第293話 第三章「中央宮殿の命令」前編
国家が平均を使うのは、誰かを嫌っているからではない。
千人の歩行速度を一人ずつ測れない。
千戸の食事量を一皿ずつ決められない。
税、橋、学校、避難所。大きな仕組みは、人の違いを数字へ畳まなければ動かない。
問題は、平均が嘘であることではない。
平均から外れた者が、数字の外へ落ちても見えにくいことだった。
中央宮殿は、まだ空へ浮いていた。
白い旧皮が周囲から剥がれているため、宮殿区画だけが巨大な皿のように残り、その下へ濃緑の新層が脈打っている。
七本の塔。
王脈院。
祭務会館。
国境誓術庁。
そして、王族避難船アウレリア。
金の船腹。
客室百二十。
王家、祭司、行政中枢、外国賓客を運ぶための船である。
「景気の悪い船だな」
カイル・アークレイは言った。
「金色です」とセレナ。
「見た目じゃない。空席の方が人より多い」
「搭乗開始前です」
「広場は満員だ」
宮殿前には、避難民が三列。
許可札を持つ者。
審査待ち。
札を持たない者。
船の入口は一つ。
王族用の上部桟橋は空いていた。
中央救難局の命令書が、伝羽で七地域へ飛んでいる。
『全住民は中央宮殿へ集結。王族避難船および周辺浮艇へ収容。各地域は最短路を使用し、個別進路を停止せよ』
数字だけ見れば、合理的だった。
アウレリア三千二百人。
周辺浮艇八千四百。
宮殿区画の一時浮力一万五千。
現在確認された避難対象、一万一千六百八十二。
数えれば入る。
通れれば、という条件が書かれていない。
カイルは命令書を畳み、許可札を持たない列へ入った。
「殿下、こちらは」と侍従。
「札がない」
「御身には上部桟橋が」
「脚は同じ階段を上れる」
「警護上」
「俺が列へ入ると危険なら、この列にいる全員も危険だ」
侍従は反論できない。
代わりに、護衛二人が列の左右へ付く。
「王族一人で幅三人」とハル。
「尊厳の横幅」
「邪魔」
「分かってる」
列は進まない。
入口で聞かれる項目が多い。
氏名。
所属地域。
家族人数。
家畜。
感染症。
持込荷物。
王家への忠誠宣誓の有無。
「最後、避難に要る?」とカイル。
受付書記は疲れた目を上げる。
「王族船への搭乗規定です」
「忠誠を誓わないと、船が軽くなるのか」
「身元不明者の混入を防ぎます」
「忠誠心は身分証?」
「虚偽なら罰せられる」
「今、罰する時間がある?」
「規定です」
カイルの前は、杖を持つ老人。
「名は」と書記。
老人が答えない。
「聞こえていますか」
老人は耳を指す。
聴覚が弱い。
書記が大声になる。
「お・な・ま・え!」
老人はさらに顔を背ける。
「大声で聞こえる種類じゃない」とハル。
「筆談板」とカイル。
「備品は上部受付に」
「ここへ持ってこい」
「上部は王族専用です」
「板に身分があるのか」
ハルが自分の配達札を裏返し、炭筆で書く。
『名前を言いたい?』
老人は首を横へ。
『乗りたい?』
頷く。
『何人?』
指を二本。
背後に、目を閉じた女性。
『医療?』
老人は自分の胸、女性の頭を指す。
病名は分からない。
「名前なし、二人。片方歩行介助。片方意識低下」とハル。
書記が困る。
「名簿へ入れられません」
「人数へ入れろ」とカイル。
「後の照合が」
「照合できるまで入口へ置くのか」
「規則を外せば、二重搭乗が」
セレナが間へ入る。
「一時札。時刻、受付位置、身体特徴、本人が名を拒否。本人へ控えを渡す。後から名を求める場合は理由を説明」
「規定外です」
「誰の責任で作る」とカイル。
「殿下が?」
「書記の名も」
「なぜ私が」
「運用した人間を消さないため」
書記はためらい、自分の名を書く。
老人へ一時札を渡す。
列が一人分進む。
その後ろは、山羊を三頭連れた女。
「家畜は不可」と書記。
「乳がないと赤ん坊が食べない」
「船内衛生」
「赤ん坊は乗れる?」
「人は」
「乳は荷物?」
カイルは山羊を見る。
山羊も彼を見る。
「船の飼料」と書記。
「ない」
「何日航行する」とカイル。
「未定」
「なら、不可の理由を衛生だけにするな。飼料と糞処理、揺れ、他の病人への影響。代替乳があるか」
「医療区画に二日分」
「二日後は」
「補給予定」
「予定地は」
「未定」
「未定が増えたな」
山羊三頭を全部乗せるとは決めない。
乳を絞れる者、保存容器、代替食、赤ん坊の状態を確認する。
一頭だけ、換気のある下部区画へ。
二頭はドゥ側の家畜船へ回す。
「家族を分けるのか」と女。
「山羊は家族?」
「名前がある」
「どの子を連れていくか、あなたが決める。船の条件は説明する」
女は最も若い一頭を選びかけ、止める。
「乳が少ない。こっち」
年老いた山羊。
効率だけなら逆に見える。
本人は、どの一頭が赤ん坊の匂いへ慣れているか知っている。
列がまた進む。
入口から船室まで、カイルは自分で時間を測った。
許可札あり。
三分。
審査待ち。
十四分。
札なし、病人あり。
二十七分。
荷の再確認で止まる場合、さらに十一分。
命令書の平均移動時間は、宮殿門へ着くまでだった。
門から乗船までを含まない。
「全員が一万一千六百八十二人、二十七分ずつ待つわけでは」と救難監。
「受付は六列」とカイル。
「増員します」
「書記は何人」
「十四」
「七地域へ報告を返す人員も同じ十四人から」
「緊急招集を」
「その人たちも、ここへ来る時間が要る」
平均が間違いではない。
平均へ入口の時間が入っていない。
数字の外へ落ちたのは、人ではなく工程だった。
「命令を訂正」とカイル。
「全住民集結は維持します」
「遠方は間に合わない」
「一つへ集めなければ、救難資源が分散します」
「分散する土地へ、資源を分ける」
「中央の統制が」
「中央が動けない人を未到着と書く統制なら、先に動かす」
「入る」と中央救難監。
灰色の角帽を被った男は、嘘を言っていない。
「全員、数字の上では入ります」
カイルは命令書を裏返す。
「移動時間」
「平均一時間四十分」
「誰の平均」
「七地域の成人歩行速度」
「寝台は」
「搬送補正を加算」
「子ども、家畜、濡れた坂、動く旧皮」
「緊急時には荷物を捨てるよう」
「薬も種も墓札も、全部荷物の一語か」
「生命優先です」
「生命が明日も続くための物まで、今日の邪魔へするな」
カイルの声量が落ちる。
冗談をやめた王子は、怒鳴る王子より怖い。
エリアが七枚の報告板を机へ置く。
「北岩根から中央宮殿まで、歩行可能者で二時間十二分。寝台搬送は四時間以上。ユルの西湿原は、旧皮の傾斜が五度上がれば中央路が水没します。南断崖は港索を外すまで移動不能。タル谷は住民が進路を決めていない」
「だから命令で集める」と救難監。
「命令は脚を速くしません」とエリア。
「迷いを減らします」
「選択肢も減らします」
「災害時に選択肢は贅沢です」
「行けない道へ全員を集める方が贅沢よ」
言葉が冷える。
カイルは救難監の顔を見る。
悪人の顔ではない。
徹夜。
乾いた唇。
袖へ七地域の連絡札。
彼は全員を一つの表へ載せれば、少なくとも数えられると信じている。
「中央へ来なかった人は、どう数える」とカイル。
「未到着」
「遅れたら」
「未到着」
「別の安全地へ行ったら」
「命令違反」
「死んだら」
救難監が黙る。
セレナが記録する。
「その沈黙は回答拒否ですか、検討中ですか」
「……検討中です」
「記録します」
「今、それが必要か」
「後で『死者も中央避難へ同意していた』と書かれないために」
アウレリアの上部客室は、布まで白かった。
王族用寝台。
外交客室。
随員室。
護衛待機室。
七十八室が空いている。
カイルの名が付いた扉もあった。
『ルーメン王国王太子殿下御座室』
「御座室って、座るだけ?」とハル。
「寝台もある」
「看板が嘘」
「王族の部屋名は、機能より威厳を優先する」
「不便」
「俺もそう思う」
カイルは王家紋章の留め具を外す。
扉の封印へ押す。
「この客室、随員室六、護衛室八、外交食堂一を一般救難へ開放する」
船の侍従が青ざめる。
「殿下の安全規定が」
「俺の規定だ。俺が外す」
「王太子個人の席だけではありません。王国の尊厳を」
「尊厳は寝台へ寝ない」
「万一、殿下が」
「万一が来たら、立ってる」
「護衛は」
「住民の搬送へ」
「国王陛下の許可が」
「今から取ると、何時間」
「遠距離伝羽で最短二時間」
「旧皮が何度上がる」
エリアが答える。
「現在速度なら七度」
「なら、許可を待った責任を父上へ押しつけない。俺が決める」
カイルは右籠手を左拳で二度叩く。
衝動ではない。
決めた合図。
「セレナ」
「記録しています」
「止めないのか」
「違法性は後で審査します。今は生命危険が具体的です」
「優しい」
「事実です」
「その優しさ、乾燥してるな」
「湿ると証羽が傷みます」
ハルが扉を開く。
「誰から入れる」
「近い人から?」
カイルは自分で言って止まる。
近い人から入れれば、遠い人は永遠に後になる。
「到着順だけにしない」とカイル。「寝台、歩行困難、乳幼児、医療が必要な人。護衛室は荷物を持てない人の生活物資。食堂は薬と水。王族の私物は捨てる」
「苺も?」とハル。
「苺は私物ではない。国家的精神安定資源だ」
「捨てる」
「王権への反逆!」
「今の方が景気いい」
カイルは笑う。
笑ったまま、寝台の老人を自分の部屋へ運ぶ。
冗談は逃げ道ではない。
重さを持つための呼吸だった。
王族客室を開けると、空室ではなかったことが分かった。
人がいなかっただけで、物は多い。
外交用の銀食器。
厚い絨毯。
香油。
予備礼服。
果実を冷やす小型気嚢。
苺十二箱。
「国家的精神安定資源」とカイル。
「十二箱?」とハル。
「外交客へ出す予定だった」
「患者の薬棚、置ける」
「十一箱で足りる」
「一箱残すの」
「俺の精神も国家の一部だ」
薬種屋の老女が寝台から言う。
「苺で痛み止めが作れるよ」
「全部使ってください」
「即決!」
「医療資源になった」
「精神は」
「後で根菜を燻す」
「ガンガ化してる」とハル。
侍従たちは、銀食器をどうするかで迷う。
「持ち出せば盗難扱いになります」
「部屋の外へ出すだけだ」とカイル。
「財産目録に移動欄が」
「書け」
「保管先が一般食堂では」
「食器として使う」
「銀は反応薬品へ影響します」と老女。
「じゃ、食事」
「病人へ重い」
「売って薬?」
「今、買い手がいない」
価値の高い物が、必要な時に役立つとは限らない。
銀食器は箱へ戻さず、床の傾きを測る重しに使われた。
皿を等間隔へ置く。
最初に滑った皿の方向で、客室の傾きが分かる。
「王家の銀盤式傾斜計」とハル。
「歴史へ残すな」とカイル。
「記録します」とセレナ。
「残る!」