第363話 第二章「移動する法廷」前編
裁判所は、動かない建物として発達した。
石の柱。
高い天井。
固定された席。
誰が来ても、法は同じ場所にある。
それが理想だった。
だが、島ごとに重力が違い、都市ごとに契約の文法が違い、鏡門を一枚くぐるだけで管轄が変わる世界では、動かない裁判所は「来られる者だけを裁く場所」になった。
そこで鏡砂環は、法廷を動かした。
証人が来られないなら、法廷が行く。
被害が七都市にまたがるなら、裁判官が七都市を巡る。
理想としては公平である。
実際には、法廷が都市へ着くたび適用法が変わるため、同じ人間が一時間ごとに資産になり、保護対象になり、成人になり、未成年相当になった。
動く法廷は、動く矛盾でもあった。
セレナ・クロウは、座る前に椅子の脚を数えた。
四本。
法廷列車が鏡門を通ると重力が反転する可能性があるため、脚は床へ固定されている。固定具は三つ。一本足りない。
「この椅子は使いません」
「座る前から異議ですか」
法吏が眉を寄せた。
「固定具が一つ欠けています」
「規格上は二つで足ります」
「規格表を」
「審理前です」
「転倒後に確認するより前が適切です」
ロロが床へ這い、椅子の下を見た。
「一本、折れてる」
「触れないでください」とセレナ。
「見ただけ!」
「右の補助腕が工具を出しています」
「こいつは自主的」
「あなたの身体です」
「法的に?」
「現在、その言葉を冗談へ使わないでください」
ロロの補助腕が、しぶしぶ工具を戻した。
法廷列車は七両で構成されていた。
先頭は進行席。
二両目は証拠庫。
三両目は証言室。
四両目は非公開審理室。
五両目は被告席。
六両目は傍聴席。
最後尾は機関と鏡門接続を兼ねる。
列車ごと移動する法廷〈ローリング・コート〉。
本来は雷鎖環の移動法廷を指す語だったが、鏡砂環は名前だけ借り、線路の代わりに鏡門を走らせた。借りた制度へ自国の事情を継ぎ足し、原型より複雑にするのは国家の得意技である。
法廷の床は半透明だった。
下に、今いる都市が見える。
ゼロスター号は白い鏡鎖へ係留され、法廷列車の外側を並走している。ロロが船へ残ろうとしたが、差押対象の管理者は審理中立会いを求められ、結局、工具箱ごと連れてこられた。
「管理者じゃなく所有者」とロロ。
「船籍は」と法吏。
「未登録」
「所有証明」
「俺が直した」
「証明になりません」
「壊してみろ。俺以外直せねえ」
「脅迫に近い」とセレナ。
「愛情だよ!」
「愛情を脅迫文へ変換しないでください」
ノクスは被告席の下へ潜った。
証羽を嫌う。
法廷をもっと嫌う。
古代、夜渡りは破られた誓いを嗅ぐ裁判道具として使役された。法廷の床には、その時代の拘束環と同じ金属が含まれているらしい。首の毛の下の焼痕が、入廷した時から青白く光っていた。
「ノクスは外へ」とハル。
「証拠生物として記録されています」と法吏。
「生物の前に仲間」
「審理へ必要な嗅覚を持つ」
「使わない」
「必要になれば」
「本人に聞け」
「人語を話さない」
ノクスが法吏の靴を噛んだ。
「今のは拒否」とハル。
「解釈です」とセレナ。
「違う?」
ノクスはもう一度噛んだ。
「反復による意思表示として記録します」
セレナは証羽を伏せて置いた。
伏せた羽根は、記録しない選択。
ノクスの嗅覚を、この裁判の決定打へ使わない。
王家側は、すでに席へ着いていた。
王家代訴官。
名は告げない。
法廷で私人として呼ばれる必要がない時、鏡王国の官吏は役名だけを使う。
黒い法衣。
左半分だけ反射する仮面。
机の上には三冊。
婚約条約。
公女保護契約。
七都共同法。
セレナは相手の顔でなく、指を見る。
右利き。
紙を押さえる左親指に、法文複写のインク跡。
爪は短い。
相手も証拠を扱う人間だ。
敵と、雑に分類しない。
「星律官セレナ・クロウ」と進行法官。「被告側弁護人として登録しますか」
「登録しません」
ハルが振り向く。
「味方じゃないの?」
「弁護人になれば、被告へ有利な事実を選ぶ職責が生じます」
「それが味方」
「ユノがどこまで争うか、まだ本人から確認できていません。本人不在のまま、私が無罪主張を代筆しません」
「じゃ何する」
「証拠整理役を申請します」
進行法官が確認する。
「中立ですか」
「中立という語を、感情がない意味には使いません。証拠の採否、出所、公開範囲、反証可能性を双方へ同じ形式で提示します」
「王家が不利でも」
「はい」
「被告が不利でも」
「はい」
「友人が不利でも」
セレナは一拍置く。
「友人であることを理由に、事実を曲げません」
「友人って認めた」とカイル。
「発言者を退廷させます」
「まだ罪状を言ってない」
「王太子の無断傍聴、外傷申告の遅延、法廷椅子への逆座り」
カイルは椅子を戻した。
「三つ目は罪?」
「礼法違反」
「軽い」
「あなたの背中には重い」
セレナは彼が痛みを隠す前に温石の位置を直す。
寄り添う言葉を知らない人は、正確な温度を置く。
進行法官は申請を認めた。
「証拠整理役。なお、被告ユノ・ヴァレント不在のため、仮弁護席を設置する」
空の椅子が一つ置かれた。
リゼが、その椅子を正面から半歩ずらす。
「何を」と法吏。
「本人が来た時、全員の顔を正面から見なくていい角度」
「法廷配置は決まっています」
「決まった配置が、本人の視線まで決める?」
「証言者の位置は統一されるべきです」
「統一と固定は同じ?」
法吏は進行法官を見る。
進行法官は椅子の角度を測らせた。
「視線選択を妨げず、記録鏡の死角を作らない範囲。三十度まで許可」
リゼは二十七度で止めた。
「三十にしない?」とハル。
「上限まで使う義務はない」
「それ、今日の全部に使えそう」
「使いすぎると薄くなる」
移動法廷へ乗った者は、裁判だけをするわけではない。
眠る。
食べる。
治療する。
次の都市の法へ、服と呼称と証拠箱を合わせる。
動かない裁判所なら、生活は建物の外へ置ける。
動く裁判所では、生活も管轄の中を走る。
法吏は全員へ、七枚の通行札を配った。
白――公開区域。
灰――証拠区域。
青――医療区域。
黒――非公開審理。
赤――緊急退避。
透明――権限なし。
鏡――都市ごとに意味が変わる。
「最後、危ない」とハル。
「鏡札は現地法を自動反映します」と法吏。
「便利じゃない?」
「便利だから危ない」とリゼ。「昨日まで入れた場所へ、今日も入れると思う」
ハルは七枚を配達鞄の内側へ並べた。
「色だけじゃ覚えられない」
「なぜ」とエリア。
「赤が退避で、黒が秘密で、青が医療。地球でもだいたい似てる。でも鏡だけ毎回違う」
「変わるものを覚えないのは正しい」
「褒めた?」
「固定して覚えれば事故になる、と言いました」
「業務評価」
「まだ始まっていません」
リゼは、鏡札の裏へ小さな白縁を付ける。
「今の意味が本物。都市が変わったら縁が消える」
「術を使っていい?」と法吏。
「確度表示だけ。扉を開けない」
「記録」
「して。顔は映さないで」
本人が条件を出す。
法吏は受け入れた。
小さな手続きである。
だが、ユノの裁判は、本人が条件を出せない場所から始まっている。
空席だからこそ、周囲は「彼なら」と言いやすい。
セレナは全員へ確認した。
「被告不在中、本人の意向を推測して発言する場合、文頭へ『私は』を付けてください」
「私は、ユノは怒ってると思う」とハル。
「今のは、推測を事実の形で言っています」
「私は、ユノが怒ってるような気がする」
「何に」
「役名で探されたこと」
「根拠」
「手紙」
「許容」
「法廷、会話へ採点つく?」
「誤解を減らします」
カイルが鏡札を一枚、指で回す。
「俺は、ユノがわざと裁判を起こした可能性があると思う」
「根拠」とセレナ。
「昨日の監査で、彼は婚約原本に現在署名がないと知った。次に争うなら、保護契約の方だ」
「可能性として記録」
「でも、全部を計画したとすると」とエリア。「王家がどの罪名で動くかまで知っていたことになる」
「王子は自国法を知る」とカイル。
「私も公爵家の保護契約を全部は知らない」
「知らされていない?」とハル。
「知らないことを知らされている、と言うのは変ね」
「本人が知らない契約、効く?」
「効く場合がある。幼少時の代理契約、緊急保護、相続」
「知らないのに守られる」
「守られる時はある」
「知らないのに出られない」
「だから争う」
進行法官が、会話を聞いていた。
「当法廷には、被告の意図を推測して事件全体を一つの計画へまとめないよう求める。本人が来れば、本人へ聞く。それまでは、確認できる行動だけを扱う」
セレナが頷く。
「同意します」
「ハルは」とカイル。
「努力する」
「エリア」
「努力する」
「王子二人、信用がないな」
「あなたも王子」とセレナ。
「俺は、計画を隠す側の経験から推測できる」
「経験は証拠ではありません」
「でも、違和感としては?」
「検証方法を出してください」
カイルは笑う。
「セレナは、違和感を追い出さなくなった」
「観察対象が、違和感を証拠の代わりにしなくなったからです」
「相互成長」
「監督経過」