第364話 第二章「移動する法廷」後編

 証拠庫の扉は、三人いなければ開かなかった。

 王家側一人。

 法廷側一人。

 被告側一人。

「被告側いない」とハル。

「仮弁護席の鍵を、本人不在で誰が持つかが決まっていません」と法吏。

「じゃ証拠見られない?」

「緊急時は進行法官が代行」

「法廷側が二人になる」

「はい」

「公平?」

「完全ではありません」

「じゃどうする」

 リゼが、自分の鏡札を置いた。

「家族として鍵を持たない」

「持てば開く」と法吏。

「兄さんに有利な家族役で、兄さんの証拠へ触らない」

「では、証拠庫は」

「開けない」

「審理が遅れる」と王家代訴官。

「兄さんがいないことを、王家と法廷の便宜へ使わないで」

 空席が、初めて権限になる。

 本人がいないから、周囲が好きに進めるのではない。

 本人がいない間、進めない部分を残す。

 進行法官は暫定手順を作った。

 証拠庫は開けない。

 内容ではなく、箱の数、封印時刻、提出者だけを全員へ表示する。

 緊急劣化があれば、中立保全員が内容を見ずに保存する。

「中立って誰」とハル。

「トーヴ・セル」

「地元で、ユノの友達」

「完全な中立者はいません」とセレナ。「利害を隠す人より、開示した人を選ぶ」

 トーヴは眼鏡を折り畳み直す。

「ユノ殿へ好意的です。王家記録の隠蔽へ反感があります。過去に全公開で被害を出し、公開を急ぐ判断へ恐怖があります」

「長い自己紹介」とハル。

「利害開示」

「嫌いな茸まで言う?」

「食事判断へ関係すれば」

「今から食堂」

「薄い茸スープは好きです」

「そこは短い」

 法廷食堂では、席順にも法があった。

 王家側。

 法廷側。

 被告側。

 三つの卓。

 被告側の卓は空である。

「一緒に食べたら駄目?」とハル。

「非公式接触の疑い」と法吏。

「パンを渡すだけ」

「贈答」

「塩は」

「共同備品」

「胡椒」

「この都市では嗜好品」

「都市で変わる?」

「次の都市では医薬刺激物です」

「食事まで管轄」

「アレルギー事故で証言能力を失った事件があったため」

 一つの規則には、一つの事故がある。

 ハルは自分の砂パンを半分に割り、空の被告卓へ置きかけた。

 止める。

「ユノが来た時用に取っとく、は」

「保存時間を越えます」とセレナ。

「じゃ食べる」

「本人不在の席へ、本人の好みを置かないのは良い判断です」とリゼ。

「俺が食いたいだけ」

「理由が一つとは限らない」

 ノクスは三つの卓の境界線を無視して歩き、王家側の魚を一切れ取った。

「証拠生物!」と法吏。

「正式乗員」とハル。

「窃盗です」とセレナ。

「干し魚一枚、時刻八時四十七分」

「記録する?」

「被害申告があれば」

 王家代訴官は、自分の皿からもう一枚を床へ置いた。

「贈与だ」

「ノクスへ条件を提示しましたか」

「食べれば受領」

「沈黙を同意へしないで」とリゼ。

 代訴官は初めて、ほんの少し困った顔をした。

 ノクスは魚を嗅ぎ、食べずに立ち去る。

 贈与を断ったのか。

 満腹なのか。

 分からない。

 分からない時、受け取ったと処理しない。

 この法廷が一日かけて学ぶことを、黒い夜獣は一枚の魚で先に見せた。

 最初の都市は、外鏡市セルだった。

 鏡王国の記録庫が集まる町。

 トーヴ・セルの故郷。

 法廷列車が門をくぐる。

 床下の景色が変わった。

 砂色の宮殿が消え、灰色の書庫塔が何百本も現れる。塔と塔の間を、紙片のように薄い橋がつなぐ。風が吹くたび橋はめくれ、裏面に別の道が出る。

 法廷内部も変わる。

 壁から脚注欄がせり出す。

 証言台の横へ、版番号を示す細い鏡柱。

 口頭証言より文書履歴を優先する、セル市の法廷様式。

「同じ事件なのに、部屋が変わる」とハル。

「部屋だけではありません」とトーヴ。

 分厚い折り畳み眼鏡を三段に開く。

 袖には脚注札。

 右肩の古い投石痕が、移動の揺れで硬くなっている。

「セル市では、契約の現行版より、版履歴の連続性が重い。今の文が正しくても、どの手続きで今になったかが欠ければ効力を失います」

「じゃ有利?」とハル。

「誰に」

「ユノ」

「まだ分かりません」

「地元なのに」

「地元法を、地元民へ有利な道具と理解しないでください」

「でも知ってる」

「知っているから、危険な穴も知っています」

「脚注何個」

「今の発言へ三つ」

「減らして」

「脚注を一つ。減らしません」

 王家代訴官が立つ。

「第一争点。被害公女の法的地位」

 鏡紙が中央へ浮かぶ。

『公女役登録 ユノ・ヴァレント』

『登録目的 ルーメン王国との婚姻外交』

『保護責任主体 ヴァレント王家』

『保護期間 条約の成立、失効、または共同解除まで』

「現在、条約は成立していない」とエリア。

 代訴官は彼女を見ない。

「候補条約の監査中であり、共同解除は完了していない」

「本人の現在署名がない」

「署名の有無は第三争点です」

「今、保護期間の根拠へ使った」

「保護は婚姻同意と別層です」

「別なら、婚姻役を資産登録する理由は」

「外交上の危険があるため」

「本人の危険?」

「国家と本人の双方」

「どちらが優先される」

「状況による」

「今は」

「所在不明のため、危険を否定できない」

「否定できない危険で、本人の明示した移動意思を無効にする?」

「無効とは述べていません。確認まで保留する」

 エリアの声が冷える。

「保留中、本人はどこへ置かれる」

「保護域」

「それを本人が拒否している」

「拒否が自由意思か確認する」

「保護域の外で?」

「保護域内で」

「戻してから、戻りたいか聞く」

「安全確保後に」

「答えが戻りたいになるまで、安全確認を続けられる」

 進行法官が木槌ではなく、透明な砂時計を返す。

「質問と意見を分けなさい」

 エリアは顎を上げる。

「質問です。確認の終了条件は何ですか」

 代訴官は条文を開く。

「保護対象本人が、独立した法官二名の前で、危険と不利益を理解し、継続した意思を示すこと」

「継続の期間」

「規定なし」

「終了しない可能性」

「ある」

 代訴官は隠さなかった。

 隠さないことは、正しいことと同じではない。

 だが、争点を正しく見せる。

 セレナは記録する。

『確認期間、上限なし』

「第二争点」と進行法官。「国家資産性」

 王家側は、ユノの身体を資産とは呼ばなかった。

 婚姻交渉権。

 第一継承権。

 鏡門外交印。

 停戦条約の履行保証。

 四つの役割を、国家資産と呼んだ。

「人間ではなく役が資産」とハル。

「はい」と代訴官。

「役を置いて本人だけ出たら」

「役は本人へ付随する」

「付随って、くっついてる?」

「法的に」

「剥がせる?」

「条件により」

「本人が剥がしたい時は」

「共同解除が必要」

「共同って誰と誰」

「本人、保護主体、条約相手国」

「本人が嫌って言っても、残り二つが嫌なら剥がれない」

「外交契約は一方の意思だけで消えません」

「じゃ本人の身体に、国二つがぶら下がる」

「表現が不正確です」とセレナ。

「どこ」

「二国以外にも、議会、条約保証都市、保険機関が関与します」

「増えた!」

「正確になりました」

「悪化した!」

 傍聴席に小さな笑いが起きる。

 進行法官が静粛を求める。

 ハルは笑わせるつもりではなかった。

 分からないから、分かる形へ言い換えただけだ。

 時に、素朴な言葉は法律の異常を裸にする。

 時に、素朴すぎて必要な保護まで剥がす。

 だからセレナは、裸にした後、もう一度服を着せる。

「確認します」と彼女。「資産登録の対象は、ユノ本人の身体ではなく、継承・婚姻・外交上の法的機能」

「その通り」と代訴官。

「しかし、機能は本人の身体と意思を通じてしか行使できない」

「はい」

「ゆえに、機能を保護する措置が、身体移動を制限する」

「はい」

「身体を資産と呼ばないまま、資産保護を理由に身体を拘束できる」

 代訴官は一拍置く。

「拘束ではなく、保護です」

「出口を本人が選べない状態を、法廷では何と呼ぶかが争点です」

 セレナは声量を上げない。

 敬称も外さない。

 王家代訴官は反論しなかった。

 反論できないのではない。

 その問いが、今ここで結論にできないことを知っている。

 セル市の法官三名は、最初の中間判断を出した。

『ユノ・ヴァレント本人の身体を国家資産とは認定しない』

 ハルが息を吐く。

 続く。

『ただし、同人へ付随する第一継承権、婚姻外交権、鏡門条約印は、現行契約上の国家資産である』

「半分」とカイル。

「半分で済まない」とエリア。

『当該資産が本人の所在と分離できない以上、所在確認および一時的保護措置には合理性がある』

「結局、戻せる」とハル。

「現時点では」とセレナ。

『被害公女の法的地位を認定する』

 鏡柱へ、赤い印が灯る。

 被害公女。

 ユノ・ヴァレント。

 本人は不在。

 役だけが、法廷で先に認められた。

 列車の鐘が鳴る。

 次の都市へ移る合図。

 床下の書庫塔が傾き、紙の橋が裏返る。

 法廷全体が鏡の中へ入る。

 セレナは単眼鏡を押さえた。

 左眼へ光が刺さる。

 その瞬間、空の被告席の鏡面へ、誰も座っていないはずの白い輪郭が一拍だけ映った。

 ユノの幻ではない。

 白縁がない。

 記録鏡が、登録上の公女役を席へ補っている。

「人がいないから、役を映した」とリゼ。

「本人の代わり?」とハル。

「代わりにならない」

 リゼは空席の角度を、もう一度二十七度へ戻す。

「いない人を、いる役で埋めないで」

 鏡の白い輪郭が消える。

 だが、法廷の中間判断は残った。

 最初の都市は、ユノを国家資産ではないと書きながら、国家資産から分けられない人として認定した。

 言葉は人を所有していない。

 ただ、人が出ていけないよう、出口へ正確に並べられていた。