第316話 第二章「救援者ユノ」後編

 音で共通幻像を奏でる術〈ファントム・カデンツァ〉

 最初に現れたのは、赤天幕だった。

 実物と同じ場所へ、半透明の赤天幕が重なる。

 床の縫い目。

 十二枚の鏡。

 ファルが置いた三個の石。

 ノクスが一度くわえた石だけ、歯形まである。

「細かい」とハル。

「見た人がいたから」とリゼ。

 次に、サミラの記憶から青天幕。

 エリアの記憶から白い治療天幕。

 カイルの視界から低い鏡。

 セレナの記録から時刻札。

 ハルの足の感覚から、床のわずかな段差。

「俺の見たものも入る?」

「君が今、思い出している形で」とユノ。

「間違って覚えてたら」

「間違った像が出る」

「便利じゃない」

「人間の記憶を便利にした道具は、だいたい人間を不便にします」

 像が増える。

 別々の天幕が、空中に位置を与えられ、光の廊下でつながっていく。

 ユノの演奏は美しかった。

 白い弓が動くたび、散らばった断片が互いを探す。

 赤から青。

 青から白。

 白から家畜柵。

 十二枚の鏡が、一本の分かりやすい道へ整う。

 砂嵐の音が遠のく。

 見ていた隊商民の肩から、力が抜ける。

「水車天幕」とサミラ。

 青い大きな水車が幻へ現れた。

 垂直砂丘の中腹。

 鏡三枚分の光路。

 出口には、黄色い旗。

「ナジュが昨日見た」とサミラ。「水車の外から」

「出口も」とユノ。

「旗まで」

「誰が見た」とセレナ。

「ファル」とサミラ。

 少年が手を挙げる。

「観測面で見た。黄色い旗。水車のおばさんが振った」

「通った?」とハル。

「見ただけ」

 エリアが幻の光路へ近づく。

「ユノ。赤天幕と水車の間、この白い回廊を見た者は」

「個々の鏡から見えた断片を、最も矛盾の少ない形へつないでいます」

「誰も見ていない?」

「回廊そのものは」

「空白にするべきです」

 ユノの弓が一瞬だけ遅れる。

「空白にすれば、避難者は道を理解できない」

「理解できないことを、理解したように見せるより安全です」

「安全だけを表示して、動けなければ水が尽きる」

「動かすために存在しない床を描くのですか」

「存在しないとは断定できません。既知の入口と既知の出口の間に、最も可能性の高い接続を――」

「地図は、可能性を道の形で描いた瞬間、命令になる」

 エリアの声は冷たく明瞭だった。

 ユノの微笑みは崩れない。

 目元だけが、先に止まる。

「なら、代案を」

「光路ごとに出典を付ける。直接通過、観測のみ、記憶、推定」

「情報量が多すぎる」

「減らすなら、危険でない情報を」

「観客は地図師ではありません」

「だから地図師が勝手に一つへ整えない」

 ハルは二人の間へ顔を出した。

「喧嘩?」

「議論です」とエリア。

「演奏中の議論は珍しい」とユノ。

「止められる?」

「止めれば像も消えます」

「じゃ、今の道で一回行く。途中、見てないところへ来たら止まる」

「ハル」とエリア。

「推定を本物扱いしない。使えるか試す」

「試験走者」とロロ。

「成功率」とセレナ。

「推定区間へ入る前に物を投げる。戻れなければ撤退」

「撤退判断は私」とエリア。

「具体的には」

「推定区間の鏡へ砂を投げ、通過先の足場が目視できなければ入らない。呼吸二、鏡酔い三、塩露の急増でも中止」

「成立」

 ユノは弓を一度離す。

「私も行きます」

「演奏は」

「幻を維持したまま歩けます」

「右手」とリゼ。

「問題ない」

 リゼが兄の右手薬指を見る。

 完全には伸びない指。

「痛み」

「一」

「耳鳴り」

「一」

「片頭痛」

「零」

「嘘なら」

「演出」

「それが一番だめ」

「事実として一」

 リゼは納得していない。

 それでも、兄の手を取って止めない。

「私も行く。像へ縁を付ける」

「君は光が」

「面紗二枚。頭痛一。兄さん一人に表示を任せる方が頭痛三」

「家族評価が厳しい」

「甘い評価で死なれたくない」

 トーヴは脚注札を袖から出す。

「私は残り、各像の出典を記録します。脚注番号を口頭で読み上げますので、聞き落とさないでください」

「長くなる?」とハル。

「短くします」

 全員がトーヴを見る。

「努力します」

 幻の道は、現実の鏡へ重なった。

 赤天幕の十二枚のうち、幻では三枚だけが強く光る。

 一枚目。

 直接通過済み。

 リゼが細い金縁を付ける。

「金は?」

「現在の直接確認。真実じゃない。確認方法の色」

 二枚目。

 サミラの記憶。

 紫縁。

 三枚目。

 ファルが観測面で見た出口。

 青縁。

 その間の回廊。

 ユノが推定でつないだ部分。

 縁がない。

「白くして」とリゼ。

「白は幻の外周と重なる」

「だから二重。分からないことを、見落とせない色へする」

 ユノは不満そうに一音を変える。

 推定回廊が、白い欠け目を持つ。

 完璧な線に、傷が付く。

「美しくない」とハル。

「安全そうには見えなくなった」とエリア。

「褒め言葉として受け取ります」とユノ。

 一枚目をくぐる。

 青天幕。

 金縁。

 二枚目。

 家畜柵。

 紫縁。

 実際に六脚獣がいる。時刻は違うが、場所は一致。

 三枚目。

 低い鏡。

 向こうへ黄色い旗が見える。

「水車」とファル。

 少年もついてきていた。

「来るなって言った」とサミラ。

「言われてない」

「顔で言った」

「顔は規則じゃない」

「教育が悪い」とエリア。

「誰の」とハル。

 ユノが低い鏡へ近づく。

 幻の回廊では、その先に水車天幕。

 現実の鏡でも、黄色い旗。

 青い水車。

 濡れた布。

 小石を投げる。

 銀面へ消える。

 向こうの砂へ落ちるのが見える。

「通過面」とハル。

「足場もある」とユノ。

 エリアが鏡の縁を見る。

「塩露が多い」

「出口側?」とロロ。

「判断には裏が必要」

「いまは表だけ」

 ユノが先へ行こうとする。

 リゼが礼装の裾を踏んだ。

「自然な先行?」

「救援者として」

「練習した?」

「していない」

「危ない」

「練習しても危ないと言うだろう」

「言う」

 ハルがロープを腰へ結ぶ。

「俺が先。ユノは像を保つ。エリアはここ。カイル、後ろ」

「反対する理由が減った」とカイル。

「成長?」

「俺が疲れた」

 ハルは一、二、三。

 鏡へ入る。

 光の裏海。

 塩。

 冷気。

 足が出る。

 黄色い旗。

 青い水車。

 見えていた。

 その二つの間に、地面がなかった。

「――っ!」

 ハルの身体が砂穴へ落ちる。

 鏡の出口は、垂直な穴の壁へ取り付いていた。

 観測面から見れば水車天幕が正面にある。

 通過者の足元から見れば、二十メートル下。

 ロープが張る。

 左肩へ衝撃。

 痛み二。

「ハル!」

 エリアの声。

 鏡から半身を出し、地図槍を穴壁へ打つ。

 測定した鏡縁と岩突起へ、淡緑の路が一本だけ伸びる。

 カイルが後ろから王盾炎を展開する。

 深紅の盾が鏡枠を包み、閉じかけた門を支える。

「人数三! 俺、エリア、ハル!」

 守る人数を数える。

 増やしすぎない。

 ハルは右手でロープを握る。

 左肩は上げない。

 足が穴壁の砂へ埋まる。

 下から、砂が噴き上がった。

「水車、あれ!」

 穴の向こう。

 青い天幕は本物だ。

 ただし距離も高さも、幻の地図とは違う。

 鏡は嘘を映していない。

 黄色い旗もある。

 水車も回っている。

 小石も落ちた。

 像が正しいだけだった。

「引く!」とカイル。

「待って、右足かかる!」

 ハルは壁の突起へ足を置く。

 一。

 二。

 三を言う前に、突起が崩れた。

 ロープが再び張る。

 ユノの弦が乱れる。

 幻の水車が揺れ、白い回廊が消えかける。

「兄さん、止めて!」とリゼ。

「止めれば位置共有が」

「間違った位置共有を維持してどうする!」

 ユノの目元が崩れる。

 弓を止めた。

 美しい道が消える。

 現実の穴だけが残る。

 見苦しい。

 暗い。

 砂が顔へ当たる。

 だからハルは、実際の突起を見つけられた。

「右下、半歩!」とエリア。

「見える」

「私の線ではなく、岩を!」

「分かってる!」

 右足。

 右手。

 背中。

 カイルが引く。

 エリアが鏡縁へ身体を固定する。

 呼吸二。

「エリア、息」

「二。継続十拍」

「俺が代わる」とユノ。

「弦の右手」

「痛み二」

「申告した」

「あなたに学びました」

「なら、鏡槍の根元を左手で。右薬指は使わない」

「具体的で助かります」

 ユノが左手で槍を支える。

 ヴァイオリンはリゼへ渡す。

「勝手に弾かないで」

「弾けない」

「それは安心」

 三人でロープを引く。

 ハルの肩が鏡面を越える。

 右腕。

 頭。

 最後に足。

 低い鏡の前へ転がり出る。

「痛み」とセレナの声が伝羽から飛ぶ。

「肩二。擦り傷いっぱい。方向二」

「意識」

「ある」

「冗談」

「ユノの地図、床が別売りだった」

「ありますね」とユノ。

 声が低い。

 敬語が消えかけている。

「俺が、描いた」

「見えてた物は全部あった」とハル。

「だから余計に悪い」

「悪いのは」

「いま慰めるな」

 ユノは完璧な笑顔を作らない。

 目元も口元も、どちらも止まっている。

「見えていた出口を、行ける出口にした。分からない間を、観客が怖がらない形に埋めた。救援のためだと信じて」

「信じてたから術が安定した」とリゼ。

「そうだ」

「兄さんの術は、善意なら安全になるんじゃない。善意だと強くなる」

「違いが痛いな」

「痛い方が本当」とロロが伝羽越しに言う。「工房の医学」

 エリアは穴の向こうの水車を見た。

 届かない。

 だが存在する。

「観測と通過を分けます」と彼女。「見える景色の正しさではなく、鏡の役割を調べる」

「私の幻は」とユノ。

「使います」

 ユノが意外そうに彼女を見る。

「ただし、未知を道の形にしない。空白は空白。出典を付ける。撤回条件を付ける」

「観客には複雑だ」

「複雑な現実を、簡単な死に変えないためです」

 ハルは砂まみれの顔を上げる。

「あと、床があるか、別の方法で見る」

「その脚注は最上部へ」とトーヴの声。

「脚注じゃなく本文!」とロロ。

 水車天幕の黄色い旗が、遠くで三度振られた。

 向こうにも人がいる。

 こちらを見ている。

 救援像は消えた。

 その代わり、届かない距離が初めて正確に見えた。