第368話 第四章「幼少署名」後編
法廷列車の重力が反転するまで、あと十二分。
ロロは文書棚の下を這っていた。
「文書へ触れない」とセレナ。
「棚へ触ってる!」
「補助腕二番が紙の端へ三ミリ」
「紙が棚から出てるのが悪い!」
「紙に責任能力はありません」
「じゃ棚!」
「棚も」
「作った奴!」
「九十年前です」
「死んでる!」
「死者を修理費請求先にしないでください」
ロロは補助腕で紙端を風だけで戻した。
「無料だぞ」
「保全作業として請求可」
「セレナ、成長したな」
「あなたが無料作業をすると、後で不機嫌になるので」
「感情まで記録するな!」
「行動傾向です」
ハルは円状の版を歩いていた。
一版ごとに、床の匂いが違う。
古い樹脂。
新しいインク。
王家香。
病室の消毒草。
文字は苦手でも、紙がどこで開かれたかを身体で覚えられる。
「第十四版だけ、砂の匂いがない」と言う。
「紙質は同じ」とトーヴ。
「他は全部、ここで複写した匂い。十四だけ、雨の石」
「鏡砂環に雨は少ない」とエリア。
「冠都環?」
「可能性」
フリードリヒが、第十四版の折り筋を見る。
「ルーンベルグ公邸の旧書庫は、青石と雨樋を使っていた」
エリアが父を見る。
「母上が持ち込んだ?」
「マリエラは王妃と面識があった」
「聞いていない」
「話していない」
「なぜ」
五秒。
「王妃から、婚姻保護契約の相談を受けたとだけ聞いた。内容は守秘だった」
「母上が、ユノの契約へ関わった?」
「断定できない」
「父上は、また知っていることを分けている」
「今、出した」
「法廷で必要になったから」
「はい」
エリアの顎が上がる。
「家族に必要だったかは、父上が決めた」
「はい」
「謝る?」
「今ここで謝れば、情報を遅らせた問題が終わったように見える」
「便利な正確さ」
「不便なまま残す」
父娘の間に、雨の石の匂いがある。
母が何を知っていたか。
王妃へ何を言ったか。
今ここで答える問いではない。
だが、十四版が王宮だけで閉じて作られたのではない可能性は、目の前の付属文書へつながる。
「閲覧痕を重ねる」とトーヴ。
第十四版の青い残光。
雨石の匂い。
逆向きの折り筋。
下敷きになった鏡光の変色。
王妃は、この版を別の場所で開いた。
本文の途中まで読んだ。
何か別の紙を重ねた。
「別紙を書いた」とリゼ。
「可能性が高い」とトーヴ。
「反対文?」とハル。
「まだ分かりません」
「成人したら聞け、かもしれない」
「その推測を、法廷資料の本文へ先に書かないでください」
「じゃ、どこへ置く」
「脚注です。今の推測は、本文へ入れず保留してください」
「言ったから入った」
「推測表示を付けます」
トーヴは白い札を置く。
『推測――王妃が第十四版閲覧時、別紙を作成した可能性』
推測を消さない。
事実の顔をさせない。
「付属文書」
「契約書の隠れた条件〈スモール・ライン〉?」とハル。
「小さな字とは限りません。別紙、裏面、署名資格、参照先。本文から見えない条件の総称です」
「どこにある」
「参照番号が削られている」
折り目の内側に、薄い数字。
『十四―母―二』
「母」とリゼ。
「王妃提出文書の第二号」
「原本は」
「王家証言庫」
「法廷列車のどこ」
「現時点では、証拠庫の上層封印区」
ハルが天井を見る。
今いる閲覧室の、さらに上。
折紙市の重力では、上は三分ごとに変わる。
「行く?」
「閲覧許可が要ります」とトーヴ。
「取る?」
「申請します」
「何分」
「通常、二日」
「法廷、次の町へ行く」
「一時間十四分後」
「間に合わない」
「緊急申請」
「何分」
「最短、九十分」
「間に合わない!」
制度は、証拠を守るために時間をかける。
移動法廷は、証拠へ会いに行くために動く。
二つの正しい速度が、同じ証拠を失わせようとしていた。
トーヴは、許可を破らなかった。
代わりに、許可の対象を変えた。
「封印文書の閲覧を求めません」
進行法官へ申請する。
「では何を」
「文書の存在、作成時刻、版番号、封印指定者、閲覧痕だけを確認します。内容は見ない」
「内容を見ず、証拠になる?」
「現行版に参照文書が存在した事実を立証できます」
王家代訴官が異議を出す。
「存在だけで、内容の効力は立証できない」
「その通り」とトーヴ。
「認める?」とハル。
「認めない事実を、反論しません」
「じゃ弱い」
「弱い証拠を、強いと演出しない」
進行法官は限定確認を許可した。
ただし、上層封印区へ入れるのはトーヴ一人。
法廷が次の鏡門へ入る前に戻ること。
「俺も」とロロ。
「技術補助の登録がありません」
「封印棚の折り機、九十年前のパリオ式だぞ。途中で噛んだら紙ごと折る」
「根拠」
「音」
「証拠を」
ロロは床へ耳を当てた。
法廷列車の上から、一定間隔の軋み。
「三拍目だけ歯が滑る。左側の送り爪が欠けてる。次の重力反転で棚が閉じたら、開かない」
進行法官が保全技師を呼ぶ。
技師は音を聞く。
「規格内」
ロロの補助腕が全部下がる。
「規格内で壊れる音だ」
「予測です」
「じゃ壊れてから呼べ」
「証拠が損傷します」
「だから今言ってる!」
セレナが間へ入る。
「技術補助として、ロロ・ピクスを限定登録。作業範囲は装置。文書へ触れない。全作業を証羽で記録」
「証羽は嫌い」とロロ。
「文書が折れるより」
「まだマシ」
「本人の同意を記録します」
「一ルクでも払えよ」
「費用申請を」
「緊急時に申請書!」
「無料にすると怒るでしょう」
「正しい!」
上層封印区への道は、道ではなかった。
折れた法廷車両の外壁。
紙の橋。
鏡門の縁。
重力が変わるたび、天井が床になる。
トーヴは走れない。
眼鏡なしでは一歩先も見えない。
眼鏡は振動でずれる。
ハルが同行を申請した。
「理由」
「落ちる人を拾う」
「証拠保全能力」
「ない」
「なら」
「人間保全」
進行法官が一拍止まる。
「許可」
ハルは先に飛ばなかった。
トーヴへ聞く。
「どこ持っていい」
「外套は破れます。右腕は腱鞘炎。左肩は比較的」
「眼鏡」
「触らないで」
「落ちたら」
「私より先に」
「眼鏡を?」
「今のは不適切でした。私を」
「脚注で直した」
「本文訂正です」
第一反転。
床が壁になる。
ハルがロープを投げる。
左肩へ負荷を掛けず、右手と腰で受ける。
ロロの補助腕が封印棚の外枠へ吸着する。
「三拍!」
棚が閉じる。
一。
二。
三。
歯車が滑った。
鉄の棚が斜めに落ちる。
「規格内!」とロロが叫ぶ。「壊れ方まで規格通りだ!」
補助腕二本で棚を支え、左手で送り爪へ楔を入れる。
ハルはトーヴの腰帯を掴む。
トーヴの眼鏡が外れた。
「見えない」
「俺が言う。右、二歩」
「右の定義」
「今の床の下流!」
「不正確ですが採用」
二歩。
封印棚の前。
トーヴは手探りで認証板へ指を置く。
内容を見ない限定閲覧。
棚が一センチだけ開く。
光が出る。
王妃の青い残光。
作成時刻。
十四年前。
文書名。
『成人時再確認に関する証言』
封印指定者。
王妃本人。
受取記録。
なし。
「未送信」とトーヴ。
内容は見えない。
見ない許可だからだ。
ただ、最下部に欠けた一行分の空白がある。
誰かが削ったのではない。
最初から、公開対象から外す印が付いている。
王妃自身が、見せない部分を選んだ。
棚の背後で、法廷列車の出発鐘が鳴る。
「戻る!」とハル。
ロロが楔を抜く。
封印棚は閉じる。
閉じた瞬間、王妃の青い残光が、トーヴの腕の文字刺青へ一筋だけ移った。
閲覧ではない。
文書が、限定確認を受けた記録。
母の証言は存在した。
送られていない。
全部は見せないと、母自身が選んでいた。
法廷列車が次の都市へ折り畳まれる。
ハルはトーヴと眼鏡の両方を抱え、最後の一歩を跳んだ。
着地。
左手を床へつく。
左肩がわずかに外れかける。
「大丈夫」と言う前に、トーヴが訂正した。
「大丈夫かどうか、確認してから言ってください」
「セレナが増えた」
「事実が感染したのです」
眼鏡を掛け直す。
世界が戻る。
その世界には、現行契約から消えた一つの文書があった。
幼いユノを守るために署名した母が、成人したユノへもう一度聞くよう求めた証言。
ただし、内容はまだ誰も見ていない。
見ていないから、好きな答えへ使うこともできない。