第317話 第三章「どの鏡も正しい」前編
証拠は、正しければ十分だと思われやすい。
指紋が正しい。
時刻が正しい。
映像が正しい。
証言が正しい。
法廷は、正しい物を机へ並べる場所だと考える者もいる。
しかし正しい指紋が、犯行時刻に付いたとは限らない。
正しい映像が、現在を映しているとは限らない。
正しい証言が、その人の見えなかった範囲まで正しくするわけではない。
事実は嘘より頑丈である。
頑丈だから、間違った場所へ置かれた時の被害も大きい。
「午前十一時四十七分。低鏡路・砂穴前。凪野ハル、落下後に救出。意識清明。左肩痛み二、擦過傷九か所。鏡面の閉鎖なし」
「擦り傷、九?」とハル。
「見える範囲です」
「数えなくていい傷も」
「傷が自分で重要度を申告しましたか」
「してない」
「では記録します」
セレナは黒い証羽を一枚、砂穴の縁へ伏せて置いた。
伏せる。
像を記録しない選択ではない。
今は、ハルの顔より地形を優先するという印だった。
彼女の左眼は、鏡光の中でほとんど役に立たない。
六角形の単眼鏡を調整し、右眼だけで穴の奥行きを測る。
二十一・三メートル。
出口鏡は壁面へ水平。
水車天幕まで直線五十八メートル。
間に足場なし。
「鏡から見た時、穴は」とセレナ。
「見えなかった」とファル。
「なぜ」
「黄色い旗と水車がいっぱいだったから」
「視野の中央を大きな対象が占めた」
「難しい」
「見たい物が、穴を隠した」
「それなら分かる」
セレナは言い換えを記録しない。
法的な文は精密であるべきだが、現場の言葉まで法廷の形へ削る必要はない。
リゼが低鏡の前へ膝をつく。
面紗を二重にし、薄色眼鏡を掛ける。
左小指だけ少し内側へ曲がった手で、鏡縁へ細い札を置いた。
「像を止められる?」
「光路を遮れば」とロロ。「ただし向こうの水車側が何に使ってるか分からん」
「止めない。縁だけ付ける」
リゼは鏡面へ指を触れない。
表から半寸離したところへ、小さな菱形の誓紋を出す。
光が四色へ分かれた。
水車の輪郭へ、細い金。
黄色い旗へ、青。
鏡の出口枠へ、紫。
足場のない空白へ、白。
「意味」とセレナ。
「金は、いまこちらから直接観測していて、位置変化が小さい物。青は誰かの過去の観測と一致する物。紫は機構上そこにあると確認したけど、通過先の安全までは分からない物。白は不明」
「真偽ではない」
「何回でも言うけど、真実の色じゃない。確かめ方の色」
鏡像へ確度を示す縁色を付ける術〈トゥルース・フレーム〉。
水車が金だから、安全ではない。
旗が青だから、古いとも限らない。
白い穴は、存在しないのではない。
「見えてない物にも白を付けられる?」とハル。
「白い形を描くんじゃない。像の外周へ『ここから先は確度なし』って枠を作る」
「何もない場所に枠」
「空の額縁」
リゼの鞄には、実際に小さな空の額縁が三つ入っていた。
一つに『不在』。
一つに『非公開』。
一つに『未選択』。
「違う?」とハル。
「全然違う。不在は、いないと確認した。非公開は、いるかもしれないけど見せない。未選択は、まだどれにするか決めてない」
「空白にも種類」
「空白を全部『ない』にする大人が多いから」
ユノは少し離れた場所で、ヴァイオリンの弦を張り直している。
右手薬指が完全には伸びない。
先ほどの救出で痛み二。
それでも、周囲へ見せる微笑みは戻っていた。
「兄さん」とリゼ。
「何かな」
「その顔、役に立つ?」
「不安を増やさない」
「自分の不安を隠す方」
「両方だよ」
「分けて」
ユノは笑みを消す。
「私の判断で推定を道へした。ハルを落とした」
「未遂で済みました」とセレナ。
「未遂だから軽いとは言わないでください」
「言っていません。結果と危険性を分けます」
「法の慰めは、乾いていますね」
「湿った証拠は保管しにくい」
ハルが砂を払う。
「俺の慰めは?」
「雑」
「じゃ、ユノの地図は全部間違いじゃなかった。水車も旗もあった。間が違った」
「慰めになっていない」
「今のは確認」
「君は、傷つける言葉を短く言う」
「長く言えば痛くない?」
「遅れて痛む」
「じゃ短く」
「選択が速い」
ユノの目元が少しだけ崩れる。
「君は、エリアの言葉をよく使うね」
「え」
「更新、具体的、成立。話す速度まで半拍似ている」
「旅が長いから」
「そういうことにしておこう」
「何が」
「言葉どおりです」
「言ってない部分が多い!」
「兄さん」とリゼ。「他人の感情を言い当てて、自分の会話へした顔をしてる」
「していない」
「今した」
エリアは薄緑の遮光片越しにユノを見る。
「私たちの会話を、本人より先に完成させないでください」
「失礼しました」
「本当に?」
「いまは」
「期限付きの謝罪」
「永続を約束すると、守れない」
「そこだけハルに似てる」とリゼ。
二人が同時に否定した。
「似てない」
「似ていません」
「息は合う」とカイル。
「お前は楽しそうだな」とハル。
「鏡の国へ来たら、全員の本音が二倍に見える」
「像を人数へ数えないでください」とセレナ。
砂穴から水車天幕へ、直接ロープを渡す案は却下された。
距離五十八メートル。
横風。
鏡砂。
固定点なし。
水車側の地盤も不明。
「救助用の矢索なら」とカイル。
「射出時に鏡を割る可能性」とロロ。
「盾で反動を」
「お前の肋骨へ請求される」
「国費」
「私傷だろ!」
「公務中」
「救難員って言った!」
役職は、便利な時だけ着替えると信用を失う。
カイルは矢索を下ろした。
「では、今は観測を優先」
「王子が引いた」とサミラ。
「意見を撤回できる王族は希少品です」
「ユノ、褒めてないだろ」
「輸出価値を認めています」
水車天幕へは、鏡越しに合図を送る。
三、一、三。
救援あり。
経路不明。
水量を知らせよ。
向こうの人物が黄色い旗を振る。
三。
二。
一。
「三刻?」とハル。
「水車が動けば六。止まれば三」とサミラ。
「今、動いてる」
「鏡像が現在なら」
セレナは時刻板を鏡前へ置く。
向こう側にも、別の時刻板を掲げてもらう。
こちら、十一時五十八分。
向こう、十一時五十六分。
「二分差」
「時計のずれか、像の遅れ」とエリア。
「月冠祭の七分遅れじゃない」とハル。
「同じ仕掛けへ飛ばないでください」
「冷静な制止」
「時刻は正しい可能性があります。時計同士が一致していないだけ」
正しい時計が二つあっても、同じ時刻を示すとは限らない。
基準が違えば、どちらも正しく、比較だけが誤る。
セレナは水車側へ、こちらと同時に鏡片を三度振るよう指示した。
合図を送る。
向こうが受け取る。
返す。
遅れ、四秒。
「画像は」とロロ。
「旗の動きは、ほぼ同時に見えた」とハル。
「光だけ先に来て、合図の理解と返答で四秒?」
「あり得る」とエリア。「比較には自動動作が必要」
ファルが鈴を出す。
「これなら」
小さな青銅鈴。
砂避けの布が巻かれている。
「同じ鈴?」とセレナ。
「隊商の路番は同じ音を持つ。ナジュは青。水車は黄。火は赤」
「音程は」
「青がラ。黄が低いミ。赤が高いド」とユノ。
「一度で分かる?」
「音楽家です」
「王族より役に立つ」とカイル。
「あなたは盾で音程を出せますよ」
「殴るなよ」
セレナは鈴を証拠袋へ入れない。
まだ生活道具であり、持ち主が必要としている。
代わりに、音程、重量、傷を記録する。
「鏡ごとに同じ試験を行います」とエリア。「像の正しさ、時刻、角度、通過可否を分離」
「何枚」とロロ。
「まず十二。赤天幕周囲」
「千枚全部って言わないよな」
「十二の結果次第」
「言う顔だ」
「顔を証拠にしない」
「教育が悪い」