第274話 第五章「乳歯の保管庫」後編
三つ目には、黒い種をより分けた小袋。袋の中身は空だが、縫い目へ一粒だけ挟まっていた。
四つ目には、噛み跡のない硬い木環。
代わりに、片面へ額を押し付けた脂の跡が層になっている。
五つ目には、苦い薬草を包んだ布。薬を嫌って吐き出したのではなく、葉脈だけ食べ、茎を残した痕があった。
六つ目には、風穴を開けた小さな骨笛。
吹くためではない。風上へ向けた時だけ、低く鳴る。
七つ目には、灰色の目隠し布。
縁の一箇所が何度も引きちぎられ、違う糸で直されていた。
「王の私物としては、安い」とロロ。
「値段で王を測るな」とバサ。
「安い物を悪く言ってない。誰かが使った物だって言ってる。儀式用なら全部同じ規格で作る。これは修理の仕方が七つとも違う」
「修理」とネム。
小板へ二字。
ロロは身構える。
「また言葉が悪い?」
『場所が足りない』
「どこに」
『使った場所。痛かった場所。好きだった場所』
「物の台帳に生活を書くのか」
『物だけなら、王の部品になる』
ロロは引き出しへ手を伸ばさない。
紙を七枚出す。
「じゃ、名称、材質、損傷、補修歴。そこへ……使い方。持ち方。嫌がった使い方。推定は推定欄」
『誰が直したか』
「それも」
「食べた物も」とハル。
「歯の台帳なのに?」
「歯だからだろ。何を噛んだか残る」
「お前、たまに正しいことを普通に言うな」
「普段も正しい」
「普段は正しさを走りながら落とす」
セレナが七枚へ通し番号を振る。
「順序は棚位置。名前との対応は、紐繊維と穴の向きが一致したものだけ確定」
「全部、一緒に置いてある」とハル。
「近いことは同一の証明ではありません」
「でも、離すと生活が消える」
「だから位置も記録します」
証羽が、引き出しを上から、横から、使われた向きから写す。
記録とは、物を取り上げることにも、物を戻す道を残すことにもなる。
何を数えるかより、何を数えなかったかによって、制度の輪郭は現れる。
七脈院は歯を数えた。
年を数えた。
王心への適合率を数えた。
誰が丸石を舐めたかは数えなかった。
誰が水へ草を沈めたかは数えなかった。
誰が見られていると食べられなかったかは、王の機能に不要だった。
不要とされた生活は、消えたのではない。
小さすぎる引き出しへ押し込まれ、開ける者がいなくなっただけだった。
ハダンが、七つ目の目隠し布へ近づく。
右手は伸ばさない。
「その継ぎ糸」
「知っている?」とセレナ。
「旧ハダン群の雨結びだ。濡れるほど締まり、乾けば指一本で解ける」
「誰が結ぶ」
「仔を療舎へ送る時、家から一人が持ち物へ結ぶ」
「あなたは」
「結んだ」
ハダンの声は、砂を噛んだように荒い。
「ナアは暗い療舎で眠れなかった。顔へ布を掛けると落ち着く、と母親が言った。俺が雨結びを教えた」
「戻すつもりだった?」とハル。
「戻る物へする結びだ」
戻らなかった。
結びだけが、十七年後まで戻る意味を保った。
ガンガが布を見下ろす。
「名前を外しても、群れの手は残った」
「手が残ったから、許されるわけではない」とハダン。
「分かってる」
「なら、分かった顔をするな」
「どういう顔だ」
「俺を責めれば自分は違うと思える顔だ」
ガンガの角が少し下がる。
ネムは二人の間へ入らない。
七枚の生活票の一番上へ、同じ欄を足す。
『戻したい物/戻したくない物』
「本人に聞けない」とロロ。
『だから空白』
空白は、知らないから残す。
同時に、後から本人が書ける場所として残す。
保管庫に初めて、王以外のための空欄が七つできた。
ネムは最古の札を取らない。
床へ置かれたまま読む。
木片の下へ、群れ印。
曲がった角と、小雨を示す三本線。
オルバ群。
さらに古い呼び方で、旧ハダン群から合流した家系の預かり印。
ネムの右眉が上がる。
音を拾った時ではない。
怒りを、声へ出さない時だった。
「知ってた?」
ハルはネムでなく、ハダンへ聞く。
ハダンは杖の三叉へ結んだ草を外す。
「ナアの名は知っている」
「誰」
「十七年前、北乾期に生まれた仔だ。呼吸が弱く、七脈院の療舎へ送った」
「戻った?」
「戻らんかった」
「理由」
「王息へ適合した。国のため預かると」
「同意した?」
「群れの拍守として、送致札へ印を押した」
「ナアは」
「仔だった」
「聞かなかった?」
「聞ける年ではない、と言われた」
「誰に」
「院に。俺自身にもだ」
ハダンは自分を免責しない。
「病を治すため送った。王の一部になるとは聞いていない。だが、戻らぬ時に探さなかった。群れは雨期移動を急いでいた。救えた数を数え、残した一頭を歌から外した」
ガンガの声が低くなる。
「俺たちの群れが、始めた?」
「分からん。最古の札が、最初とは限らん」
「また分からないか」
「分からぬことを、罪から逃げる穴にする気はない」
ネムが太鼓を打たない。
沈黙が長い。
ガンガは代わりに怒らない。
ハダンも説明を足さない。
ネムは小板へ書く。
『ナアの今を先に』
「責任より?」とハル。
『責任は逃げない。拍は止まる』
ハダンが一度頷く。
「正しい」
「お前が採点するな」とガンガ。
「弟の言葉を褒めた」
「名前で呼べ」
「ネム。正しい」
ネムは横線を書く。
『聞いた。賛成ではない』
「厳しい」とハル。
『正確』
保管庫の奥には、歯だけでなく儀式文があった。
骨板へ刻まれた古い文。
磨耗している。
エリアとハダンが並んで読む。
「現代字では、『王の一歩を七つへ預け、七つの帰りを一歩へ返す』」とエリア。
「祭歌では、後半が『七つを一頭へ返す』になっている」とハダン。
「帰り、が消えた?」とハル。
「古語の返しは、帰路と返還の両方を持つ」
「一頭へ集めるとも読める」
「読める。だが、前半は明確だ。『一歩を七つへ預ける』」
「王が分けた?」
「文だけでは、何を分けたか不明です」とセレナ。
ロロは歯の棚と骨橋の波形を重ねる。
「七頭。七つの拍。七つの鍵。七方向の風」
「偶然の七が多すぎる」とカイル。
「祭では七が多い国だ」とハダン。
「祭だから七へ揃えたのか、七つあるから祭が七になったのか」とハル。
「順序を調べます」とセレナ。
その時、保管庫の外で鍵が回った。
一番。
三番。
六番。
二番。
五番。
四番。
七番。
扉が開く。
ラハナ・セヴが立っていた。
背後に、七脈院の衛士。
「避難経路の確認にしては、長い滞在でした」
セレナが証羽を伏せない。
「崩落後、保管庫へ避難。内部で複数個体の乳歯と旧名札を発見。現場保全中です」
「それらは王葬記録です」
「七個体分です」
「王へ奉じられた時点で、王の記録となります」
「記録上の分類と、生物学上の個体数は別です」
ラハナの手首で七本の鍵が鳴る。
「ここを封鎖します」
「誰から」とハル。
「混乱から」
「混乱する人に、本人たちも入る?」
「奉身仔は記録を読みません」
「読めないから消していい?」
「国を維持するためです」
ガンガが一歩前へ出る。
「薄紫の拍はどこだ」
ラハナの目が動く。
ほんの少し。
「何のことです」
「七つの一つ。村の仔と同じ拍が止まった」
「療舎へ移しました」
「どこへ」
「王心へ」
「何をする」
ラハナは、七つの歯を見る。
「一頭を完成させます」
保管庫の外で、遠い鎖の音がした。
薄紫の拍は戻らない。
七番目の名札には、ルゥと書かれていた。