第315話 第二章「救援者ユノ」前編
救難には、助ける技術と、助かると信じさせる技術がある。
前者だけでは、人は恐怖で動けない。
後者だけでは、人は安心したまま死ぬ。
古い王たちは、この二つを同じものとして扱いたがった。救命できる王は民を安心させ、民を安心させる王は救命できる、と肖像画へ描かせたのである。
肖像画は、落下する人を受け止めない。
しかし落下する人が手を伸ばす先を示すことはある。
問題は、その手の先に本当に足場があるかだった。
青い鈴は、鏡の中で揺れていた。
音はない。
ナジュの姿が現れるたび、別の鏡へ移る。
赤天幕を上から。
斜めから。
床すれすれから。
どの像にも、腰の青鈴。
どの像にも、彼女が砂へ刻む短い傷。
「映像だけ追うな」とサミラ。
「人がいる」とハル。
「いる。どこかには」
「どこかを探す」
「その言葉で三隊入った」
「戻った?」
「二隊は。ナジュの隊だけ戻らない」
ハルは鏡の前で止まった。
止まることは、諦めることではない。
止まらず飛び込むことが、いつも勇気でもない。
彼は羅針盤の蓋へ親指を置く。
一度。
二度。
三度目は弾かなかった。
「使わない」とエリア。
「まだ問いが雑だから」
「何が失われたか」
「ナジュの場所、だと思ってた。でも場所が失われたのか、道が失われたのか分からない」
「それに、零星針が示すのは原因です。現在の安全路とは限らない」
「分かってる」
「確認しました」
「今の、信用?」
「共同判断」
赤天幕の外から、弦の音が入った。
一音。
細く、白い。
砂嵐の粒音を押しのけない。
その間へ入る。
二音目で、十二枚の鏡が同時に淡く曇った。
三音目。
銀面へ白い線が現れる。
線は人の形を作った。
顎で揃えた白銀の髪。
左右で色の違う眼。
黒い細身の礼装。
鏡片を埋めた白いヴァイオリン。
像ではない。
次の瞬間、その人物自身が、一枚の鏡から歩いて出た。
砂へ着地しても裾に皺一つ作らず、弓を弦へ置く前に一度だけ目を閉じる。
「遅くなりました。救援を――」
「二十二拍」と薄い声。
同じ鏡から、薄墨の面紗を着けた少女が出る。
銀黒のボブ。
紫の瞳へ細い金輪。
「兄さん、出発前に言った台詞は『お待たせしました、王都救難局の協力要員です』。今のは短い」
「砂嵐の音量へ合わせた即興だよ」
「三案練習した二案目」
「練習した即興は、即興と呼べるかな」
「呼べない」
さらに分厚い眼鏡だけが先に鏡から現れた。
次に猫背の男。
「脚注を一つ」と男。「即興とは事前準備がないことではなく、現場条件へ応じて選択される表現を指す用例もあります」
「トーヴ、兄さんを助けないで」
「用語を助けました。人物への援護ではありません」
「救援隊?」とハル。
白銀髪の青年は、完璧な角度で笑った。
「ユノです。こちらは妹のリゼ。鏡史官のトーヴ・セル。あなたが、落下してきた羅針盤の少年ですね」
「二つ名で呼ばないで」
「落下してきた、は経歴では?」
「経歴でも恥ずかしい」
「ではハル」
「早い」
「呼び方へ長い審査を置くと、救難が遅れます」
「言葉が丁寧なのに、勝手」
「丁寧さは、同意の代用品ではありませんから」
エリアの右眉がわずかに上がる。
ユノの目元だけが、一瞬先に笑った。
「ルーンベルグ公女。お久しぶりです」
「公式の場ではありません。エリアで」
「救援中だけ?」
「距離の話を規約へしないでください」
「失礼。ではエリア」
カイルがユノの前へ出る。
「俺には挨拶なし?」
「大きすぎて鏡だと思いました」
「鏡なら、もっと美しく返せ」
「真実を映す物とは限りません」
「良い国だな。外交が最初から攻撃だ」
二人は笑顔のまま握手する。
力を入れているのは、見なくても分かった。
「子ども」とリゼ。
「王子は年上だ」とカイル。
「精神年齢の話」
「初対面で厳しい」
「顔は見たことある。肖像より犬歯が大きい」
「王室画家へ言ってくれ」
サミラはユノたちを見ても頭を下げない。
「王都から?」
「救難の照会が鏡史院へ届きました」とトーヴ。「版番号は緊急三版。第一版では『門路混線』、第二版で『循環』、第三版に『水車天幕所在不明』が追加されています」
「王都は、裏へ触れろと言う?」
「王都は何も決めていません」とユノ。「少なくとも、私が決めさせませんでした」
「あなたが決めさせなかった?」
「言い方が演出的でしたね。訂正します。救援者が現地の礼儀を無視して一括検査する案へ、反対しました」
ユノはヴァイオリンの弓を下ろす。
「まず、皆が見たものを共有したい」
「見たものだけ?」とセレナ。
「見ていないものは、正確に奏でられません」
「証明を」
「リゼ。君の鞄の中に何がある?」
「知ってるでしょう」
「今は知らない物を一つ入れた?」
「入れた」
ユノは目を閉じ、一音を鳴らす。
赤天幕の中央へ、半透明の鞄が浮かぶ。
面紗。
偏光眼鏡。
鏡機械用の細いねじ回し。
酸っぱい果実飴。
空の額縁札。
底の一角だけが白い。
何も描かれない。
「そこ」とリゼ。
鞄を開き、白い部分から小さな木の駒を出す。
角が八本ある王獣。
「翠獣環の子どもが描いたやつ」とハル。
「市場で複製がもう売られていました」
「九日で?」
「商人は歴史家より速い」
ユノの幻像では、木の駒が空白だった。
「誰も見ていない物は、描けない」とセレナ。
「誰かが嘘をついた場合」
「嘘として見た像は奏でられます。現実かどうかは、音楽には分からない」
「未知を推定で補うことは」
ユノは一拍置いた。
「できます。推定だと理解していれば」
リゼの面紗の下で、目が細くなる。
「兄さんの『理解していれば』は、だいたい観客には伝わらない」
「今日は伝える」
「いつも言う」
「今日こそ」
「毎回言う」
ハルが小声でエリアへ言う。
「兄妹の会話、慣れてる」
「あなたとお母様も、外から聞けばこうでしょうね」
「母さんはもっと短い。『寝ろ』『食べろ』『請求書見ろ』」
「重要事項だけ」
ユノが弓を上げる。
「像を見たくない方は、赤天幕の外へ。音を聞いても、弦へ視線を合わせなければ鮮明には共有されません。途中でやめたい方は耳を塞ぐのでなく、目を閉じて足元を三度踏んでください」
「なぜ三度」とハル。
「一度は偶然。二度は不安。三度は意思として見分けやすい」
「俺の跳ぶ前と同じ」
「君も演出家?」
「無鉄砲家」
「職業にはしない方がいい」
サミラが隊商民へ呼びかける。
見たい者。
見たくない者。
判断を保留する者。
全員が参加しない。
赤天幕の端へ残る者もいる。
鏡の多い場所で幻まで見たくない老女。
耳が聞こえず、視覚だけなら見たい男。
子どもを先に寝かせたい母親。
救難情報は、全員へ同じ形で渡せば公平になるわけではない。
ユノは参加者の数を確認し、演奏を始めた。