな』
ネムは結び目を解く。
赤い房。
青い紐。
貝殻。
受け取った要求を捨てず、今は身体から外す。
ガンガの肩が少し細くなる。
「通れる」とハル。
「骨、引っ込めてない」
「要求を外した」
「同じ意味にするな」
ガンガは最後に抜けた。
背後の膜が閉じ、白い風が細い口笛になる。
前方には、人工の扉があった。
灰色の金属。
鍵穴は七つ。
「肺守用じゃない」とバサ。
「何用」とセレナ。
「知らん」
「鍵を持ってる」
ハルが指す。
バサの腰の鍵束へ、同じ形が七本あった。
「持ってる知らないは、どっちが正しい?」
「鍵は引き継いだ。扉の中は開けるなと引き継いだ」
「理由」
「王の歯が眠る」
「知ってる」
「中身の用途は知らん」
セレナが記録する。
「肺守バサ。七鍵を所持。保管庫の存在と通称を知る。用途は知らないと証言」
「疑っておるか」
「記録しています」
「同じ顔だ」
「違います。疑う時は質問が増えます」
「今も多い」
「平常です」
ロロが扉へ耳を当てる。
「中、乾燥。換気あり。錠は順番式」
「触るな」とバサ。
「耳は触ってる」
「屁理屈を技術に数えるな」
「技術者の半分は屁理屈だ!」
「残り半分は」
「請求書!」
ハルが鍵を見る。
「七本、同時?」
ネムが床へ指を置く。
まだ六つの拍が来る。
薄紫はない。
六つの順番を聞き、七つ目の空白へ自分の指を置く。
『歩く順』
「鍵も?」
エリアが鍵穴の摩耗を見る。
「一番、三番、六番、二番、五番、四番、七番。使用痕の深さがその順です」
「脚の順と同じ」とロロ。
「開けます」とセレナ。
バサが振り向く。
「許可は」
「内部崩落により帰還路喪失。避難経路確保のため、閉鎖室を確認します。記録保全を優先し、持ち出しはしません」
「七脈院が」
「七脈院長代理は、危険時の本人判断を認めました」
「星律官の本人とは誰だ」
「私です」
七本の鍵を、順番に回す。
最後の鍵だけ、音がしなかった。
空白の拍で、扉が開いた。
保管庫は、白かった。
壁。
棚。
床。
ただし、清潔の白ではない。
古い骨粉を塗り込め、湿気と虫を避ける白。
棚は円形に並ぶ。
中央に、王獣の頭骨を模した大きな台。
台の上へ、歯がある。
一本ではない。
何百本。
手のひらほどの乳歯。
短剣ほどの犬歯。
薄い板状の臼歯。
全てへ細い穴が開けられ、年代札が結ばれている。
「王の歯」とバサ。
「何代分」とハル。
「一頭だ」
「多すぎない?」
「王は長く生きる」
「乳歯が何回も生える?」
バサは答えない。
ハダンが最も古い棚へ行く。
片眼鏡を出さない。
札の反応を見るため、裸眼で近づく。
「歌では、王は三度歯を替える」
「ここ、三度じゃない」とロロ。
補助腕で数える。
「同じ位置の歯が七本ずつある。大きさ違い。根の形も違う」
「一頭の成長」とバサ。
「同じ時期に抜けた札が重なってる!」
ロロは棚の札を指す。
セレナが制止する前に、触れない距離で止めた。
「第三百十二年、雨期二日。左前臼歯。隣も同日、左前臼歯。その隣も。王に左口が七つあるなら一頭だな」
「記録の誤りだ」
「誤りが七列、百年以上続く?」
「儀式札の写し違い」
「写し違いにしては、歯の方が違う」
ネムが一本へ近づく。
許可を問うように、セレナを見る。
「非破壊観測。接触は手袋、一本ずつ。元位置を証羽へ記録します」
ネムは青灰の薄手袋を付ける。
歯の側面へ、小さな光板を当てた。
成長線が浮く。
細い輪。
太い輪。
途中の黒い欠け。
『熱』
「病気?」とハル。
『高熱か、長い飢え』
隣の歯。
線の間隔が違う。
さらに隣。
「年齢」とガンガ。
『違う』
「何年」
ネムは七本を並べない。
元の棚位置のまま、光だけを床へ写す。
一番古い歯は、抜けた時に十二歳前後。
次は十一。
その次は九。
最も新しい歯は、五歳ほど。
「七年差」とエリア。
「一頭が、同じ年に五歳と十二歳?」とハル。
「一頭ではありません」とセレナ。
断定した。
物証が揃ったからである。
「少なくとも七個体。歯列位置、成長線、根形状、同一日付札の重複。王一頭の生え替わり記録では説明不能」
バサが棚へ背を預ける。
「奉身仔の歯だと?」
「可能性が高い」とエリア。「村の仔の口腔形に似ています」
「王へ捧げた歯は、王の物になる」
「物になったから、持ち主まで王にした?」とハル。
「儀式だ」
「儀式って、持ち主を消す言葉?」
「違う」
「じゃ名前は」
札には、王歯と年代しかない。
ハルは棚の裏を見る。
配達店で、荷札が剥がされた箱には跡が残る。
糊。
紐の向き。
日焼けの差。
歯札にも、二重の穴があった。
「元の札、外してる」
「どこ」とセレナ。
「今の紐穴は一つ。歯の根元に、もう一つ擦れ。向きが逆」
ロロが拡大鏡を出す。
「本当だ。古い紐繊維」
ノクスが棚の下へ潜る。
右の尾が新しい札へ。
左の尾が床板の隙間へ。
前脚で掻く。
白い粉の下から、細い木片が出た。
「食べるなよ」とロロ。
ノクスは振り返り、わざと口を開ける。
「今、脅した!」
ハルが木片を拾わない。
セレナが手袋で採取する。
表面に、文字。
古い群れ字。
ハダンが読む。
「ナア」
「名前?」
「幼名だ」
次の木片。
「ユル」
その次。
「カラ。セト。ミイ。ドゥ。ルゥ」
七つ。
個人名か、飼育名か、群れ内の呼称かは分からない。
だが、王ではない。
全てを一頭と呼ぶ前に、別々の音があった。
名前の木片を抜いた床板の下には、さらに浅い引き出しがあった。
歯を保存するには必要のない深さ。
王を記録するには、あまりに小さい幅。
バサが顔をしかめる。
「療舎の私物箱だ」
「知ってる?」とハル。
「肺守見習いが、入院した仔へ一箱ずつ作る。戻る時に持たせる」
「戻らなかった箱」
「……そうなる」
七つの引き出し。
同じ大きさ。
中身は同じでなかった。
一つ目には、赤土が固まった丸石。
表面の一側だけが滑らかで、反対側には細い歯形が残る。
二つ目には、端を水へ浸した跡のある草籠。乾かすたび繊維が縮み、底だけ七度も継ぎ直されている。