第366話 第三章「国家資産という言葉」後編
砂避市アインの休廷鐘は、法廷の外にも聞こえた。
白い天幕の間を、子供たちが走る。
名前を登録した子。
名前を言わない子。
仮名を毎日変える子。
法廷の参加者は、休廷中も保護区の規則へ従う。
相手から名を言わない限り、聞かない。
写真鏡を向けない。
どこから来たかを、食事の条件にしない。
ハルは給水桶を運んだ。
「審理中の利害関係者が、現地作業へ参加するのは」と法吏。
「駄目?」
「証人への利益供与に見える可能性」
「水運ぶだけ」
「労務の価値があります」
「じゃ誰にも証言を頼まない」
「頼まなくても好感が」
「水飲めない方が公平?」
法吏が止まる。
公平という言葉は、同じ距離を保つことに使われる。
助けが必要な人から同じ距離を保てば、助けを持つ者だけが安全になる。
セレナが条件を出す。
「作業者名を公開。審理関係の話をしない。受益者を選ばず、現地責任者の指示に従う。証言者候補へ個別接触しない」
「水運べる?」
「はい」
「面倒だけど、運べる」
「それが手続きです」
ハルは桶を二つ持つ。
左肩へ負荷を掛けすぎないよう、片方を腰の縄へ吊るす。
カイルも一つ持った。
「王太子」と法吏。
「本人として」
「それは区分になりません」
「じゃ国家資産の現地耐久試験」
「悪用」とセレナ。
「給水奉仕」とエリア。「公的身分を開示し、写真鏡を禁止、謝礼なし」
「公女候補も?」とハル。
「元候補。現時点では航路監査補助者」
「肩書長い」
「水は短く持って」
エリアは桶ではなく、天幕間の足場を測る。
白い布の下には、砂へ沈みかけた板。
車椅子の車輪が引っ掛かる。
彼女は路図を使わず、まず板を手で動かす。
「魔法使わない?」
「測定済みの線を描けば早い。でも、保護区の地図へ居住位置が残る」
「残すと危ない」
「だから、紙へ描かず、板へ印だけ」
地図は、人を助ける。
人の居場所を知る者を増やす。
便利な線は、追跡路にもなる。
一人の子供が、カイルの赤金髪を見る。
「王子?」
「違う、と言ったら嘘になる」
「王子、ここにいていいの」
「君が嫌なら離れる」
「王子がいると、悪い人来る?」
「可能性はある」
「じゃ水だけ置いて、顔を隠して」
「分かった」
カイルは半マントを頭へ巻いた。
「怪しい」とハル。
「王子よりは」
「比べる対象が強い」
子供は水を受け取る。
「名前は?」とカイルが言いかける。
止める。
「呼ぶ時、何て呼べばいい?」
「今日は、赤靴」
「明日は」
「明日決める」
「了解、赤靴」
名前を知ることが親しさとは限らない。
知らないまま相手の選んだ呼び方を使うことも、関係になる。
休廷鐘が二度目を鳴らす。
法廷へ戻る時、ハルは天幕群を振り返らない。
誰がどこへ住むかを、目で覚えすぎないために。
カイルは、自分の国家資産登録簿へ一行を足す申請を書いた。
『保護対象本人が、保護による第三者負担を申告できる欄』
判決前の提案である。
採用されるかは分からない。
それでも、自分の制度を証言した人間が、他国の裁判だけ直して帰るわけにはいかなかった。
休廷中、ハルはカイルの温石を交換した。
「熱い?」
「少し」
「どっち」
「石が熱い。背中が痛い」
「二つ答えた」
「正確になった」
「セレナが感染した」
「王太子は感染症へ弱くない」
「国家資産だから?」
「そこ、便利に使うな」
ハルは温石を布へ包み直す。
左肩を回す。
長く同じ姿勢で座ったせいで、亜脱臼しやすい肩が固い。
「逃げたかった?」
「何から」
「王子」
「毎月」
「本気で」
カイルは窓の外を見る。
砂避市の保護区。
白い天幕が何百も並ぶ。
入口には名を聞かない列と、名を記録する列が別にある。
「母が死んだ次の日」
冗談がない。
「城の屋根まで行った。飛び降りるつもりじゃない。どこかの飛行艇へ乗って、名前を捨てるつもりだった」
「行かなかった」
「エリアに見つかった」
「何て言われた」
「『逃げる先の予算を計算した?』」
ハルは吹き出した。
「止め方がエリア」
「十歳だった」
「十歳で予算?」
「公爵令嬢は怖い」
少し離れた窓で、エリアが振り返る。
「聞こえている」
「今も怖い」とカイル。
「温石を返して」
「国家資産への虐待」
「私費で買った石です」
「公爵家資産」
「私の個人会計」
「どこまで分かれてるんだ、この世界」とハル。
「分けないと、愛情まで公費になります」とエリア。
言ってから、父を見る。
フリードリヒは法廷の隅で書類を読んでいる。
半月眼鏡。
右手首の補助帯。
机の上の紙は、角までそろう。
「父上」とエリア。
「何だ」
「私の護衛費は、どの会計」
五秒。
「公爵家公費。学院内は学院共同費。私的外出は私費」
「私が断った護衛は」
「待機費として私費」
「断っても払っている」
「待機させたからだ」
「私へ知らせず」
「知らせれば拒否する」
「拒否されると知って、先に置いた」
「はい」
返事が短い。
エリアの顎が上がる。
「ユノも同じだと思う?」
「似ている」
「同じ?」
「同じではない」
「私は、彼なら全部断ち切りたいと思う」
「それは君の答えだ」
言ったのはセレナだった。
証羽を重さ順へ並べている。
「似た境遇でも、望みは同じではありません」
「分かっている」
「今、重ねました」
「私は彼の婚約候補で」
「だからこそ、あなたの拒絶を彼の拒絶へ代用しない」
エリアの右眉が上がる。
「セレナは、私が彼を代弁していると?」
「し始めた、と言いました」
「彼は自分で離れた」
「事実です。何を全て失いたいかは、まだ本人から聞いていない」
「保護契約も拒否したから離れた」
「拒否した可能性が高い。どの保護まで、どの期限で、どの代替を求めるかは不明」
「細かすぎる」
「本人の人生なので」
エリアは地図針へ触れた。
動揺の癖。
「私なら、父上の保護契約を全て捨てる」
フリードリヒが顔を上げる。
「本当に?」とセレナ。
「何」
「肺の治療費、緊急航路、身分を問わない診療権、誘拐時の国際照会、母上の基金。全て?」
エリアは答えない。
捨てたいのは、選択を奪う部分だ。
残したいものもある。
全部と一言で言えば、自分の怒りは美しくなる。
美しい怒りは、細部を消す。
「訂正します」とエリア。「全てではない。本人の同意なしに更新される部分を外したい」
「今のは、あなたの答え」とセレナ。
「分かっています」
「ユノへは」
「聞く」
「答えを予想せず」
「努力する」
「約束しない?」とハル。
「失敗する可能性を隠さない言い方です」
「セレナが二人」
「あなたも増やしますか」
「遠慮する」
午後の審理で、被告不在の仮説が一つ作られた。
国家資産登録は役割へ付く。
なら、婚姻候補役を解除すれば、資産保護の根拠は減る。
エリアは、ルーメン側候補者として、婚姻候補役の一時解除を申請した。
「本人不在で?」と進行法官。
「私自身の候補者役だけを解除します。ユノの役を代筆しません」
「二者契約の一方解除」
「現行原本に、私の現在署名がない。少なくとも私の側で成立を主張しない」
カイルが王太子印を置く。
「ルーメン王国は、本人署名のない候補条約を国家資産として保護しない」
「王の承認は」と代訴官。
「俺の条約権限内」
「王太子の私情」
「私情があると開示した。法的根拠は別に出す」
フリードリヒは航路相として、解除後の外交損失を計算した。
市場不安。
鏡門関税。
停戦保証。
公爵家の信用。
「損失はある」と言う。
「だからやめない?」とハル。
「損失があることと、続ける権利があることは違う」
彼は自分の計算表へ、解除の署名をした。
五秒では足りなかった。
十五秒かかった。
法廷の鏡柱から、婚姻候補役の金線が一本消える。
ユノの名の横にあった、ルーメン側の資産印が薄くなる。
ハルが空席を見る。
「終わり?」
「一層だけ」とトーヴ。
「まだある?」
王家代訴官が、二冊目を開いた。
婚姻条約ではない。
古い公女保護契約。
紙の色が違う。
縁に、子供の手形がある。
「本契約は婚姻候補役の成立以前に締結されています」
「何歳」とセレナ。
「初回署名時、七歳」
リゼの面紗が動く。
ユノが母の声の一部を失った頃。
「署名者」と進行法官。
「本人の手形。王妃の代理署名。王の保護印」
「目的」とセレナ。
「鏡門事故、誘拐、記憶攪乱、外交利用から、王子を保護すること」
「期限」
「解除まで」
「成人時の再同意」
「現行版には記載なし」
現行版。
その言葉へ、トーヴが眼鏡を上げる。
「初版には?」
代訴官は答えない。
「版履歴の提出を求めます」とトーヴ。
「王家機密を含む」
「公開層を分けて」
「審査が必要」
「審査中に、現行版だけを効力の根拠へ出した?」
法廷の空気が変わる。
婚姻候補役を外しても、保護契約が残る。
しかも、その契約は幼いユノの手形と、母の代理署名から始まっている。
役を剥がせば本人が自由になる、という最初の仮説は崩れた。
役より古い保護が、本人の下へ敷かれている。
床のように。
自分では持ち上げられない、子供時代の床として。
法廷列車の鐘が鳴る。
次の都市へ向かう。
カイルは証言台を降りる前に、王家代訴官へ言った。
「国家資産の話を一つ訂正する」
「何を」
「国が守るべき最も代替不能なものは、役じゃない」
「では」
「役を断る人間まで残る国だ」
法廷記録には、意見として残った。
意見は判決ではない。
だが、次の問いの向きを変える。
ユノが国家資産か、ではない。
七歳のユノが求めた保護を、十七歳のユノが断る権利はあるか。