第372話 第六章「証拠を見ない権利」後編
第四都市、裏鏡市ヴェール。
法廷の壁が、反射しない灰布へ変わる。
傍聴席の顔は互いに見えない。
声だけが届く。
ここでは、証言者が「見られない」ことを選べる。
進行法官の姿も幕の向こう。
王家代訴官の仮面も見えない。
セレナは視界情報を失う。
左眼の弱さを補う単眼鏡も、声の方向しか示さない。
不安がある。
椅子の脚を数えた。
四本。
机の角。
証羽の位置。
出口まで七歩。
見えない角を振り返る癖を、二度する。
「証拠整理役」と進行法官。「未送信証言の採用案を」
セレナは立つ。
「内容の全公開を求めません」
傍聴席がざわめく。
王家代訴官が言う。
「先ほど、非公開内容は反証不能と主張した」
「その点は同意します」
「では、不採用」
「内容は」
「言葉遊びですか」
「分類です」
セレナは証拠札を五枚並べる。
一、文書が存在する。
二、十四年前に作成された。
三、王妃本人の署名がある。
四、成人時再確認に関する文書名である。
五、公開指定部分には再同意条件が記載されている。
「非公開一行の内容を、ユノに有利なものとして扱いません」
「なら、黒帯を法廷記録から外すべきだ」と代訴官。
「外しません」
「内容を使わないなら」
「非公開部分が存在し、本人が見ないことを選んだ事実は、公開範囲の手続きに関係する」
「中身を推測させる」
「推測を禁止する注記を付けます」
「傍聴人は推測する」
「します。だから、推測と証拠を表示で分ける」
「不完全」
「完全な公開は、本人の選択を壊します。完全な封印は、再同意条件を隠します。二つの不完全から、害の少ない組合せを作ります」
「法は、害の少なさで真実を変えない」
「真実を変えません。閲覧権を分けます」
幕の向こうで、紙をめくる音。
トーヴが証言台へ立つ。
「脚注を一つ」
「一つで済みますか」とハル。
「努力します」
「努力なんだ」
「文書名と内容は別です。文書名は作成時に登録され、後から王家が変更した痕跡はない。公開部分の再同意条件は、別の保護官任命記録と一致します」
「別文書?」と進行法官。
「はい。王妃は同日、『成人再確認時の独立保護官を二名選任する』申請を出している」
「選任は」
「一名だけ承認。もう一名は空席」
「なぜ」
「記録なし」
「空席なら条件未成立では」と代訴官。
「逆です」とトーヴ。「二名を求めた条件が満たされていないため、再確認手続きが完了していない」
「再確認をしなかったことが、契約無効を意味するとは書いていない」
「継続同意を意味するとも書いていない」
「法の空白」
「空白へ、国家に有利な文を自動補完しないでください」
トーヴの声が短い。
怒っている。
普段なら長い脚注へ逃げる人が、主語と述語だけになる。
王家代訴官も引かない。
「空白へ本人に有利な文を補完することもできない」
「その通り」
「また認めた」とハル。
「正しい反論です」
「勝つ気ある?」
「誰が」
「ユノが」
「本人の勝利条件を、私はまだ聞いていません」
セレナは五枚目の札を裏返した。
『非公開内容を使わず、再同意手続きが存在したことだけを立証する』
「裁判所へ求めるのは」と彼女は言う。「母の意思で婚姻を無効にすることではない。現在の本人へ再度聞く必要が、当時の契約設計に含まれていたと確認することです」
「本人の現在意思は不在」と代訴官。
「だから探す」
「王家保護として」
「本人へ聞くために。戻すためではない」
「区別できますか」
「手続きで」
進行法官が問う。
「具体的に」
「所在確認の目的を、身体回収から意思確認へ限定。発見者は移動命令を出せない。本人へ、法廷出席、遠隔証言、代理人選任、沈黙の四択を提示。どれを選んでも直ちに保護宮殿へ戻さない」
「危険がある場合」
「生命危険の処置と、政治的保護を分ける」
「本人が判断不能なら」
「判断不能の具体的証拠を出す。王家から離れたこと自体を不能の証拠にしない」
幕の向こうで、進行法官たちが協議する。
結論。
未送信証言は、公開指定部分のみ採用。
非公開部分の存在と非閲覧選択は、手続き証拠として採用。
内容の推測は禁止。
所在照会の目的を、意思確認へ限定。
全面公開でも、全面封印でもない。
誰も完全には満足しない。
満足しない決定は、失敗とは限らない。
複数の権利が本当に衝突しているなら、誰か一人だけが完全に満足する決定の方が危険である。
決定の直後、灰布の傍聴席から一つの声が上がった。
『確認を求めます』
声は、性別も年齢も分からないよう低く加工されている。
「傍聴人の発言は許可されていません」と進行法官。
『証言申請を提出済みです。内容ではなく、手続きについて』
法吏が申請札を運ぶ。
表面に名はない。
本人確認済みの青い封だけ。
進行法官がセレナを見る。
「証拠整理役。必要性は」
「申請内容を限定して確認します」
『私は、過去に保護宮殿から逃げた者です』
灰布の向こうで、誰かが息を止める。
『逃げた理由は話しません。保護が必要だったかも話しません。今の事件へ自分の人生を例として使わせません』
「では何を」と王家代訴官。
『非公開証言が、公開法廷で本当に扱えるか試したい』
声が一度切れる。
『私は、三年前に証言書を提出した。内容は非公開。存在だけ公開。法廷は、内容を見ないから採用できないと言った。別の法廷は、内容を見るから公開すると言った。どちらも嫌で、取り下げた』
セレナの右手が証羽へ伸びかけ、止まる。
「今回の案なら」と申請者。「私の証言は、何として残る?」
セレナは、先ほどの三箱を法廷机へ置いた。
「あなたが証明したい事実を、まず分けます」
『分けたくないと言ったら』
「提出しない選択を残します」
『法廷は不利になると言う』
「不利になる可能性は説明する。提出を義務にはしない」
『存在だけを出したら、中身を都合よく想像される』
「推測禁止表示を付ける。違反した主張は証拠評価から外す。ただし、人の頭の中まで止められない」
『守れないのに権利と呼ぶ?』
「完全には守れないから、権利を捨てるとはしません」
灰布の向こうから、乾いた笑い。
『不完全ね』
「はい」
『嫌いじゃない』
「好悪は記録しますか」とハルが小声で問う。
「しません」
「覚えとく」
申請者は、内容を出さなかった。
代わりに、三年前の提出時刻、受理番号、取り下げ理由の分類だけを公開した。
『理由分類――公開範囲に同意できず』
それは、ユノの事件を直接証明しない。
母の証言の中身も示さない。
ただ、非公開範囲を理由に証言が法廷から消えた実例を一つ、法廷の制度へ突きつけた。
進行法官は、今後の提出書式へ新しい欄を加える。
『内容を見ないまま証明したい手続き事実』
欄は小さい。
小さい欄から制度が変わることもある。
小さい字に制度が人を閉じ込めることもある。
契約書の隠れた条件〈スモール・ライン〉は、悪意を持つ者だけが書くものではない。
大きな目的へ夢中になった善意が、余白へ追いやった人間の条件もまた、小さな字になる。
休廷後、法廷列車は第三の審理地ではなく、第五都市へ向かう準備に入った。
エリアが立ち上がる。
両踵の冷却布を外し、ブーツを締め直す。
「次は私の証言です」
法吏が入室札を確認する。
「エリア・ルーンベルグ。次区間への乗車資格を停止します」
空気が止まる。
「理由」とエリア。
「第五都市への鏡路は高反射、高高度、連続重力変化。救難安全規則第十一条により、慢性呼吸制限、直近七日以内の路図過負荷、両踵の星痕痛を有する者は移動法廷へ乗車できない」
「誰が申告した」
「診療記録」
「本人の同意なしに?」
「緊急審理の安全情報は共同参照対象です」
「私は自分の身体を管理できる」
「本件では、危険判断の当事者性が争われています。例外は認められません」
「例外を求めていない。条件を確認する」
「条件は、完全治癒証明または認定保護者の同行」
エリアの顔から表情が消える。
「認定保護者」
「フリードリヒ・ルーンベルグ公爵が登録されています」
父が、半月眼鏡を外す。
「私が同行承認すれば」
「乗車可能です」
エリアは父を見ない。
本人の安全のために作られた規則が、父の承認なしでは法廷へ行けない条件になった。
今、争っている保護契約と同じ形。
「この規則」とハル。「誰が作った」
法吏は文書番号を読む。
「王立星航学院混成救難規則を基礎とする。起草責任者、ティア・グランツ」
鏡札が一枚届く。
学院からの短い通信。
『規則の適用通知を受領した。
例外申請を出すな。
条件そのものを確認するまで、動くな。
――ティア・グランツ』
「動くな」とハル。
「ティアらしい」とカイル。
エリアは紙を握る。
「私は、動かないために来たのではない」
「でも例外で通ると」とハル。「次の人は通れない」
「分かっている」
「父さんに守られて通る?」
「それでは、私だけが通れる」
フリードリヒは五秒待つ。
「承認を出せる」
「出さないで」
「分かった」
「分かった顔をしないで」
「難しい注文が流行しているな」
エリアの右眉が上がる。
法廷列車の扉が閉じ始める。
彼女は乗れない。
安全を理由に、証言する権利から外される。
その規則は悪意で作られていない。
だからこそ、壊すだけでは足りなかった。
閉じる扉の前で、ティアとの通信がもう一度つながった。
背景は学院の救難倉庫。
マオが床へ座り、三種類の装具を並べている。片脚へ装具を付ける前に、本人がどこを触ってよいかを赤い糸で示していた。
「規則の原型を送る」とティア。
鏡へ古い事故記録が開く。
学院外壁の救難訓練。
負傷した生徒が、自分は行けると言って先頭へ戻った。
監視者は本人の意思を尊重した。
八十拍後、呼吸停止。
倒れた身体へ後続三人が衝突し、一人が外壁から落ちた。
死者はいない。
右膝を壊した生徒が一人。
ティア自身である。
「だから、完全治癒証明を条件にした」とエリア。
「正確には、起草班がした。私は反対しなかった」
「保護者同行は」
「未成年の医療情報を誰が確認するか決められず、最も近い成人へ置いた。近いことと、権限を持つことを同じにした」
「悪い規則を作った、と簡単には言えない」とハル。
「簡単に言えば、次は安全を軽視する」とティア。
「良い規則とも言えない」
「言えば、出席を奪われたエリアを見ない」
マオが古い記録の余白へ、大きな字で書く。
『本人が言える条件を増やす』
「難語を減らした」とマオ。
「かなり減った」とティア。
「減らしすぎ?」
「今は、目的として正しい」
「じゃ次。『保護者』消す」
「消す前に、何を担っていたか分ける」
マオは舌打ちする。
「ティア、最近、消す前に分けるが多い」
「一度全部消して失敗した」
「何回?」
「数える必要があるか」
「ある。失敗回数、同じ人だけ隠すと不公平」
「十一」
「多い」
「規則を作った数も多い」
「比率は」
「後で」
法廷列車の扉が半分閉じたまま、会話を待っている。
フリードリヒが一歩前へ出る。
「私の承認は、今すぐ出せる」
「要らない」とエリア。
「知っている。ただ、選択肢として伝える」
「それを選べば私は乗れる」
「そうだ」
「私が選ばなければ、あなたは」
父は五秒待つ。
「不安だ」
エリアの指が止まる。
父はいつも、合理的だと言った。
危険率を言った。
契約条項を言った。
不安だ、とだけ言うのは、権限を持たない言葉だった。
「不安を、許可へ変えないで」とエリア。
「努力する」
「結果で」
「厳しいな」
「あなたが育てた」
「そこは責任を認める」
ティアが通信鏡の向こうで、紙を一枚破った。
「完全治癒か保護者同行、という二択は停止する。停止期限は一日。恒久改訂は法廷移動中に監査する」
「停止中の安全は」と法吏。
「本人申告、数値上限、監視者、中止鍵の四点で仮運用。全てエリア専用にせず、同条件の参加者へ開く」
「実地試験なし」
「今日が実地だ」
「危険な審理を試験にする?」
「危険な審理から人を排除する規則を、安全な部屋だけで試す方が不正確だ」
エリアは扉の閉じた列車を見る。
「今は乗れない?」
「今は」とティア。「改訂条件が法廷へ登録されるまで、乗らない。自分だけ先に入れば、次の人の扉を閉じたままにする」
怒りは消えない。
怒りを消すための正解ではない。
エリアは踵へ冷却布を巻き直した。
「待つ」
ハルが扉の内側から言う。
「待ってろ、とは言わない」
「言ったら刺すと言いました」
「戻ってこい、も言わない」
「戻るかは私が決める」
「じゃ、次の門で」
「条件が通れば」
「通らなかったら」
「別の道を作る」
エリアらしい答えである。
ただし、その道をユノの道と同じだとは、まだ誰も言わなかった。