第313話 第一章「千枚の入口」前編

扉は、壁に付く。

 これは多くの世界で常識とされている。

 壁が内と外を分け、その境へ穴を開け、穴に板を付け、板を開け閉めする。人間はそれを扉と呼んだ。つまり扉とは、壁が先にあることを前提とした道具である。

 鏡砂と仮面外交の空域〈サリフ〉では、順番が逆だった。

 先に扉がある。

 その扉をくぐった者たちが、向こう側に家を作り、井戸を掘り、市場を開く。

 壁は後から、必要な時だけ立てる。

 後世の歴史家はこの違いを、定住文明と経路文明の差と書いた。

 現場にいたハルは、もっと短く言った。

「壁がないなら、どこから不法侵入になるんだろ」

「到着して最初の関心がそれですか」

 エリアは薄緑の遮光片を左眼へ下ろした。

 ゼロスター号の前方には、砂漠が立っていた。

 地面ではない。

 金、白、紫、黒。

 粒の一つ一つが光を返す鏡砂が、空へ向かって巨大な斜面を作っている。斜面は雲より高く、風が吹くたび一部が上へ流れ、一部が横へ落ちる。遠くには細い鏡柱が何百本も立ち、そのどれも別の地平を映していた。

 右を見れば夜。

 左を見れば昼。

 正面の鏡には、ゼロスター号自身の後ろ姿。

「船の後ろが前にある」とハル。

「像です」

「分かってる。分かってるけど、前へ行くほど後ろへ近づく景色、酔う」

「内耳」

「零」

「方向感覚」

「二」

「鏡酔い」

「いま作った?」

「地域医療語です」

「医療語彙表にある?」

「ありません」

「じゃエリア語」

「症状名を勝手に所有させないで」

 右踵一。

 左踵一。

 呼吸一。

 エリアは申告してから、船首観測台へ上がった。

 大地替えから九日。

 ハルの左肩は日常動作なら痛み零、頭上へ腕を伸ばすと一。零星針を強く使った後に残っていた方向感覚の乱れも、睡眠と食事と、セレナが本人の希望を聞かず組んだ休養表によって二まで戻っている。

「希望は聞きました」とセレナ。

 背後で黒い外套が揺れた。

「聞かれた記憶がない」

「『休む』『眠る』『拘束して眠らせる』の三案を示しました」

「三番目が選択肢にいる時点で圧が強い」

「あなたは一番目を選びました」

「選ばされた」

「選択結果です」

 カイルが船腹の懸架架を見下ろす。

 第二の天鍵、王獣鈴。

 黒銀の大きな弧は四本の索で吊られ、七地域の共同保管札が別々の溝へ結ばれている。鳴らしてはいない。使う権限もない。ただ風と船の機関音を受け、時折、砂のような細い返響を寄越した。

「今朝から七重が六回」とカイル。「王族の勘では、歓迎されている」

「王族の勘を証拠へ入れません」とセレナ。

「旅人の勘なら」

「同じです」

「犬の勘」

 ノクスがカイルの足を噛んだ。

「反対らしい」

「翻訳権を勝手に取らないでください」

 ノクスは鏡柱に映った自分へ毛を逆立てていた。

 鏡の中では、黒い小獣が七匹に増えている。

 実物のノクスは一匹。

 映っている像は七。

 七個並んだ像から一個を外すことはできない。

「ナァァァ」

「人生で初めて、自分の癖に負けてる」とハル。

 ノクスはハルの耳を噛んだ。

「八つに見える!」

「あなたを足して八です」とエリア。

「数え方が痛い」

 ロロは船腹から顔だけ出した。

「遊んでる場合じゃねえ! 王獣鈴の右後ろ索、砂が噛んでる! これ鏡砂か? 普通の砂か? 普通じゃねえ砂って何だ!」

「材質は」とセレナ。

「主成分は珪晶。表面に偏光膜。こいつ、落ちる向きで裏表の反射率が違う」

「砂にも表裏?」とハル。

「薄い板みてえな粒だ。飛ぶ時は鏡、積もる時は砂」

「便利」

「機関へ入ったら最悪」

 ロロが砂粒を歯へ当てる。

「歯で調べるな」と全員。

「振動だ!」

 その時、王獣鈴が一度だけ震えた。

 音はしない。

 船首の窓へ、壁のない扉が映る。

 大地替えの夜に一度だけ見たものと同じだった。

 砂漠の中央。

 何も支えていない長方形の枠。

 向こう側には、赤い天幕。

 天幕の前で、誰かが鏡片を三度、空へ向けた。

 間。

 一度。

 間。

 三度。

「救難信号」とカイル。

「サリフ式?」とハル。

「三、一、三は『門路不明、生活路あり、外部救援を求む』」とエリア。「鏡門史の授業で」

「授業で救難信号まで」

「試験範囲です」

「命懸けの暗記」

「命懸けだから試験にします」

 像が乱れる。

 赤天幕の背後で、鏡が何枚も回った。

 同じ人物が七方向へ増え、その全部が別々の救難信号を出す。

「どれが本物」とハル。

「像は全部、本物の光を中継している可能性があります」とセレナ。

「答えが厳しい」

「正確です」

 エリアは窓へ地図針を近づけた。

 光の路図は伸びない。

 彼女の能力は、測定済みの場所しか結べない。

「窓の表面に像。外部空間へ座標なし。大地替えの夜と同じです」

「でも今は救難信号が見える」

「観測事実が増えました」

「行く?」

「行き方がありません」

 ハルは窓枠へ手を置いた。

 冷たい。

 ノクスが右の尾で王獣鈴を指し、左の尾で窓を指した。

「鈴と窓を結べって?」

「ナゥ」

「肯定?」

「翻訳は」とセレナ。

「仮説」

 ロロが船腹から叫ぶ。

「鈴を使うのは禁止だぞ!」

「鳴らさない」

「接続も使用だ!」

「近づけるだけ」

「近づけた結果が使用なら?」

「停止権、一地域でも危険を示したら再検討」とエリア。「現在、七地域への伝羽は砂嵐で不安定。能動命令は禁止。受動観測の位置変更だけなら保管条件内です」

「長いけど、やっていい?」とハル。

「王獣鈴を船首側へ一セム移すところから」

「一セム」

「一歩は不可」

「一セムで世界変わる?」

「変わったら止められます」

 共同保管は遅い。

 遅いが、遅さを無駄と呼ぶのは、誰か一人が速く決めた結果へ巻き込まれない者だけである。

 ロロが四本の懸架索を順に緩める。

 右前、一目盛り。

 左前、半目盛り。

 右後、砂を除去。

 左後、張力維持。

 王獣鈴が船首へ一セム近づく。

 窓の扉が、半歩だけ開いた。

 向こうの風が吹く。

 熱い。

 乾いている。

 塩に似た匂い。

 鏡門の向こうにある「裏の海」を通った時に残る塩露が、窓枠へ一滴だけ付いた。

「道」とハル。

「仮接続」とエリア。

「扉」

「観測面が通過面へ変わった可能性」

「行ける?」

「物を先に」

 ノクスがロロの工具袋から一番高そうな銀ネジをくわえた。

「それを投げるな!」

 遅かった。

 ノクスは窓へ放った。

 銀ネジが光の表面へ入り、赤天幕の前へ落ちる。

 向こうの人物が拾う。

 こちらへ向けて見せる。

「物質通過、成立」とセレナ。

「俺のネジ、返却不成立!」とロロ。

 鏡の向こうの人物が、ネジを再び投げる。

 窓から戻る。

 ただし三秒遅れて、塩露に濡れ、少し冷たくなって。

「往復」とハル。

「同一面が双方向とは限りません」とエリア。「相手側で別の鏡へ投げた可能性」

「扉って、面倒」

「壁へ付いた板より複雑です」

 カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。

「役割を決める。俺は盾。権限は救難中だけ。サリフの行政命令は出さない。セレナは記録と撤退判断。エリアは経路。ロロは門の安全。ハルは」

「先行」

「言うと思った。先行は二人」

「誰と」

「俺」

「王子が先」

「王子じゃなく救難員」

「王盾持ち」

「肩が外れやすい少年より向いてる」

「肋骨」

「痛み一」

「背中」

「一」

「膝」

「一」

「全部一なら三」

「足し算するな」

 エリアが割り込む。

「先行はハルと私」

「なぜ」とカイル。

「向こう側の鏡路を読める者が必要。ハルは一度走った道の段差を覚える。あなたは三番目で盾を展開し、通路を固定」

「肺」とハル。

「呼吸一。高高度ではない。違和感二で申告」

「踵」

「一。鏡砂用平底へ変更」

「成立」

 カイルは少し笑う。

「二人で門をくぐる相談が自然になったな」

「何の話」とハル。

「景気のいい話」

「証拠なし」とセレナ。

「王族の勘」

「却下」

 エリアは白い日傘を地図槍へ変える。

 ハルは赤いマフラーを短く結び、配達鞄の留め具を確認する。

 左肩一。

 耳鳴り零。

 方向感覚二。

「一、二、三」

「跳ばないで」とエリア。

「数えただけ」

「第五月冠祭以来、その前置きは信用していません」

「舞踏の借り、まだある?」

「今それを確認しますか」

「鏡の国なら踊るかと思って」

「一曲を完了してから心配しなさい」

「前は十二秒」

「十一秒で踏みました」

「ロロは十二って」

「音楽が始まってから。最初の足は十一」

「記録細かい」

「地図ですから」

 ハルは笑い、窓をくぐった。