第365話 第三章「国家資産という言葉」前編
国家資産という言葉は、たいてい鉱山、橋、港、金庫に使われる。
人へ使う時、話す者は決まって「人そのものではない」と前置きした。
歌手ではなく、その歌唱権。
職人ではなく、その技術継承。
王ではなく、その署名権。
前置きは正しい。
正しい前置きの後に、その歌手を舞台へ縛り、その職人を工房から出さず、その王を結婚させるなら、言葉の上で人を所有していないことは、生活の上でさほど慰めにならない。
歴史上、多くの国家は人間を所有しないと宣言しながら、人間が持つ機能を一つ残らず所有した。
機能を全部取られた人間に、自由だけが残るかどうか。
それが、国家資産という言葉の裏面だった。
「王太子カイル・アークレイ」
「はい」
「証言台へ」
「王太子として?」
「登録上は」
「本人としては、座りたい」
「証言台に椅子はありません」
「国家資産への配慮が足りない」
「外傷申告を先にしてください」とセレナ。
「背中に少し」
「程度」
「笑うと痛い」
「笑わないで」
「法廷で最も難しい命令だ」
「あなたにだけです」
第二都市へ入った法廷列車は、証言者を立たせる形へ変わっていた。
砂避市アイン。
過去、三度の砂嵐と二度の戦争で、身元のない子供、記憶を失った避難民、家族から逃げた者を一時保護してきた都市である。
ここでは、本人の身元が確定しなくても、先に保護できる。
本人が「大丈夫」と言っても、危険が高ければ一晩は安全区へ置ける。
その仕組みで救われた人は多い。
同じ仕組みから、出られなくなった人もいる。
法廷の壁は柔らかな白布へ変わり、扉には取っ手が二つ付いていた。
内側から開ける取っ手。
保護官が開ける取っ手。
どちらが本当の出口か、初めて入る者には分からない。
カイルは証言台へ立った。
深紅の半マントを外す。
王家の紋章を外す。
盾型籠手だけは外さない。
「証言資格」と進行法官。
「ルーメン王国第一継承者。国家資産登録の当事者。王盾炎の保有者」
「利害関係」
「婚約条約の相手国王太子。被告側友人。エリアの幼なじみ。ユノを一発殴りたい程度の私情」
「最後は削除してください」とセレナ。
「事実だ」
「証言目的へ関係しません」
「動機の開示」
「殴打予告です」
「左手で一発」
「具体化しない」
王家代訴官が立つ。
「国家資産登録により、あなたが得た利益を述べてください」
「利益から?」
「不利益だけを語れば、制度の全体像を欠く」
「正しい」
カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。
決断の癖。
「暗殺未遂の後、俺の移動経路は国家資産保護へ入った。警備費が王家私費でなく国家予算になった。俺が未成年の間、父王が死亡しても継承権を第三者へ売れなくなった。王盾炎を無理に使わせる契約も、資産毀損として止められた」
「救われた?」と代訴官。
「何度も」
「制度は必要?」
「必要な部分がある」
ハルが傍聴席で口を開きかける。
エリアが袖を引いた。
「最後まで」と小声。
カイルは続ける。
「同じ登録で、王城を出るたび許可が要った。俺が王盾炎を使わないと決めても、国家防衛上の能力として訓練を止められなかった。母が死んだ後、喪に服したい日にも、象徴資産として民衆の前へ立たされた」
「利益と不利益がある」
「ある」
「なら、制度全体を無効にすべきではない」
「誰が全体を無効にしろと言った」
「被告側の主張は――」
「本人がいない。被告側の主張を勝手に作るな」
カイルの声量が落ちた。
冗談が消える。
「俺は俺のことを証言する。ユノが何を望むかは、本人に聞け」
代訴官の反射仮面へ、法廷の白布が映る。
「あなたは、国家資産登録から自由に離脱できますか」
「できない」
「理由」
「王位継承は国民と議会と王家の共同制度だから」
「離脱したい?」
「時による」
「曖昧です」
「人間だからな」
「国家制度は、時による意思へ合わせて不安定になれない」
「だから本人を安定させる?」
「制度を安定させる」
「本人が壊れても?」
「そのようには述べていない」
「述べなくても起きる」
カイルは背中の火傷を見せなかった。
服の下にある。
母を守ろうとした初誓の暴走。
獅子形の炎傷。
王族の身体は、公開する傷と隠す傷を選びにくい。
公開すれば象徴になる。
隠せば美談だけが残る。
「国家資産という言葉が」とカイルは言う。「人の身体へ直接書かれなくても、傷は身体へ返る。そこを数えろ」
「感情論ですか」と代訴官。
「費用論だ。治療費、代替不能性、判断能力の低下、継承危機。国家が数字を欲しがるなら全部数字にする」
「人を数字へすることを批判しながら?」
「数字にしなければ、傷がなかったことにされる時がある」
ロロが小さく頷く。
修理工は請求する。
無料にすると、壊れたものと直した人の両方が見えなくなるからだ。
国家資産を否定するために、資産価値を計算する。
矛盾に見える。
矛盾は、別の目的を同じ言葉へ押し込めた時に生まれる。
進行法官は、国家資産登録簿の提出を命じた。
王家代訴官が三冊を出す。
一冊目は、権限。
二冊目は、維持費。
三冊目は、損失時の代替計画。
「人の代替計画?」とハル。
「役割の」と代訴官。
「本人が死んだ時」
「継承者、代理印、共同盾陣」
「死ぬ前に、本人を休ませる計画は」
代訴官はページをめくる。
「治療規定」
「休むか本人が決める欄」
「王盾炎は緊急防衛能力です」
「ない?」
「ありません」
カイルが笑う。
「笑うところ?」とハル。
「知っていた穴が、法廷の机へ出たからな」
「嬉しい?」
「穴を知っていて埋めなかった俺も記録される。嬉しくはない」
セレナは三冊を別々の色で札へする。
「王太子の維持費として、食事、治療、護衛、教育、居所、衣装、式典が計上されています」
「衣装まで資産維持」とハル。
「俺の赤い半マントは橋の塗装と同じ項目だ」とカイル。
「似合う橋」
「渡る?」
「落ちる」
「王盾で拾う」
「また肋骨」
「話を戻してください」とセレナ。
維持費には、痛み止めがある。
代替の医師もいる。
予備の盾籠手もある。
だが、本人が痛いと言えなかった日の損失はない。
「申告を隠した場合の罰則」とセレナ。
「王族本人へは訓戒」と代訴官。「護衛責任者へ減俸」
「本人が隠すと、周囲が罰を受ける」とハル。
「再発防止」
「本人は、もっと隠す」
カイルが右籠手を見た。
「当たりだ」
「なぜ」と進行法官。
「俺が痛いと言えば、護衛が止めなかった責任を問われる。だから、言わない方が周りを守れる」
「制度の意図は」
「王子の無茶を周囲が止めること」
「結果は」
「王子の痛みを周囲へ隠すこと」
法廷の白布へ、一行が追加される。
『保護の負担が第三者へ転嫁される場合、本人は危険申告を控える誘因を持つ』
「誘因って、気持ち?」とハル。
「行動をそちらへ動かす条件」とセレナ。
「気持ちじゃない?」
「気持ちも含むが、制度で予測できる部分」
「王子が格好つけたいは」
「制度外の本人要因」とカイル。
「自分で言うな」
「正確になった」
国家資産の登録簿は、王子が何を持つかを詳しく知っていた。
王盾炎の最大面積。
一日に耐えられる痛み返し。
血統印の有効範囲。
条約署名の期限。
王子が何を怖がるかは、書いていない。
「恐怖まで書けばいい?」とハル。
「国家に?」とカイル。
「嫌?」
「嫌だな」
「じゃ書かない」
「でも、知らないまま守れるか」
「本人が、必要な時に言える場所を作る」とエリア。
「言えない時は」とフリードリヒ。
「周囲が聞く。ただし、答えを先に書かない」
父と娘が、互いを見ないまま同じ机へ言葉を置く。