第369話 第五章「母の未送信証言」前編
死者の言葉は、強い。
反論しない。
言い直さない。
成長しない。
残された者は、死者の短い一文へ、自分が聞きたかった続きを足せる。
母は反対していた。
母は賛成していた。
母なら許した。
母なら止めた。
死者は、どの側にも便利である。
だから誠実な歴史家は、死者の言葉を重く扱う。
同時に、重すぎる武器として扱う。
ユノ・ヴァレントは、母の証言を読む前に、その証言で自分が勝てる可能性を考えた。
考えてしまった。
そのことを、最初の罪として数えた。
「全文を開きますか」
裏鏡市ヴェールの閲覧官は、鏡へ背を向けて聞いた。
この町では、相手の像を見ながら同意を取らない。
顔が見えると、人は顔へ答える。
泣いている人へ、見たいと言いにくい。
笑っている人へ、見たくないと言いにくい。
だから重要な選択ほど、互いへ背を向ける。
ユノは黒い旅外套を着ていた。
王子の刺繍はない。
第一継承者の鏡印もない。
白銀の髪だけは隠しきれず、フードの縁から光る。
白いヴァイオリン・アルマは背負っている。
右手薬指には固定帯。
昨夜切れた腱をさらに傷めないよう、弦は一本少ない。
慢性耳鳴りへ、法廷列車の遠い鐘が重なる。
「全文の定義を」とユノ。
閲覧官は少し笑った。
「鏡史官の話し方です」
「近くにいると感染する」
「本文、添付記録、封印行、作成時の感覚残光」
「感覚残光は開かない」
「母君の声が含まれる可能性」
「だから開かない」
「本文は」
「公開指定された範囲だけ」
「あなた宛の私的層」
ユノは答えるまで一拍置く。
「存在だけ確認する。読まない」
「裁判へ不利になるかもしれません」
「不利を避けるために読むなら、母の私語を証拠へ徴用する」
「勝ちたくない?」
「勝ちたい」
本気の場面で、敬語が落ちる。
「だから、勝つために何を使わないか決める」
閲覧官は鏡盤へ三つの札を置いた。
『読む』
『存在のみ確認』
『見ない』
ユノは二枚目と三枚目を取る。
見ないことを選ぶ条項〈ウェイク・クローズ〉。
鏡面に、太い白縁が現れる。
現実ではない。
保存文書の再現である。
左上に作成時刻。
右上に公開範囲。
下部に欠落表示。
母の姿は出ない。
声も出ない。
文字だけ。
『成人時再確認に関する証言』
最初の一文。
『私は、我が子を婚姻から遠ざけることを求めない。』
ユノの指が止まる。
反対ではない。
裁判で最も使いやすい形ではない。
安堵した。
母の言葉が、自分の勝利へ整いすぎていないことに。
同時に、失望した。
母が無条件に自分の側へ立たなかったことに。
その二つを、美しい一つへまとめない。
次。
『婚姻は、危険から逃れる道にも、国を守る道にもなりうる。ゆえに、子が成人した時、婚姻、継承、保護、居住、公開の各条件を別々に示し、選び直させることを求める。』
別々。
婚姻を断っても、保護を残せる。
保護を断っても、家族でいられる。
公開を断っても、証言の存在は残せる。
今の法は、全てを一つへ束ねていた。
『幼少時の恐怖を、成人後の同意として用いてはならない。』
右手薬指が痛む。
ユノは弓を持たない。
文字を幻へ変えない。
母の言葉を、母の声で再現しない。
彼が覚えていない声を、想像で完成させれば、それは慰めになる。
慰めは、真実ではない。
『ただし、再確認の時、私の反対を本人の答えへしてはならない。本人が婚姻を選ぶなら、その選択も守ること。』
「厳しい」と閲覧官。
「母らしい?」
「私は知りません」
「正しい返事」
「王家の人は、死者へ性格を付けたがります」
「生者にも付ける」
「あなたは、美しい嘘の王子」
「それは宣伝局の言葉」
「嫌い?」
「便利すぎる」
「便利だから嫌う?」
「便利な役名は、本人が違う日を作れない」
閲覧官は、背を向けたまま手を出した。
「次の頁へ進むなら、札を」
ユノは『読む』を置く。
次の頁。
王家保護契約の再確認条件。
一、成人後、本人だけの閲覧室を設ける。
二、王、保護官、婚姻候補、家族を同席させない。
三、拒否に不利益を告知する場合、不利益を誇張しない。
四、保留を選べる期限を設ける。
五、沈黙を継続同意として扱わない。
「一つも実施されていない」とユノ。
「法廷へ出しますか」
「出す」
「全文?」
「この頁と、前頁の公開指定部分」
「私的層は」
「出さない」
鏡面の下に、一行分の黒い帯がある。
母が非公開へした部分。
閲覧官は説明する。
「あなた本人には閲覧権があります」
「知っている」
「一度見れば、見なかった自分へ戻れません」
「知っている」
「法廷が全文を求める可能性」
「知っている」
「では、確認します。開かない?」
ユノは目を閉じた。
弓を弦へ置く前の癖。
今、楽器は持っていない。
「開かない」
鏡面の黒帯へ、封印が一つ増える。
『現本人による非閲覧選択』
母が隠した。
息子が見ないと選んだ。
二つは同じではない。
母が隠した理由を、息子は知らない。
息子が見ない理由を、母は知らない。
それでも、知らないまま重なることがある。
閲覧鏡は、文字を出すたび薄く曇った。
ユノは一頁ごとに休んだ。
慢性耳鳴りは、静かな部屋ほど大きい。
外の砂風が聞こえない分、左耳の奥で高い弦が鳴り続ける。
王宮の医師なら、三頁目で中止させただろう。
この閲覧室では、本人が申告する。
「休止」とユノ。
閲覧官は理由を聞かない。
鏡面を伏せる。
照明を三段落とす。
水を、手の届く位置へ置く。
「薬は」とだけ聞く。
「今は要らない」
「記録する?」
「閲覧手続きへは、休止時刻だけ。症状は医療層」
「分けます」
役割を分ける。
この裁判の中心にある作業を、閲覧官は生活の小さな場面で先にしている。
ユノは右手薬指の固定帯を少し緩める。
「王宮を出て、困ったこと」と閲覧官。
「質問?」
「休止中の会話。答えなくてもいい」
「値段」
「何の」
「宿。食事。鏡門。どれも自分で払ったことが少ない」
「王子は無料?」
「無料ではない。請求先が見えない」
「同じ?」
「違う。見えない請求は、誰が代わりに払ったか分からない」
昨夜、ユノは王家印のない宿へ入った。
女主人は、白銀髪を見て一度だけ王子と気づいた。
気づいた顔をしなかった。
『名前は』
『ユノ』
『姓』
『今は出さない』
『料金、先払い。王家払いは不可。部屋の鏡を裏返すなら追加一ルク』
『なぜ追加』
『裏返す手間』
ユノは、鏡を裏返す手間へ初めて値段を払った。
王宮では、彼が眠る前に全ての鏡が背を向ける。
誰が何分使ったか、知らない。
宿では女主人が三分で裏返し、一ルクを受け取った。
具体的な対価は、王子を不自由にする。
同時に、他人の労働を見せる。
ユノは小銭を間違え、五倍の硬貨を出した。
『多い』と女主人。
『心付け』
『王子の癖を平民の宿へ持ってくるな』
『王子ではない、と言ったら』
『嘘になる。今夜、王家印を使わない客。そこまで』
女主人は、正しい身分を見抜いた。
その身分へ、全てを決めさせなかった。
「自由だった?」と閲覧官。
「不便だった」
「同じ?」
「違う。自由を、快適の別名へしない方がいい」
「王宮へ戻りたい?」
「医療室には戻りたい時がある。居住義務へは戻りたくない」
「王子でいたい?」
「一部」
「一部の王子」
「法律上、難しい?」
「この町なら、版を分ける」
「人間に版番号を付けないで」
「鏡史官が言いそう」
「近くにいると感染する?」
「そう」
ユノは笑った。
食事の感想だけは演出しない。
宿で食べた焦げた豆は不味かった。
不味いと正直に言ったら、女主人は次回から頼むなと言った。
次回。
王宮を出た人間に、その言葉が普通に使われた。
「休止、終わる?」と閲覧官。
ユノは自分の呼吸を測る。
耳鳴りは高いまま。
吐き気なし。
文字の輪郭、二重になっていない。
「再開」
「本人確認」
「ユノ・ヴァレント。十七歳。王家保護を一時停止中。公開指定部分だけ読む」
「続けます」
鏡面が再び起き上がる。
母の文字は、待っていたのではない。
文書は待たない。
ただ残る。
読む者が、今の自分でそこへ来る。