第305話 第九章「王族を後に」前編

避難には順番がある。

 弱い者から。

 近い者から。

 早く来た者から。

 重要な役職から。

 船を動かす者は最後まで。

 指揮官は最後に降りる。

 どの順番も、ある場面では正しい。

 だから権力は、自分に都合のよい正しさを選べる。

 王が先に逃げれば、国家の継続。

 王が最後まで残れば、英雄。

 どちらの物語も、王以外が何番目だったかを隠しやすい。

 鐘は、耳で聞くより先に床から来た。

 白い石床が一度だけ盛り上がり、柱の中の金属が同時に震え、壁へ掛けた七地域図の留め釘が北から順に抜けた。王獣鈴の音は大きいのではない。逃げ場がない。空気をふさいでも骨へ届き、骨を固めても足元から入る。

 伝羽が一斉に開く。

『北、ナアが旋回。患者棚三列が外へ滑走』

『西、ユルの尾が水路を逆流させた。低地二村、膝まで浸水』

『赤土、カラが二歩目を取り消した。地割れ拡大』

『樹冠、セトが風待ちを中断。吊り根橋、四本切断』

『東、ミイが塩井路を外れた。乾燥薬庫へ湿雲接近』

『南、ドゥが港索ごと中央へ転進。係留船十六、引きずられる』

『若草、ルゥが村を載せたまま傾斜。寝台三、固定中』

 七つの報告は、同じ言葉へまとめられない。

 被害。

 危機。

 混乱。

 どれも間違いではないが、まとめた瞬間に、どこへ何を送るべきかが消える。

「数字を残せ!」とカイル。「『大変』は禁止だ。人、角度、残り時間!」

『王子、命令を増やすな』

 ガンガの声が割り込む。

「これは命令じゃない、報告様式だ!」

『命令を命令でないと呼ぶのは、王の古い病気だ』

「お前が言うな!」

『だから言える!』

 怒鳴り合う間にも、宮殿は中央へ寄ろうとする七頭の力で引かれた。

 天井の漆喰が落ちる。

 救難監が共鳴塔の盤面へ飛びつく。

 カイルは一拍だけ息を止めた。

 止めた息を、問いへ変える。

「誰が鳴らした!」

 カイルの声が中央宮殿を走る。

 共鳴塔の基部。

 三重封印のうち、七地域側の二鍵は赤い。

 外部側も赤。

 中央側だけが白く光っている。

「三者承認ではない」とセレナ。

「では、なぜ」

 救難監が共鳴盤を指す。

「自動召集です」

「禁止した!」

「旧皮分離が規定値を超えた場合、主幹保全命令が優先される」

「図面では召集環を切った!」とロロの伝羽。

『主幹へ戻る予備回路があるとは言った!』

「誰が規定値を設定した」とセレナ。

「三百二十年前の王心法です」

「現在の承認者」

「いません」

「古い命令が、現在の三者を上書きした?」

「制度上は」

 カイルは右籠手を叩かない。

 衝動で壊せば、欠片ごと失う。

「止め方」

「中央王印」

「王はいない」

「だから止められません」

 救難監は勝ち誇らない。

 自分も青ざめている。

 彼は観測だけを望んだ。

 古い制度が、彼の非常判断を借りて召集した。

 王心法。

 三百二十年前、翠獣環には王獣が一頭しかいないと信じられていた時代の法律である。

 その法は、王獣の背を国土と呼び、王獣の心臓を首都と呼び、首都から離れる動きを病気か反乱と定めた。外皮が規定以上に裂けた場合、各部を心臓へ集める。言葉だけなら、破れた帆を縫うのに似ている。

 問題は、いま裂けているものが帆ではなく、成長した七つの身体だったことだ。

「三者封印は、旧法を止めたのではありません」

 セレナが白く光る中央鍵の縁を羽先でなぞる。白の下から、もっと古い黒銀の線が露出していた。

「上へ蓋を置いただけ。通常時は蓋が閉じる。主幹保全値を超えると、蓋の下の回路が直接起動する」

「三人で決める制度の下に、一人で決めた制度が生きてたのか」とカイル。

「制度は埋葬しても腐りません。配線が残れば働きます」

 ロロの伝羽に、油で汚れた手が映る。

『図面の紙質が違う! 三者封印は百四十年前、予備回路は三百二十年前! 新しい技師は古い線を切らず、避けて配管した!』

「なぜ切らなかった」

『切る権限がなかった、切ると全部止まる、切り方を知らなかった、面倒だった。歴史は大体この四つだ!』

「五つ目は」

『後任がやると思った!』

「最悪が増えたな」

 救難監が古い保守札を裏返す。

「主幹保全音は、中央塔だけでなく、外国賓客棟の避雷導管を通ります。百年前の和平改修で、落雷を王心炉へ逃がすために」

「俺たちの部屋が、鐘の喉になっている?」

「正確には、その下です」

「不正確には?」

「あなた方の寝台の下」

「寝心地が悪い理由が国家規模だな」

 冗談を言ったから、怖くないわけではない。

 怖い時ほど、言葉を短くしないと、王族は説明で時間を奪う。

 カイルは白い線、黒銀の線、客室区画の導管を順に見る。

 中央王印がなくても、通り道は自分たちの管理下にある。

 命令そのものを消せないなら、命令が通る身体を一部だけ外す。

 王権ではなく、船の安全権限で。

「制度に犯人をさせるな」とカイル。

「何を」

「今、誰が止めないと決めている」

「止められない」

「違う。止める別手段を探さず、古法へ従うと決めているのは誰だ」

 救難監は答えられない。

 カイルは自分を指す。

「俺もだ。今まで王印がないで止まった。だから、王印以外を使う」

「外国王族の印は適用外です」

「命令権としてはな」

 カイルはアウレリアの運航台帳を開く。

「この船は七地域と外国賓客の共同避難資産。ルーメン王太子には、自国区画の安全を損なう運航命令を拒否する権限がある」

「船の権限です」

「共鳴塔から船へ召集音が流れている。俺の区画を経由してる」

 王族客室を一般開放した時、封印線も開いた。

 アウレリア上部区画は、共鳴塔の補助導管になっている。

「自国区画の導管を切る」

「全体出力が不安定になります」

「今より悪い条件を数字で」

 救難監は計算する。

「召集出力、三割低下。七頭の方向転換が止まる保証なし。船の上部浮力、二割低下」

「人を下へ移す」

「時間」

「何分」

「八分」

「旧皮分離」

「十二分」

「やる」

「殿下!」

「命令じゃない。俺の区画を俺が切る。結果は俺の名で記録」

 セレナの証羽が開く。

「記録します」

「罪状も?」

「後で」

「安心した」

 上部客室は、王族が先に逃げるために造られていた。

 広い廊下。

 手すりの低い階段。

 揺れても閉じない二枚扉。

 医療寝台を曲げずに通せる角。

 身分のための設備は、身分を外せば優秀な救難設備になる。

「こちらを一方通行にする!」

 カイルが青布を階段へ結ぶ。

「上りは禁止。荷物は片手分。歩ける者は壁側、介助は中央。止まったら後ろへ理由を言え!」

「殿下、王冠庫の搬出が」と祭務官。

「燃えるか」

「国家的価値が」

「歩けるか」

「物です」

「なら後だ」

「しかし王冠は王権の」

「今は寝台の車輪より遅い」

 祭務官は口を閉じた。

 侍従二人が、宝箱ではなく酸素筒を持つ。

 廊下の途中で、小さな少年が鳥籠を抱えて立ち止まった。

「鳥は荷物?」

「家族」

「籠は片手分か」

「両手」

「では俺が半分持つ」

 王太子と少年が、一つの籠を左右から持って階段を下りる。

 鳥は揺れに怒って、二人へ同じだけ糞を落とした。

「公平」とセレナ。

「評価が低い公平だな!」

 笑いが一度起きた。

 笑いは避難を早くしない。

 だが、次の一歩を出す時間を短くすることはある。

 上部客室から、人を下ろす。

 寝台。

 親子。

 脚を傷めた守備兵。

 階段は一つ。

 避難させるべき上部区画には、百八十二人いた。

 王族客室へ押し込まれた住民。

 軽傷者。

 乾燥薬を守る薬師。

 運航台帳を抱えた書記。

 王冠箱を抱えた祭務官。

 何も抱えず、何を失ったかまだ言えない子ども。

 人は一八二という数で階段を下りない。

 一人ずつ、速度も、痛みも、手放せない物も違う。

「王冠箱は置け」と甲板長。

「国家継承に必要です」と祭務官。

「寝台二台分だ」

「一台分です」

「抱えてるお前を足せ!」

 カイルが箱へ手を置く。

「中身を分ける」

「王冠を箱から?」

「箱が王ではない」

「祭式上、三重布と台座を」

「何が絶対に必要だ」

 祭務官は答えを言い直す。

「王冠本体。継承印。由来記録」

「重量」

「本体四。印一。記録二」

「箱と台座は」

「十七」

「十七を置く」

「損傷すれば」

「損傷の責任は俺の名へ。人を降ろした責任は、箱を守った者の名へ書く」

 祭務官は唇を結ぶ。

 箱を開ける。

 王冠は、思ったより小さい。

 権威は遠くから大きく見えるように作られる。

 近くで持てば、金属と宝石と、誰かが落とさないように付けた古い革紐だった。

 王冠を布へ包み、寝台の下へ固定する。

 空になった箱は、階段脇へ残す。

「盗まれます」と祭務官。

「今は空だ」

「箱にも価値が」

「後で取りに戻る。戻れなければ、失ったと書く」

 次は書記。

 台帳を胸へ抱いている。

「これは全避難民の給付記録です」

「必要だ。持つ」

「私が」

「階段を歩ける?」

「右足二」

「嘘」

「三」

「台帳を二冊ずつ分けろ。六人で持つ」

「順序が崩れます」

「背表紙へ番号」

「一冊を一人が持つ方が責任が」

「一人が落ちたら全部落ちる」

 責任を集中させると、責任者は見つけやすい。

 物は失いやすい。

 六人へ分ける。

 そのうち一人は、字の読めない荷役だった。

「読めない者へ記録を?」

「落とさず持てる」と荷役。

「中身を改竄されたら」

「封印を見ろ」とセレナ。「読む能力と、運ぶ能力を同じ資格へしないでください」

 階段の途中、王族用の飾り欄干が寝台を止めた。

「幅が足りない!」

「王族寝台はもっと狭い」と侍従。

「王族は横幅まで規格品か!」とカイル。

「礼装時は」

「今は人間時だ!」

 ロロの伝羽が光る。

『欄干の根元、飾り釘じゃなく逆ねじ! 左へ三回、右へ一回、また左!』

「なぜそんな面倒な」

『盗難防止!』

「今は救難防止!」

 カイル、侍従、荷役の三人で欄干を外す。

 王家の百合紋が付いた銀柱が床へ倒れる。

 侍従が反射的に布を敷こうとする。

「先に寝台」とカイル。

「傷が」

「柱へ付く」

「はい」

 寝台が通る。

 銀柱には、初めて人を通した傷が付いた。

 その傷を後世が無礼と呼ぶか、救命と呼ぶかは、後世の自由である。

 今は、通れたという事実だけでよかった。

「王族桟橋を使え!」とカイル。

 侍従が戸惑う。

「下層民を上部へ?」

「今、上から下へだ!」

「名称が」

「階段は身分を読まない!」

 カイルは寝台を担ぐ。

 左腕。

 肋骨、二。

 背中の火傷、熱。

「痛み」とセレナ。

「一・五」

「嘘」

「二」

「それでも低い」

「今、忙しい」

「忙しさは痛みを減らしません」

「後で増やす」

「請求ではありません」

 老人が寝台から言う。

「王子、落としたら呪うよ」

「またあんたか!」

「薬種屋は客が多い」

「今日は再会が多すぎる!」

「王族の部屋、寝心地悪かった」

「国へ改善要望を」

「帰れたらね」

 帰れたら。

 カイルは笑わない。

「帰す」

「断言するのかい」

「努力目標だ」

「弱い」

「王族の言葉を短くした」

「なら許す」

 共鳴導管を切る。

 ロロの指示が伝羽から飛ぶ。

『赤管じゃねえ、赤い札の下の灰管!』

「見分けにくい!」

『三百年前の設計者へ言え!』

「会ったら叱る!」

『死んでる!』

「歴史へ!」

『それはセレナの管轄!』

「私へ投げないでください」

 カイルは盾型籠手を灰管へ差し込む。

 守る人数で燃える王盾〈レグルス・ガード〉を、攻撃へ使わない。

 導管の逆流から、下層の避難民を守る壁にする。

 深紅の炎が半円へ広がる。

 守る人数が増えるほど強い。

 同じだけ、痛みが返る。

 灰管を外す。

 共鳴音が割れた。

 一つの長い鐘が、七つの濁った音へ崩れる。

 カイルの肋骨へ衝撃。

「三!」

 先に言う。

「継続時間」とセレナ。

「十拍!」

「五拍で交代!」

「交代できる盾がいない!」

「では解除!」

「人が下りるまで!」

 痛みを理由に一人で残る。

 母と同じ形。

 カイルは歯を食いしばる。

「ハルへ伝えろ!」

「何を」

「助けてくれ!」

 公の場で言う。

 王子が、友人へ助けを求める。

 盾は一人で支えるものではない。

 伝羽が飛ぶ。