第292話 第二章「七頭、七方向」後編
七頭の進路を、ガンガは一つずつ聞き直した。
聞く、といっても心拍を深く探らない。
足跡。
新しい皮の向き。
呼吸。
背負う地域の荷重。
住民が今向かっている場所。
ナアは北の低温草地。
体表が厚く、古皮の岩区画を最も多く載せられる。ただし速度は遅い。
ユルは西の雲湿地。
水を失えば呼吸膜が乾く。乾いた高地へ集めることはできない。
カラは南東の赤土隆起。
種庫と畑土を載せるが、停止と再出発を繰り返すと脚を傷める。
セトは上昇気流のある樹冠帯。
吊り根の橋市は移せるが、風膜鹿の群れと人の避難路を分ける必要がある。
ミイは東の塩風路。
薬草と塩井を運ぶ。湿った避難船へ全員を集めれば、ミイも薬も傷む。
ドゥは南断崖の外側。
港と外来船を載せる。内陸へ向ければ船索が脚へ絡む。
ルゥはタル谷から、名前のない草地へ。
最も小さく、最も遅い。王心と中央宮殿の荷重が近くに残っている。
「七方向」とハル。
いつの間にか戻っていた。
右頬へ土。
左肩の固定帯は少しずれている。
「肩」とガンガ。
「二」
「嘘」
「二・五」
「小数は嘘を薄くしない」
「誰に習った」
「見て覚えた」
「悪い教育」
「座れ」
「今それ、俺の台詞」
「順番は所有できん」
ハルは座らない。
代わりに固定帯を締め直す。
「一頭ずつ別の道なら、国は」
「七つへ分かれる」
「分けるの、怖い?」
「怖い」
「王になれなくなる?」
「王になれば、一つへ戻せと言われる」
「戻したい?」
ガンガは答えない。
長い沈黙。
ネムが床へ指を二度当てる。
答えを急かさない合図。
「一つなら」とガンガ。「聞く場所が一つで済む」
「楽?」
「責任を取る場所も一つだ」
「楽じゃない顔」
「お前は顔を証拠にするな」
「セレナへ怒られるから観測」
「同じだ」
「違うらしい」
ハルは地図の端を指す。
「七頭が行きたい方向は分かった。上の人は?」
「まだ」
「聞く?」
「聞く」
「全部」
「全部を同時には聞かん」
言った後、自分で驚く。
昨日までのガンガなら、全員の拍を一度に受けようとした。
聞き落とすことを恐れて、聞ける範囲を広げた。
広げた結果、小さい一人を大きな群れへ溶かした。
「一地域ずつ」とガンガ。「期限を付ける。言えない者の時間も残す。だが、全員が同時に納得するまで七頭を止めない」
ハダンが杖を鳴らす。
「ようやく、決めぬことも決めたことだと分かったか」
「お前は言い方が腹立つ」
「覚えやすいだろう」
「歌にするな」
「もう一節できた」
ネムが小板へ書く。
『韻が悪い』
「お前たちは伝統への敬意がない」
『理由は覚える』
「歌は」
『直す』
ハダンは口の端で笑った。
七つの進路が分かった後も、避難先は決まらなかった。
獣が歩ける場所と、人が暮らせる場所は同じではない。
ナアの北には黒い岩棚がある。
足場は強い。
冬の風が早く来る。
北岩根の者は喜んだ。
「石がある」
西湿地の者は首を横へ振った。
「水がない」
ユルの西には雲を溜める盆地。
水はある。
乾燥薬は腐る。
カラの南東には赤い新層。
畑へ向く。
飲み水の位置が分からない。
安全という言葉は、危険が一つしかない時に使いやすい。
落ちない。
それだけなら岩棚。
凍えない。
水を失わない。
薬を腐らせない。
家畜を連れていける。
墓へ戻れる。
条件を増やせば、安全地は一つでなくなる。
「全部の条件を満たす場所は」とガンガ。
エリアは七枚の仮板を重ね、答える。
「今の観測範囲にはありません」
「探す時間」
「旧皮の分離が先に来ます」
「なら最も多く満たす場所」
「誰の条件を多く数えるかで変わります」
「病人を重く」
「病人にも湿度の高い場所を必要とする人と、避ける人がいます」
「子ども」
「年齢だけで一つにしないで」
「ではどう選ぶ」
「分ける」
ガンガは七頭を分ける覚悟をし始めた。
人まで分かれる答えは、まだ飲み込めない。
各地域へ、三つの問いを送った。
何を持たなければ、明日生きられないか。
何を置いていけば、明日生きても自分ではなくなると思うか。
誰と同じ道を選びたいか。
返答は、荷重表より多かった。
北岩根。
『冬穀、患者棚、石工道具。王像は意見割れ。家族別路あり』
西湿地。
『種水、魚卵、舟。墓杭を水へ戻したい者十三』
赤土台。
『種庫優先。家畜は歩かせる。水樽不足。北へ行く子ども二』
樹冠区。
『吊り家より根橋。風膜鹿の繁殖路。中央船希望あり』
東塩盆。
『薬草、塩井の母泥、口覆い。湿地へ同行希望五』
南断崖。
『港索、船籍板、検疫中の外船。土地より航路』
タル谷。
『返答保留。中央宮殿の正統命令を待つ』
「最後だけ、何を持つか答えてない」とハル。
「持つ物を決める前に、誰へ従うかを決めたい」とガンガ。
「逆じゃない?」
「彼らには、命令が生活の形だった」
「王が死んでたのに」
「死んでいたことを知らなかった。命令は生きていた」
国家は、生き物より長く生きることがある。
王が死んでも、王の名で作られた道、税、席順、祭歌は残る。
残った仕組みは、自分を生きていると信じさせる。
ガンガは七地域の代表を一か所へ集めなかった。
集めれば移動時間がかかる。
集められた者だけが全体を決める。
伝羽を七方向へ開き、順番に聞く。
最初に北。
「ナアが北へ行く。岩棚へ何人載せられる」
『公称二千』
「公称は何を入れた」
『立っている成人』
「寝台、荷、冬穀を入れ直せ」
次に西。
「ユルの水盆へ、他地域から来る者を受け入れられるか」
『水を汚さない条件』
「誰が汚すと決める」
『外から来た家畜』
「人は」
沈黙。
「外から来た人もか」
『病の検査が必要』
「検査前に落ちる者は」
『……一時筏』
次に赤。
『水を持ってくる者なら受け入れる』
「水を持てない病人は」
『誰かと組む』
「組めない者は」
また、制度の外。
ガンガは答えを与えない。
「その欄を空けるな。誰が運ぶか、現地で決めて返せ」
樹冠。
「外部群の狩場と重なる」
『先に着いた方』
「先着を所有にするな」
『では交渉』
「相手の群れへ伝羽は」
『ない』
「鹿守を出す」
東塩盆。
南断崖。
答えは一つずつ条件を増やす。
ガンガは、全体を聞けば全体の意思が見えると思っていた。
実際には、全体を聞くほど、全体という一枚の答えが存在しないことが分かった。
「王は大変」とハル。
「候補だ」
「候補の時点で」
「王なら、最後に決められる」
「楽?」
「速い」
「同じ?」
「違う」
「今、言葉の違い分かった」
「お前に教わったと思わせるな」
ハダンは、古い脱皮歌を歌った。
若い頃に覚えた十六節。
『古い背を離れ、王の鐘へ集え。
七つの足は一つの影を踏み、
北の石も西の水も、王心へ帰る――』
「歌が一つへ集めてる」とハル。
「今の祭務版だ」とハダン。
「古い版は」
「末尾が違う」
彼女は一節、声を止める。
「忘れた?」とガンガ。
「削られた」
「誰に」
「私が習う前だ」
ネムが古い骨板の写しを出す。
文字は欠けている。
『七つの足は――影を踏まず』
その後が読めない。
「反対の歌?」とハル。
「断定するな」とセレナの伝羽。「欠字を都合よく補わない」
「でも、削られた場所がある」
「観測事実です」
ガンガは歌を答えに使わない。
ただ、一つへ集める伝統だけが古いとは限らないことを覚える。
王が一頭だった歴史の前に、別の歩き方があったのかもしれない。
かもしれない、まで。
今の避難を、古い歌の権威で決めない。
最初に出発できなかったのは、ルゥだった。
タル谷と王影谷の境。
最も若い獣は、名前のない草地へ前脚を向けている。
だが背中へ載るべき村人が、旧皮から動かない。
王像を支えてきた祭司。
中央宮殿の書記。
王心周辺で暮らした商人。
墓地を守る家々。
彼らは白い旧皮へ縄を掛け、緑の新しい背へ渡る仮橋を外していた。
「国を捨てろと言うのか!」
「ルゥへ移る」とガンガ。
「獣の背だ!」
「今までも獣の背だ」
「王の背だった!」
「死んだ王の古皮だ」
「だから離れられん!」
理屈ではない。
八十四年、死を知らずに暮らした。
昨夜、王が死んでいたと知った。
今日、地面まで古い皮だと言われた。
人は一日に、国、王、家、墓の意味を全部変えられない。
「時間をくれ」と祭司長。
「どれだけ」とガンガ。
「王族と中央宮殿の命令を待つ」
「命令が来れば動く?」
「正統な命令なら」
「誰が正統を決める」
「王だ」
「王獣は七頭だ」
「人の王だ!」
ガンガは反論を飲み込む。
王になるなら、ここで一言出せばよい。
俺が命じる。
その声を、皆が待っている。
待たれているから正しいように感じる。
ガンガは胸を叩かない。
「俺は命じない」
「なら王ではない!」
「今は候補だ」
「逃げるのか!」
「違う。お前たちが行き先を選ぶ時間を置く。期限は、旧皮の角度が十二度へ達するまで。ネムが七つの行き先と危険を説明する。沈黙は賛成に数えない」
「期限後は」
「動ける者から動く。残る者を置き去りにするとは言わん。全員を一つの答えへ待たせるとも言わん」
祭司長は唇を噛む。
ルゥが一歩を出しかける。
背中の綱が張る。
旧皮へ結ばれた住民の縄が、若い獣の身体を止める。
ルゥは歩かない。
自分で止まったのか。
人間の重さで止められたのか。
まだ、誰にも分からない。
七頭のうち六頭が、別々の空へ進む。
七頭目だけが、国の返事を待っていた。