第370話 第五章「母の未送信証言」後編
閲覧室を出ると、十二歳ほどの少年が待っていた。
頭に大きな砂帽子。
片方だけ靴紐が赤い。
ユノのアルマを運んだ臨時配達人である。
「返す」
少年は、小さな硬貨袋を差し出した。
「何を」
「多い」
「報酬」
「三倍」
「危険手当を含めた」
「危険って聞いてない」
ユノの目元が、微笑みより先に崩れる。
「説明しなかった」
「王子の荷物って知ってたら、受けなかった」
「なぜ」
「王家に顔を覚えられる」
「この町は閲覧を残さない」
「町の外は残る」
正しい。
ユノは、アルマを自分で持てない時間だけ、少年へ頼んだ。
王家追跡を避けるため、楽器を別経路へ通した。
少年には、壊れやすい楽器とだけ説明した。
嘘ではない。
必要な危険を隠した。
「ごめん」
「謝れば持ったことが消える?」
「消えない」
「じゃ、名前を記録から消して」
「僕の権限では」
「王子なのに?」
「王子だから、僕が消すと別の記録が残る」
「使えない」
「そうだね」
「きれいに同意しないで」
「何をすれば」
「聞いて」
「何を望む?」
「荷物を受けた場所は残していい。顔と家は消して。金は二倍だけ。三倍目は、危険を言わなかった罰で返す」
「罰を君が決める?」
「僕が受ける金を僕が決める」
「分かった」
「分かった顔」
「みんなに言われる」
「直して」
ユノは硬貨を数え直した。
値段感覚が弱い。
王族の生活では、衣装も移動も「外交設備」へまとめられる。
少年に、適正額を聞く。
さらに、記録削除の申請費を別に払う。
「それも僕の金から?」
「君の顔を隠す費用を、君へ払わせない」
「王家の金?」
「僕の個人会計」
「王家と分かれてる?」
「分けるところから始めている」
「まだ?」
「まだ」
少年は硬貨を一枚ずつ噛んだ。
「本物」
「疑った?」
「王子の言葉より、硬貨の縁を見る」
「良い習慣だ」
「褒めて上からにしないで」
「難しい」
「王子やめたら」
ユノは答えない。
やめたいか。
王家から離れたいか。
保護を全て捨てたいか。
答えは一つではない。
今は、公女保護契約から離れる。
王子であることを直ちに捨てると、まだ決めていない。
エリアなら、全部断ち切れと言うだろうか。
そう想像し、すぐ訂正する。
彼女の答えを、自分の答えへ使わない。
少年と別れた後、ユノは証言都市へ向かう小さな渡し場へ寄った。
次の鏡門は、一時間後。
待合室には、鏡を布で覆った女性が一人いた。
年齢は二十代前半。
外交官の白い印章。
左手に、異国式の結婚輪。
彼女はユノの顔を見て、すぐ視線を外した。
「王子殿下」
「役名で呼ばないで、と頼むのは失礼?」
「こちらが先に役名を使った。訂正する。ユノ」
「ありがとう」
「私は役名で呼ばれるのが嫌いではない」
「そう」
「驚く?」
「少し」
「保護契約も残している」
ユノは、答えを整えかける。
制度にも利益がある。
あなたの選択を尊重する。
美しい二文。
やめる。
「なぜ残した?」
「相手国へ嫁いだ後、実家が条件を足すのを防げた。私が選んだ研究費も、国の気分で切れない。家族が『本当は帰りたいはず』と言っても、契約上の私の署名が優先される」
「守られた」
「今も」
「出たいと思ったことは」
「ある」
「出なかった」
「出ないと選んだ」
「同じ?」
「違う」
女性は乾いた果実を一つ食べる。
「あなたは、自分の裁判に、保護制度で助かった証人も必要だと思っている」
「なぜ分かる」
「人へ質問する前に、答えを三つ並べる顔をしている」
「顔で分かる?」
「外交官だから」
「その技術は嫌いじゃない?」
「便利。便利すぎる時は嫌い」
彼女はユノの言葉を返した。
「私へ、法廷で話せと頼む?」
「頼みたい」
「何を話すか指定する?」
「しない」
「制度が必要だったと話す」
「聞く」
「あなたも婚姻を選ぶ可能性がある、と話す」
ユノの右手が止まる。
「聞く」
「嫌?」
「今の僕に不利」
「だから断る?」
「断らない」
「なぜ」
「僕が婚姻そのものを否定している、と裁判が整う方が危険だから」
「美しい」
「本当は」
ユノは待合室の床を見る。
「怖い。自分が何を選ぶか、まだ全部決めていない。皆の前で保留と言えば、王子として弱く見える」
「弱く見えると」
「国が不安定になる」
「本当に?」
「なる可能性」
「あなたが曖昧だからではなく、一人の確定へ国を載せすぎたからでは」
「その通り」
「それを法廷で言えば」
「責任を制度へ逃がしているように聞こえる」
「自分の責任と制度の責任を分ければいい」
「簡単に言う」
「私は自分の婚姻で十年やった」
「十年?」
「十三で候補、十七で再同意、二十で再改訂。今二十三」
「三回」
「毎回、同じ相手を選んだ。でも、同じ理由ではない」
継続とは、答えを変えないことではない。
同じ答えを、状況が変わるたび選び直すこともある。
「証言してくれる?」
「条件」
「言って」
「私の名前は公開。配偶者の名前は非公開。研究内容は出さない。あなたを説得する質問には答えない。私の成功例を、他の人へ適用しないと法廷が表示する」
「全部受ける」
「今すぐ受けないで」
「なぜ」
「条件を確認していない」
ユノは一つずつ復唱する。
公開。
非公開。
質問範囲。
表示条件。
分からない点を二つ聞く。
「受ける」
「今度はいい」
女性は渡し札へ自分の証言希望を刻んだ。
「私の答えを、あなたの答えへ使わないで」
「使わない」
「それも今後の実績で」
「最近、よく言われる」
「周囲が正確」
鏡門の発車鐘が鳴る。
女性は立つ。
「あなたはどこへ」
「七都市を回る」
「逃げるため?」
「戻るため」
「王宮へ」
「法廷へ」
「同じ方向の時もある」
「今回は、違うようにしたい」
彼女は先に鏡門へ入る。
ユノは後から、自分の個人通行札を出す。
王家保護を一時停止。
本人名義。
目的は、証言依頼。
同じ選択を、別の条件で一度増やす。
法廷へ出すための記録である。
同時に、自分が本当にまだそう選ぶかを、自分へ聞く記録でもあった。
法廷への送信は、三層に分けた。
公開層。
法官限定層。
本人非閲覧層。
証言の存在。
作成時刻。
母の署名。
成人時再確認の条件。
私的な一行は、黒いまま。
ユノは送信欄へ自分の現在署名を置いた。
『私は、公開指定部分を証拠として提出する。
非公開部分を提出しない。
提出しないことを、内容が存在しない証拠として用いないことを求める。』
送信鏡が光る。
一拍。
二拍。
返事は早かった。
『七都巡回法廷・中間決定。
内容を公開できない部分は、相手方が反証不能であるため、実体証拠として採用しない。』
閲覧官が振り返らずに言う。
「不利」
「そうだね」
「開けば使える」
「使える」
「開く?」
ユノは黒い帯を見る。
母が何を書いたか、知りたい。
息子として。
王子として。
被告として。
三人が、同じ身体の中で違う理由を持つ。
「開かない」
「裁判に負けるかも」
「見ない権利を守る裁判で、勝つために見たら、勝った答えが先に負けている」
「美しい」
ユノの目元が歪む。
「そう聞こえるなら、まだ整えすぎた」
「本当は」
「怖い」
敬語が落ちる。
「母が、僕にだけ見せたい言葉を残したのかもしれない。僕を責めたのかもしれない。父を許せと書いたのかもしれない。リゼの記憶を戻せと書いたのかもしれない」
「見れば分かる」
「分かることが、いつも必要じゃない」
法廷へは、採用されない証拠が届いた。
採用されないから、無意味ではない。
母の証言は、ユノを無条件に救わなかった。
その代わり、母の言葉を使わずに自分で選ぶ責任を、彼へ返した。
ユノはアルマを背負い直す。
次の都市へ向かう。
裁判所から逃げるためではない。
裁判所へ戻る時、王子の役ではなく、自分の足で戻った記録を作るために。