第276話 第六章「国のための一頭」後編
「子どもを労働力へ数えるな」とカイル。
『住民として数えろ。避難だけ命じられる方が怖い』
カイルは一度黙る。
「本人ごとに参加を聞け。断った子を責めない。大人の代わりにしない」
『注文が多い王子だ』
「王子だから、注文が命令に化けるのを知ってる」
北岩根の薬庫番が、声を落とす。
『薬箱は二十箱だけ先に運ぶ。残り十箱は、道が保つなら後だ』
「全部でなければ意味がないんじゃ」とハル。
『全部を守ろうとして運び手が落ちたら、箱が三十増えるわけじゃない』
一つの正しさが、少しだけ自分の重さを下ろした。
西湿原は汲み上げ参加者を募る。
南断崖は入港船へ王の状態を「確認不能」と送る。
東塩盆は保険契約の停止前に救命船だけを例外とする条項を探し始める。
まだ解決ではない。
一頭を完成させる案も消えていない。
ただし、一時間を得るために、七つの生活がそれぞれ別の仕事を始めた。
「国は誰だ」とガンガがもう一度言う。
今度、答えは一人の口から出なかった。
薬箱を二十へ減らした者。
水を汲むと手を挙げた者。
確認不能と書く者。
契約の例外を探す者。
国は、王の名前で一つになる前に、互いの知らない仕事を同時にしていた。
ハダンが塩粒を七つ並べる。
「災害時は、一人が決めねば遅れる」
ガンガが見る。
「一頭を選べと?」
「そうは言っておらん」
「同じ形だ」
「違う。今の地面は待たん」
「待たないから、六頭を切る?」
「代案を出せ」
「探している」
「探している間に落ちる村がある」
ハダンの恐怖は、理屈ではない。
十三歳の雨期。
長老たちが合議を続けた間に、妹と群れの三割を失った。
決めないことの死者を知っている。
ガンガも知る。
九歳の時、全員を一拍へ揃え、静かな小群れの退路を塞いだ。
決めすぎることの負傷者を知っている。
「一頭へ集める以外に、七つを止めない方法を探す」とガンガ。
「期限」とハダン。
「一時間」
「長い」
「短い」
ネムが書く。
『一時間後、決めるのは誰』
「俺ではない」とガンガ。
「候補だ」とラハナ。
「候補だから、一頭を指す役へ俺を使うな」
「では国が決めます」
「国は誰だ」
ラハナは答えない。
七本の鍵が、彼女の手首で鳴る。
代案を探す一時間の中で、ロロは移送台の図面を開いた。
若獣を王心へ運ぶための寝台。
七本の固定帯。
呼吸管が六本。
中央へ王心を流す一本。
「外す取っ手が、外側にしかない」とハル。
「鎮静中の誤操作防止」とラハナ。
「本人が起きても?」
「処置中は起こしません」
「起きないようにするから、外せなくていい?」
「外せないから、起こさない?」とロロ。
二つの言い方は、輪になった。
カイルが図面を裏返す。
裏には古い改訂履歴。
初期型には、内側へ噛んで引く革紐があった。
三十六年前、「搬送効率低下」の理由で撤去。
二十二年前、「王心流出防止」のため固定帯を五本から七本へ増設。
九年前、「不安反応抑制」のため目隠しを標準化。
「安全を足すたび、逃げ道が減ってる」とハル。
「職員にとっての安全です」とセレナ。
「若獣へ危険がなかったとは断定できません。ただ、誰の安全を測ったかは記録できます」
ロロは補助腕で、図面の上へ一本の仮線を引く。
「内側から切れる帯。噛む力が弱くても外れる。外で誤作動したら、外側からもう一度固定できる」
「今から作れる?」
「一台なら十五分。七台なら無理」
「一台を作れ」とカイル。
「誰のため」とガンガ。
「今、運ばれそうな一頭。残り六頭の出口を諦める意味じゃない」
「一頭だけ特別にする」
「順番を付ける。価値を付けるな」
カイルは王族印を出さない。
改造指示の下へ、自分の名だけを書く。
失敗した時、王家の命令へ責任を隠さないため。
成功した時、王家の慈悲へ功績を集めないため。
ロロは作業へ走る。
「走るな」とエリア。
「十五分!」
「転べば二十分!」
「合理的に走る!」
「その言い方を禁止します!」
会議床から、工具の音が遠ざかった。
自由へ届くか分からない一本の革紐が、国の完成処置より先に作られ始めた。
王心の外では、ノクスが囲まれていた。
七脈院の祭礼係。
肺守。
タル村の拍役。
中央へ、低い柵。
柵の内側に、七つの古い誓札が置かれている。
王へ忠誠を誓った群れ。
返還を約束した院。
帰還を約束した療舎。
破られた約束の匂いが、層になっている。
ノクスは自分から柵へ入った。
「出ろ」とハルは言わない。
柵の扉を開いたままにする。
「この獣なら、最初の破約を探せる」と拍役。
「探せるのは匂い」とハル。
「最初の嘘が分かれば」
「古い匂いが最初とは限らない。強い匂いが悪いとも限らない」
「だが役に立つ」
「役に立つから、置いていい?」
「本人が入った」
「出る時も本人が決める」
拍役は柵の扉へ手を伸ばす。
ハルがその手の前へ立つ。
「閉めるな」
「逃げる」
「逃げられるのが入口だ」
「調査にならぬ」
「逃げられない調査は、調査じゃなくて拘束」
ノクスは誓札の間を歩く。
右の尾が一枚へ。
左の尾が別の一枚へ。
匂いが多すぎる。
背ひれが伏せられ、身体が細くなる。
恐怖している時の形。
ハルは呼ばない。
赤い布環だけを、開いた扉の外へ置く。
ノクスが見る。
まだ出ない。
「助けないのか」と拍役。
「助けるって、俺が決めて連れ出すこと?」
「苦しんでいる」
「だから出口を空けてる」
「遅い」
「遅くても、ノクスの一歩だ」
ハルの左肩が無意識に回る。
待つのが怖い時の癖だった。
同じ頃、自由港では旗が二つ上がった。
ミラ・ベルウェザーは、片方を切り落とさなかった。
「見栄えが悪い」と彼女は言った。
救難桟橋の左に、青い旗。
救助後の記録署名を求める船団。
右に、橙の旗。
署名を一切条件にしない船団。
真ん中の柱だけ空いている。
「見栄えで憲章を作るな」とジル・カスク。
銅笛を噛みながら、紙の匂いを嗅ぐ。
「見栄えは港の信用に三・二割影響する」
「傷ついてる時ほど小数が増えるな」
「傷じゃない。運営損失」
「船長じゃなくなっても、言い方だけ船長だな」
「訂正。救難操舵手」
机の下から、パルが言う。
「どっち入れば飯ある?」
「両方」とミラ。
「署名は」
「青は後で聞く。橙は聞かない」
「聞かないって、名前も?」
「必要な治療情報は聞く」
「答えない時」
「救助はする」
「じゃ違い、何」
ミラは風鈴ピアスを鳴らす。
「青は費用と再発防止を追える。橙は追われたくない人が使える」
「一つにしないの」とパル。
「一つにすると、どっちかが落ちる」
「ミラの港なのに」
「港はあたしの物じゃない」
「前は船団、家族じゃないって言ってた」
「今も乗組員」
「二つになったら」
「別の乗組員」
「さみしい?」
ミラは金額を言わない。
風鈴も鳴らさない。
「保留」
ジルが咳のように笑う。
「便利な語だけは、海を越える」
青と橙の旗が、逆向きの風へはためく。
憲章は全員を一つにまとめなかった。
救難路は、二つのまま続いた。
王心へ、警報が入った。
薄紫の管が一度だけ光る。
ルゥ。
乳歯札に残った最も若い名。
地上の療舎から、移送台へ載せられたという報告。
「誰の命令」とセレナ。
「緊急封鎖権」とラハナ。
「あなたの指輪」
「国の権限です」
「あなたの手にある」
ラハナは立つ。
「一時間は与えられません。北路の浮力が二割低下しました」
「待て」とガンガ。
「待った結果を、私は知っています」
「俺も知っている」
「なら選びなさい」
「選ばない」
「それも選択です」
「そうだ。だから責任を逃げない」
遠くで鎖が動く。
六つの拍が、一斉に強くなる。
薄紫の拍を迎えるため、中央へ引かれている。
ノクスが柵の中で低く鳴いた。
まだ外へ出ない。
王心の下で、巨大な輸送路が開いた。
弱った一頭が、国のための一頭にされようとしていた。