第367話 第四章「幼少署名」前編

子供の署名は、しばしば本人の言葉より、周囲の大人がその子に望んだ未来を記録する。

 怖い、と書いた子供の手へ、大人が安全という意味を付ける。

 行きたくない、と書いた子供の手へ、大人が今は判断できないという意味を付ける。

 どちらも、間違いとは限らない。

 子供には、まだ選べないことがある。

 大人には、代わりに選ばなければ間に合わないことがある。

 問題は、代わりに選んだ大人の言葉が、本人が選べる年齢になった後も、成長しないまま残ることである。

 子供は大人になる。

 代理署名だけが、子供のままで本人を待つ。

「原本は、ここにありません」

 トーヴ・セルは言った。

「出た」とハル。

「何がです」

「記録係が一番言いそうな言葉」

「原本は、ここにないから言いました」

「どこ」

「三都市前」

「戻る?」

「法廷列車は、判決順序を崩して逆行できません」

「じゃ取れない」

「複写鎖を追います」

「鎖?」

「比喩です」

「トーヴが比喩を使った」

「不正確でした。版間参照の連続記録です」

「戻った」

 第三都市、折紙市パリオ。

 鏡砂を漉いて紙にする町である。

 建物は一枚の長い紙を折って作られ、風向きが変わると屋根が壁になり、壁が橋になる。

 法廷列車も、入市と同時に折れた。

 七両が一列ではなく、上下左右へ蛇腹に畳まれる。

 証拠庫は法廷の真上。

 記録閲覧室は法廷の裏。

 歩いて行くには、壁を三度床へ変えなければならない。

 ハルは楽しそうだった。

「道が動く」

「記録が動く町で、道だけ止めません」とトーヴ。

「好き?」

「嫌いです」

「地元の近くなのに」

「紙を折るたび版番号を振らない文化は信用できません」

「文化へ番号を要求するな」とロロ。

 折紙市の法では、原本が遠方にある場合、最も古い連続複写を暫定原本として扱える。

 ただし条件が三つ。

 一、各複写の閲覧者が追えること。

 二、版間の変更者が追えること。

 三、複写されなかった余白も、余白として残っていること。

「書いてないところまで残す?」とハル。

「書いてないことを、なかったことにしないためです」

 トーヴは袖から脚注札を抜いた。

 公女保護契約は、初版から現行版まで二十三版。

 第一版。

 ユノ七歳。

 鏡門事故の直後。

 王妃が代理署名。

 ユノ本人は小さな手形と一文。

『こわいところへいかないようにしてください』

 第二版。

『本人が恐怖を示す場所への移送を禁ずる』

 第五版。

『王家保護官の確認なく、危険地域へ移送しない』

 第九版。

『王家保護域外への移送は、保護官の確認を要する』

 第十四版。

『保護域外への所在変更は、共同承認を要する』

 第二十三版。

『共同承認なき所在変更を、保護対象の不法移送とみなす』

「怖い場所へ連れていくな、が」とハル。「自分で出ても誘拐、になった」

「一度に書き換えられたのではありません」とトーヴ。

「少しずつならいい?」

「いいとは言っていません」

「でも、毎回理由がある?」

「あります」

 第二版から第五版の間に、脅迫された子供が「怖くない」と言わされた事件。

 第五版から第九版の間に、安全を装った親族が保護官を偽った事件。

 第九版から第十四版の間に、複数都市を経由して責任主体が消えた事件。

 第十四版から第二十三版の間に、本人名義の偽手紙で王族が連れ去られた事件。

 毎回、穴を一つ塞いだ。

 穴を塞ぐ紙が積み重なり、最後に扉まで塞いだ。

「悪い人が変えたわけじゃない」とハル。

「記録上、悪意は立証できません」

「なら誰を止める」

「人ではなく、現在も動く条件を」

 トーヴは眼鏡を三段目まで開いた。

 文書へ閲覧者の残光を刻む術〈リーダー・グロウ〉

 彼の右中指が、第一版複写へ触れる。

 紙の縁へ、淡い光が浮かぶ。

 青。

 王妃。

 紫。

 王。

 白。

 当時の保護官。

 小さな金。

 ユノ本人。

「誰が見たか分かる」とエリア。

「誰が、どの版を、どこまで見たか」とトーヴ。「理解したかは分かりません。賛成したかも分かりません。見た痕です」

「読み飛ばしたら」

「頁単位で残ります」

「寝ながら見たら」

「残ります」

「眼鏡なしで見たら」

「私は一歩先も見えません」

「トーヴじゃなくて」

「閲覧と理解を混同しないための例です」

 ロロが紙の折り目を覗く。

「同じ紙じゃねえ」

「当然、複写です」

「紙質じゃない。第十四版の折り筋だけ、右から左。パリオの公文書は左から右へ畳む」

 トーヴの眼鏡が光る。

「持ち出し複写」

「どっかで開いて、戻した」

「閲覧痕を」

 第十四版。

 光が出る。

 王妃の青。

 その痕は、本文の途中で止まっていた。

 保護条件の追加を読み、最後の不法移送定義までは見ていない。

「母が、全部見てない?」とリゼ。

「この版では」とトーヴ。

「なぜ」

「残光だけでは分かりません」

「途中で閉じた」

「可能性」

「反対した?」

「分かりません」

「体調が悪かった?」

「分かりません」

「誰かに止められた?」

「分かりません」

 リゼの母音が短くなる。

「分からないばっかり」

「分からないものへ、母君の感情を私が入れないためです」

 リゼは面紗の端を直しかけ、やめた。

「正しいから腹立つ」

「承知しています」

「承知の顔もしないで」

「顔の制御は苦手です」

「眼鏡しか見えない」

 ハルが紙へ顔を近づける。

「これ、焼けてる」

 最下部。

 折り目の内側。

 細い茶色。

「火?」

 ロロが嗅ぐ。

「熱じゃない。鏡光で樹脂が変色した跡」

「何があった」

「別の紙を重ねた」とロロ。「上の紙へ光を通した。こいつは下敷き」

 トーヴの左親指が、複写を固定する。

 トーヴは二十三版を、一本の線へ並べなかった。

 床へ円状に置いた。

「なぜ円」とハル。

「現行版から初版へ戻る変更もあるからです。歴史は必ず前へ進むとは限りません」

「巻き戻した版」

「第六版、第十一版、第十八版」

 第六版は、保護官の単独承認を認めた第五版を修正し、本人の拒否を記録する欄を追加した。

 第十一版は、王家だけが危険を判断する仕組みへ、市民医師の異議申立てを入れた。

 第十八版は、保護対象が自分で保護官を一人選べるようにした。

「良くなった」とハル。

「一部」とトーヴ。

「その後消えた?」

「第七版で拒否欄は『参考意見』へ格下げ。第十二版で市民医師の異議は王家医師の確認が必要。第二十版で本人選任保護官は、王家認定名簿から選ぶ条件が付いた」

「戻ったようで、戻ってない」

「制度は、改訂語を残したまま権限だけ元へ戻すことがあります」

「見た目だけ新しい部品」とロロ。

「修理したって札を貼って、中の歯車は同じ。むしろ外から分かりにくくなる」

 エリアは第二十版の余白を見る。

『本人選任』

 大きく書かれている。

 その下に、小さく候補名簿条件。

「選べるように見せる」と彼女。

「選択肢の範囲を、先に選ばれている」とリゼ。

「今の宮殿も、同じかもしれない」

「兄さんがどこにいるか、まだ分からない」

「推測」とエリアは言い直す。「同じ構造の可能性」

 セレナが遠くの法廷席から頷く。

 自分で訂正できる人へ、他人が勝ち誇って訂正を重ねない。

 版履歴には、法律だけでなく生活が挟まっていた。

 第八版の余白。

『対象者、夜間に窓を開けて眠ることを希望。高所危険のため不可。代替として天井へ空の幻像を投影。』

「兄さん、偽物の空が嫌い」とリゼ。

「当時は」とトーヴ。

「当時も。私が覚えてる」

「記憶時期は」

「忘れてない方の時期」

「正確な年齢」

「今聞く?」

 トーヴは口を閉じる。

 証言者の記憶を確かめることは必要である。

 家族へ、証明のために何度も傷を開かせることもある。

「撤回します」と彼。

「必要なら後で聞いて」とリゼ。「今は、兄さんが偽物の空を嫌ったことだけ。年齢を正確にしないと使えないなら、使わなくていい」

「記録します」

 第十版。

『対象者、母の病室へ行くことを希望。感染危険のため、鏡越し面会。』

 ユノの母が病んでいた時期。

 鏡越しに聞いた声。

 記憶対価で一部を失った声。

 ハルは紙へ触れない。

「会わせなかった?」

「感染危険が具体的にあった」とトーヴ。「同時期の医療記録では、王妃の病は接触感染の可能性が高いとされた」

「正しい保護」

「当時の情報では、合理性がある」

「でも声は、鏡越し」

「それが後で何を残したかは、別の問いです」

 正しかった判断にも、損失がある。

 正しいから、傷つかなかったことにはならない。

 第十三版。

『対象者、妹の記憶回復処置への同席を希望。本人リゼの拒否により不可。』

 リゼが止まる。

「これは残して」

「公開範囲」とトーヴ。

「家族限定。法廷へは、拒否が記録された事実だけ」

「内容は」

「兄さんが同席したかった、は出さない」

「なぜ」

「私の拒否を、兄さんが傷ついた話へ変えたくない」

 トーヴは脚注札へ二層を書いた。

 公開。

『当事者リゼが処置を拒否した。拒否は実施された。』

 家族限定。

『同席希望者の記録あり。』

 全文を一つの箱へ入れない。

 歴史は、正しい全文を保存すれば正義になるわけではない。

 誰が見るかで、同じ文が刃物になる。

「トーヴ」とリゼ。

「はい」

「昔、全部公開して、人が死んだんだよね」

 眼鏡の奥の目が止まる。

「はい」

「だから隠す?」

「隠したくなる」

「今は」

「あなたへ聞く」

「怖いまま?」

「怖いままです」

「なら、それも版履歴」

「人の?」

「あなたの」

 トーヴは、日記を二冊持っている。

 一冊は出来事。

 一冊は解釈。

 この場面をどちらへ書くか迷い、両方へ同じ時刻だけを書いた。