第314話 第一章「千枚の入口」後編
鏡の裏には、海があった。
水ではない。
光が塩のように細かく砕け、上下のない暗い空間を流れている。遠くで誰かの誓文が反転して読まれ、言葉の端だけが魚のように銀色へ光る。
足を出した瞬間、落下する感覚。
次の瞬間、熱い砂へ膝をつく。
「着地」
「片手を床へつく癖、世界が変わっても変わりませんね」
エリアは立ったまま着地した。
平底の砂靴。
右踵一。
赤い天幕が目の前にある。
入口には、背丈ほどの鏡が十二枚。
全て同じ銀縁。
全て違う景色。
一枚は青い水車。
一枚は黒い夜砂。
一枚は羊に似た六脚獣の柵。
一枚は、今くぐってきたゼロスター号の船首。
一枚は、同じ赤天幕を斜め後ろから映している。
救難信号を出していた女が、赤い頭布を外した。
「外から来た?」
「たぶん」とハル。
「たぶんで鏡をくぐったの」
「正確にはルーメンから」
「もっと遠い答えになった」
女は三十代半ば。
日焼けした銅色の肌。
右手には黒い縄。結び目が端から端まで続き、数えるだけで一日かかりそうだった。
「サミラ・ラーフ。千扉隊商の路守」
「凪野ハル。こっちが」
「エリア・ルーンベルグ」
エリアが公爵礼ではなく、救難員の短い礼をする。
サミラは二人の靴を見る。
次に手。
最後に鏡へ付いた塩露。
「自分で戻れる?」
「同じ鏡が残っていれば」とエリア。
「残らないかもしれない」
「どういうこと」
天幕の外で、砂が鳴った。
雨ではない。
何百万枚もの薄い板が互いへ触れる音。
ざらざらではなく、きらきらと耳へ刺さる。
鏡砂嵐。
空には、鏡が立っている。
百枚。
二百枚。
その向こうにも。
隊商の天幕は地面へ並んでいなかった。
赤い天幕の隣は、鏡を一枚くぐった先にある。
水場は三枚。
食堂は二枚戻って別の一枚。
寝床と家畜柵は、夜だけつながる。
昼の灼熱を避け、夜の凍結から逃れるため、千枚の持ち運べる鏡門面〈ポケット・ミラー〉が、隊商の生活そのものを折り畳んでいた。
「家が、道の中にある」とハル。
「道が家をつないでいます」とエリア。
「順番の問題?」
「所有の問題でもあります」とサミラ。「鏡を持つ家が、どの路へ参加するか決める」
彼女は十二枚の鏡を指す。
「触るなら表だけ。裏へ手を回さないで」
「理由」とエリア。
「裏には入口と出口の刻み、家の名、借りた水、返していない塩、誰を通さないか、死者をどの路へ送ったかがある」
「帳簿と住所と鍵」とハル。
「寝室も」
「全部裏」
「だから他人が勝手に触れない」
ロロがくぐってくる直前だった。
工具を構えたまま。
「鏡の裏、見せろ!」
サミラが短刀を抜いた。
「第一声が犯罪!」とハル。
「故障を見るんだよ!」
「故障でも寝室へ工具持って入ったら犯罪」
「機械の話だ!」
「こちらでは同じ」とサミラ。
ロロの四本の補助腕が全部上を向く。
「先に言え!」
「いま言った」
「鏡技師は」
「三人。二人が不明。一人は脚を折った」
カイル、セレナ、ノクスが続く。
最後に王獣鈴の観測用小鈴だけを持った連絡員が来る。天鍵本体はゼロスター号へ残し、船側にはピコと簡易伝羽を置いた。
「状況」とセレナ。
サミラは黒縄の結び目を三つほどく。
「砂嵐が昨夜、千扉のうち三百十六枚を倒した。夜番が立て直した。今朝から、どの路へ入っても赤天幕へ戻る」
「全部?」
「生活路の中央だけ。外側の天幕へは行ける。ただし水車天幕が見えるのに届かない。救援へ入ったナジュたち四人も戻らない」
「死者」
「確認なし」
「負傷者」
「骨折一。熱傷三。脱水十二。鏡酔い二十六」
「地域医療語」とハル。
エリアが右眉を上げる。
「実在しましたね」
「俺の症状、名前が付いた」
「喜ばないで」
サミラは赤天幕の中央へ、黒縄を円く置いた。
結び目一つが鏡一枚。
太い結びが生活路。
青糸が水。
白糸が医療。
赤糸が火。
「地図?」とハル。
「順番」
「位置は」
「砂丘が動く。位置を描くと昨日の嘘になる」
エリアの視線が黒縄へ吸い寄せられる。
地図ではない地図。
座標を持たず、接続だけを持つ路。
「現在の接続順を確認したい」と彼女。
「確認した救援隊は三度ここへ戻った」
「同じ鏡から?」
「違う鏡」
「では、通過記録を」
「裏へある」
サミラとロロが同時に相手を見る。
修理と礼儀。
救命と私有。
どちらも、相手が急いでいる時ほど自分を正しいと思いやすい。
カイルが間へ入る。
「裏を全部見せる必要はない。入口、出口、観測の印だけを、持ち主本人が読み上げる。読めない者は選んだ立会人。救難に必要ない借金や死者名は記録しない」
「王の命令?」とサミラ。
「救難員の提案。拒否できる」
「拒否したら」
「別の測り方を探す」
サミラは黒縄の結び目を一つ締めた。
「まず歩いて。鏡が何をしているか、表から見て。それでも必要なら、裏の話をする」
「成立」とエリア。
「誰の言葉」とハル。
「今日は私の」
赤天幕から水車天幕へは、通常なら鏡四枚だった。
一枚目。
鏡面には青い天幕が映っている。
サミラが前へ立ち、掌を表へ向ける。
「この鏡は通る」
「見れば分かる?」とハル。
「砂が吸われてる」
鏡の縁で、細い砂が内側へ流れている。
ハルが一粒落とす。
砂は銀面へ消えた。
サミラが先にくぐる。
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
ノクス。
青い天幕。
二枚目。
そこには家畜柵が映る。
六脚の長毛獣が、鏡の向こうから鼻を押しつけている。
「通れる?」
「昨日は」
サミラが細い木札を投げる。
鏡へ入る。
向こう側で獣が驚く。
通過。
三枚目。
白い治療天幕。
鏡の景色だけを中継する面〈ウォッチ・フェイス〉が混じるため、サミラは毎回、小石を先へ投げた。
三枚目の小石は、銀面へ当たって戻った。
「見えるだけ」とハル。
「観測面」
「外見、同じ」
「裏刻印だけ違う」とサミラ。
「設計したやつ、表へ印を付けなかったの?」とロロ。
「敵に生活路を読ませないため」
「味方も読めねえ!」
「持ち主は覚えてる」
「砂嵐の後も?」
サミラは答えなかった。
四枚目へ回る。
同じ白天幕の別角度。
今度は砂が吸われている。
くぐる。
赤い天幕へ出た。
「戻った」とハル。
「一回」とセレナ。
サミラは黒縄へ新しい結びを付ける。
「別路」とエリア。「水車は赤天幕から東列、青二、白一、低鏡」
「東って」とハル。
「隊商内の呼称。物理方位ではありません」
「地図の東じゃない東」
「順番の名前」
二度目。
低い鏡をくぐるため、カイルが身を屈める。
「王子に頭を下げさせる良い国だ」
「いま王子と言いましたね」とサミラ。
「救難員だが、身体は王子のまま大きい」
「王族は縮まない?」
「税を減らせば少し」
「王族の冗談、難しい」
「国を越えた」
二枚。
三枚。
五枚。
途中、鏡の中に自分たちが見えた。
鏡像は一拍遅れて動く。
ノクスが右へ行くと、像は左へ。
次の瞬間、像のノクスだけが別方向へ走った。
「ナァ!」
実物が鏡へ飛びかかる。
銀面へぶつかり、鼻を押さえる。
「観測面」とセレナ。
「向こうに別のノクス?」とハル。
「別角度から中継された、数拍前のノクスです」とエリア。
「自分に追い越された」
六枚目。
赤い天幕へ出る。
「二回」とセレナ。
ファルという十歳ほどの少年が、入口へ石を一つ置いた。
「また?」
「また」
「今度はどこから」
「西の低鏡」
「さっきは北の細鏡」
「見てた?」
「暇だから」
「救難中に暇って強い」
「大人は同じ顔で戻るから面白い」
サミラが少年へ水袋を渡す。
「飲んだ?」
「飲んだ」
「量」
「三口」
「舌」
少年が舌を出す。
脱水確認。
生活は、謎解きの横で続いている。
三度目。
エリアは通過ごとに歩数、温度、光角、塩露の量を記す。
ハルは床の段差と匂いを覚える。
ロロは触らない約束を守り、鏡の表だけを見る。
セレナは時刻を告げる。
カイルは最後尾で、閉じかけた銀面を盾で支える。
七枚目をくぐった時、ハルは気づいた。
「同じ赤天幕じゃない」
「同じです」とサミラ。
「同じだけど、入口が違う」
「先ほどからそうです」
「違う。床の縫い目。最初は右から左。二回目は正面から奥。今は斜め」
赤天幕は円形だった。
十二枚の鏡が周囲へ並ぶ。
どの鏡から出ても、同じ中央を見る。
同じ場所へ戻っているのに、毎回、別の方向から入っている。
ファルが二個目の石を置く。
「三回目」
「二個しかない」とハル。
「一個目、ノクスが持ってった」
ノクスは石を口から出した。
「証拠隠滅」とセレナ。
「食べてないから保全」とハル。
サミラの黒縄が、風もないのに揺れる。
鏡の外では砂嵐が強くなっていた。
赤天幕の十二枚すべてへ、別の景色が映る。
青い水車。
白い治療床。
黒い夜砂。
六脚獣。
赤い天幕。
そして一枚だけ。
赤い天幕の中にいる自分たちを、上から映している。
誰も上にはいない。
「観測面」とエリア。
「どこから見てる」とハル。
「それを探すために入ると」とサミラ。
「戻る」
四枚目の鏡へ、遠くの人影が映った。
腰に青い鈴。
所在不明の路番、ナジュ。
彼女は鏡の向こうで、何かを床へ刻んでいる。
ハルが鏡へ駆ける。
「待って!」とエリア。
小石を投げる。
通る。
ハルは一、二まで数え、三を言わずに跳んだ。
銀面を抜ける。
熱。
塩。
落下。
赤い天幕へ戻る。
ただし、さっきまで立っていた場所の正反対。
ナジュの姿は、別の鏡へ移っていた。
青い鈴だけが、音もなく揺れている。
ファルが三個目の石を置いた。
「四回目」
「三回」とセレナ。
「ハルだけ一回多い」
「個人記録では四」とハル。
赤天幕の中央で、十二枚の鏡が十二の方角を映している。
入口は千枚。
出口は一つも見つからない。
そして隊商の水は、あと六刻だった。