第371話 第六章「証拠を見ない権利」前編
公開裁判は、隠された権力に対する発明である。
誰が裁かれたか。
何を証拠にしたか。
どんな理由で自由を奪ったか。
それを人々が見られなければ、法は扉の向こうで都合よく形を変える。
しかし、全てを見せる裁判は、別の権力になる。
被害者の顔。
子供の記憶。
治療記録。
家族へだけ残した言葉。
公開を正義と呼びすぎれば、証言する者は自分を守るために黙る。
隠す権力と、見せる権力。
法廷は、その二つの間へ細い机を置く仕事だった。
「蜂蜜菓子がない」
セレナは言った。
法廷列車の食堂。
第四都市へ向かう鏡門の中で、外の景色はない。窓には、昨日まで法廷が通過した三都市が薄く重なっている。
書庫塔。
白い保護天幕。
折れた紙橋。
どれも現実の中継ではない。
通過履歴の表示。
白縁が付いている。
「裁判の危機?」とハル。
「低血糖の危険」
「甘い粥」
「甘味と粥を同一視しないでください」
「糖は同じ」
「人が同じ栄養を摂れば同じ料理で満足する、という発想が保護法を作ります」
「そこまで?」
「空腹なので」
カイルが自分の皿から小さな蜂蜜包みを出した。
「王室非常食」
「受領記録を」
「菓子一つで?」
「贈答になります」
「友人として」
「王太子の公的審理中です」
「本人として」
「後で代価を払います」
「幾ら」
「市場価格」
「知らない」
「ではロロ」
「仲介料一割」とロロ。
「取るのか」
「値段を決める仕事!」
セレナは蜂蜜包みを受け取り、時刻を記録した。
外套の襟を閉じる。
甘味を食べる時だけの癖。
ハルは見ている。
「何です」
「法廷の外でも全部記録する?」
「全部ではありません」
「今、菓子を」
「利害関係者からの受領です」
「夢は」
「主観記録として一行」
「友達に腹立った時」
「記録しません」
「なんで」
「感情を証拠庫へ入れれば、感情が証拠の顔をする」
「でも、なかったことになる」
セレナは蜂蜜を飲み込む。
「なることがあります」
「じゃ、どこへ置く」
「まだ、決めていません」
分からない、と言うのはハルの得意だった。
セレナは苦手である。
証拠のない感情を、保留できない。
保留できないから、記録外へ追い出す。
今、ユノの母が非公開にした一行を扱う裁判で、自分の感情を全部非公開にしている。
似ている。
同じではない。
「今の、記録する?」とハル。
「しません」
「じゃ覚えとく」
「勝手に証人にならないでください」
「友達として」
「友人は権限が少ないのでしょう」
「覚えてた」
「記憶は記録ではありません」
「でも、なくならない時もある」
セレナは返事をしなかった。
食堂を出る前、セレナは紙箱を三つ借りた。
一つ目は透明。
二つ目は灰色。
三つ目は黒。
「菓子箱?」とハル。
「証拠模型です」
「蜂蜜菓子を証拠にする?」
「あなたの頭では、糖分を経由しないと制度へ届かないのですか」
「届きやすい」
セレナは透明箱へ、先ほどの蜂蜜包みの空袋を入れた。
「透明箱は、内容、受領時刻、提供者、価格、全て公開」
灰色箱へは、食堂の会計票を折って入れる。
「灰色箱は、内容を限定者だけが確認し、外部へは存在、作成者、時刻、分類だけ示す」
黒箱には何も入れない。
「黒は?」
「内容も存在も非公開」
「何も入ってない」
「今は。入っているかどうかも、外からは分からない」
「それ、証拠にできないだろ」
「できません。だから、非公開にも段階があることを示す」
トーヴが、眼鏡の奥で三箱を見る。
「脚注。灰色箱でも、誰が限定者を選ぶかで権力が生じます」
「選定記録を公開します」
「限定者が内容を漏らした場合」
「処分と削除請求」
「漏れた記憶は削除できない」
「できません」
「なら、処分は回復ではない」
「はい」
「今日、はいが多い」とハル。
「まだ昨日です」
「鏡門の中で日付がどっちか分からない」
「時刻札を見てください」
リゼが黒箱を持ち上げた。
「重い」
「空です」とセレナ。
「箱が重い」
「比喩ですか」
「物理」
ロロが底を弾く。
「遮音砂が三層。中身より箱の方が高い」
「秘密は維持費がかかる」とカイル。
「秘密を持てない人は、公開を選んだことになる?」とリゼ。
セレナは答えを急がなかった。
王族の記録は、厚い黒箱へ入る。
市場の子供の記録は、紙一枚で机に置かれる。
見ない権利を、本人の意思だけの問題にすれば、箱を買える者ほど自由になる。
「費用は、法廷が負担する仕組みが必要です」
「誰の税で」とカイル。
「全員の」
「見ないことへ税金を使うと、見たい人が怒る」
「公開へも税金を使っています。記録係、複写、傍聴席、伝羽。見せることは無料ではない」
「隠す費用だけ贅沢に見える」とハル。
「目に見えないからです」
「今、黒箱が見えてる」
「中が見えない箱を、見える場所へ置く。法廷で必要なのは、その程度の矛盾です」
セレナは三箱を食堂の机へ一列にした。
透明。
限定。
非公開。
人は、全てを一つの箱へ入れる方が楽である。
秘密か、公開か。
潔白か、隠蔽か。
二択は判断を速くする。
速くした判断が誰を踏むかは、二択の外へ落ちる。
「練習します」とセレナ。
「何を」とハル。
「法廷で、非公開内容を知っているような顔をしない練習」
「知ってるの?」
「知りません」
「なら簡単」
「人は、黒帯を見ると中身を想像します。想像した自分の顔を、知識だと誤認する」
「顔、証拠外だろ」
「傍聴人の判断には入ります」
セレナは鏡へ向かう。
無表情。
いつも通り。
「それ、普段と同じ」とカイル。
「普段も練習しています」
「何のために」
「父の事件記録を見た時、泣かなかったと証言書へ書かれたので」
食堂が静まる。
セレナは、自分から言ったことを後悔した顔をしない。
後悔したかは、顔で決められない。
「泣かなかった?」とハル。
「泣けませんでした」
「同じじゃない」
「記録上は同じです」
「記録が雑」
「正確でした。涙はなかった」
「じゃ、正確なのに違う」
「はい」
セレナは透明箱を閉じる。
「だから、見えるものを全部見せても、全てが分かるとは限らない。見えないものを残しても、全てが嘘になるわけではない」
ハルは黒箱を指で押した。
「中身、当てない」
「努力してください」
「当てない方が難しい?」
「人は空白へ、自分に都合のよい顔を描きます」
「じゃ、空白って書く」
セレナは一枚の白札を黒箱へ貼った。
『内容不明。推測は証拠ではない』
それを第四都市へ持っていく。
内容を見ない権利を、内容が存在しないことへ変えないために。