第375話 第八章「鏡門追跡」前編
追跡という言葉には、追う者の正しさが混じりやすい。
逃げる者には、後ろ暗い事情がある。
追う者には、それを明るみに出す資格がある。
人は、その形へ理由を与えたくなる。
前へ走る者と、後ろから迫る者。二本の線が近づくだけで、どちらかを追跡者と呼びたくなる。
だが、道の歴史において、追跡は必ずしも捕縛の技術ではない。
雪原で遭難者の足跡を追う。
崩れた坑道で先行班の印を追う。
避難民が残した布切れを追い、彼らがどこへ連れ去られたかではなく、どこなら自分で歩けたかを確かめる。
追うことは、戻すことではない。
その区別を失った瞬間、救難路は狩猟路になる。
「第一条。例外申請は却下する」
ティア・グランツは、閉じた鏡門の前で言った。
灰銀の短髪。
右耳の後ろに深紅の細い編み込み。
双規刃アレイオンを左右対称に下げているが、救難班の外套は左右で色が違う。議長時代の整った制服ではない。異なる班の布を、自分で継ぎ合わせたものだ。
彼女の右膝には、公的な補助帯が巻かれていた。
以前なら隠していた古傷。
今は、本人の参加条件として記録されている。
「第二条」とティア。「既存の乗車条件は、完全治癒証明または認定保護者の同行を要求していた。これは、危険を測る条件ではなく、誰が許可できるかを測る条件へ変質している」
「変質させたのは誰」とエリア。
「私を含む起草班」
「含む、で薄めないで」
「起草責任者は私だ」
ティアは逃げなかった。
エリアも褒めない。
失敗を認めた人へ、すぐ立派だと言えば、認めることが免罪の儀式になる。
必要なのは、次の条件である。
「第三条。参加可否を一つの入口へ集めない」
ティアは鏡板を三枚、床へ置いた。
一枚目。
『本人申告による負荷上限、監視者一名、本人が持つ中止鍵』
二枚目。
『現地へ入らず、遅延を明示した遠隔参加』
三枚目。
『証言だけを別経路で提出し、移動へ参加しない』
「三つから選ぶ?」とハル。
「選ばないことも選べる。途中で変更できる。保護者承認は不要。医療情報は、本人が共有範囲を決める」
「危なくなったら」とカイル。
「本人が止めない場合でも、監視者は警告できる。ただし停止命令は、事前に合意した数値を越えた時だけ。一人の印象では止めない」
「数値に出ない危険は」とフリードリヒ。
ティアは彼へ向き直った。
「あなたが知る身体情報を、本人へ渡してください。判断権ではなく、情報を」
フリードリヒの返答まで五秒。
「合理的だ」
「承認は求めていません」
「知っている」
「では、エリア・ルーンベルグ。自分の条件を、自分の口で」
エリアは、反射する床へ立つ。
顔はまっすぐ。
顎も上がっていない。
それでも、三つ編みの地図針へ指が一度触れた。
「左肺の容量が小さい。高高度で長い詠唱を続ければ息切れする。路図を連続展開すると両踵に針状痛。直近七日、鏡砂隊商と舞踏会で過負荷が二回」
自分の弱さを、誰かに暴かれる前に、自分で言う。
その行為は、勇敢に見える。
勇敢という語は便利だ。
本人にとっては、長年隠した防具を自分で外す、ただ不愉快な作業だった。
「負荷上限」とティア。
「路図の連続展開は三十拍。次の展開まで六十拍休止。呼吸数が平常の一・五倍を超えたら、私から申告する」
「申告できない状態は」
「監視者が測る」
「監視者」
エリアは一瞬、父を見る。
父は選ばない。
「ハル」
「俺?」
「呼吸の数を誤魔化しても、走り方で分かるでしょう」
「分かる。踵も」
「靴を見るな」
「見るよ。歩けなくなる前に」
「言い方」
「じゃ、正確に。歩幅と着地音と右肩の高さを見る」
「それなら許可します」
「監視者が許可される側?」
「あなたは監視に向いているけれど、監督には向いていない」
「違い」
「監視は見る。監督は従わせる」
「俺、従わせられない」
「自覚があるなら改善です」
ティアが一枚目の鏡板へ条件を刻む。
「中止鍵」
小さな赤い輪をエリアへ渡す。
「私が持つ?」
「本人が持つ。監視者には警告札。父親には何も渡さない」
フリードリヒは口を挟まない。
安全のために用意した鍵を、自分が持たない。
彼には、それが何より難しい。
「第四条」とティア。「この改訂はエリアだけへ適用しない。以後、同じ規則を使う全員へ適用する。私の右膝も含む」
「第一条から四条まで、何分で書いた」とロロ。
「三十七分」
「機関なら試運転なしで壊れる」
「だから、今から試す」
「法廷行きの追跡で?」
「規則は安全な訓練だけで試せば、危機の身体を永久に知らない」
「今日は珍しく、俺が止めたい側だぞ」
「費用は」
「改訂監査料、危険手当、鏡板三枚、船外工具の紛失見込み」
「請求先は私」
「家じゃなく?」
「私」
ティアは硬貨を額面順に通した紐を出す。
改訂条件は、エリアだけで終わらなかった。
「全員、参加条件を申告」とティア。
「俺も?」とハル。
「全員と言った」
「走れる」
「条件ではない」
「左肩、長くぶら下がると痛む。方向が入れ替わる鏡門で、耳鳴りと上下感覚が混じる。零星針を使うと悪化する可能性」
「使用は」
「しない」
「中止条件」
「肩が抜ける前」
「数値」
「痛み三で片手移動。四で止まる」
「五は」
「もう止まってる」
「事前条件として不適切だが、現状よりまし。監視者は」
ハルがエリアを見る。
「相互監視は、庇い合いで申告が遅れる」とティア。
「じゃノクス」
「ナァ」
「本人の同意を確認して」とセレナ。
ハルはノクスへ赤札と青札を置く。
「赤、俺が無理してたら噛む。青、何もしない」
ノクスは赤札を前脚で踏み、ハルの靴紐を一度だけ噛んだ。
「開始前から停止警告」とリゼ。
「厳しい監視者」
「あなたが選んだ」
カイル。
「右腕の王盾炎は、連続三十拍。肋部の痛み二で出力半減、三で解除。背中の古傷は冷えると硬くなる」
「監視者」
「ロロ」
「追加料金」とロロ。
「国家負担」
「承認」
ロロ自身は、喘息の吸入器を胸へ固定する。
「粉塵濃度二で面を着ける。三で作業中止。右眼が霞んだら左側へ工具を置く。補助腕一本破損で撤退」
「一本で?」とハル。
「四本あるから三本まで、って考える奴が機械を全損させる」
「成長した」とカイル。
「修理代が育てた」
セレナ。
「左側の視界欠損。反射面が三枚以上重なる区画では、単独で視認判断をしない。低血糖兆候で休止」
「蜂蜜菓子」とハル。
「携行済み」
「誰から」
「自費です」
「記録は」
「しました」
リゼ。
「強光で視野が狭くなる。鏡像を長く重ねると、失った記憶の空白へ像が混ざる」
「中止条件」とティア。
「現実の手触りを三つ言えなくなったら」
「今」
「面紗。床の冷たさ。兄さんの白い弦がない」
最後の一つだけ、欠けている人を示す。
「トーヴ」とティア。
「近眼。眼鏡を失えば文字鑑定不能。ただし紙質、匂い、折り目は触覚で続行可能。脚注が十を越えた場合、誰かが止める」
「身体条件?」とハル。
「社会的危険」
「俺が監視」
「あなたは数え間違える」
「十くらい数える」
「今、十一です」とリゼ。
「何が」
「会話の脚注」
ティアは全員分を鏡板へ刻む。
同じ規則を全員へ適用するとは、全員を同じ条件へ押し込むことではない。
異なる身体が、自分の限界を自分の言葉で法廷へ持ち込めるようにすることだ。
「第五条」とティア。「条件は恥ではない。だが、公表を強制もしない。今日の参加者は、共有範囲を自分で選んだ」
「ティアの右膝は」とエリア。
「痛み二で走行禁止。三で現場指揮を他者へ移す。監視者はマオ」
遠隔鏡からマオの声。
『隠したら膝蹴る』
「どっちの膝で?」とハル。
『私の』
「安全」
『蹴ることは安全じゃない』
「正確」とエリア。
ロロの補助腕が敬礼した。
「信用できる規則屋」
「褒め言葉として受け取る」
法廷列車は、ユノの最後の通過記録を追っていた。
追っている、と表示するだけで、鏡門網は別の動きを始める。
国家の追跡。
裁判所の追跡。
友人の追跡。
同じ足取りへ、三つの目的が重なる。
鏡は、光の出所を区別しない。
契約は、目的の違いを区別しなければならない。
セレナは進行席へ、一行ずつ限定を書き込んだ。
『目的――意思確認』
『禁止――身体回収、役籍復帰命令、婚約拘束』
『許可――本人へ選択肢を提示すること』
『撤退――本人が面会を拒否した場合』
「最後の行が重い」とハル。
「読めますか」
「文字は読める」
「意味は」
「会いたくないって言われたら帰る」
「帰れますか」
「帰る」
「感情は」
「帰らない」
「矛盾」
「身体を帰して、腹だけ残す」
「腹は身体です」
「気持ちの腹」
「造語を法廷へ持ち込まないでください」
エリアは、進行鏡に浮かぶ七本の線を見る。
ユノの通過履歴。
第一都市では、王家名を使わず現金で通った。
第二都市では、身分を申告した上で保護を一時停止した。
第三都市では、治療係を付けた。
第四都市では、私的通行を選び閲覧範囲を閉じた。
第五都市では、一時間待って再び同じ選択をした。
第六都市では、一度通行を取りやめ、別日に選び直した。
第七都市では、証人へ自分と同じ答えを求めなかった。
一つの選択を、七回繰り返したのではない。
条件が変わるたび、選び直している。
「逃走路としては、綺麗すぎる」とエリア。
「綺麗なら罠?」とハル。
「彼は罠も美しく作る」
「褒めてる?」
「警戒している」
「同じ声」
「あなたの耳が雑」
「ユノの耳なら分かる?」
エリアの地図針が止まる。
彼なら、聞き手の呼吸へ合わせる。
言葉の速度を整える。
相手が理解できる像を先に出す。
だから、分かるだろうと考えた。
「彼なら」と言いかける。
セレナが見る。
左眼ではなく、右眼で。
「その続きを、事実と推測へ分けてください」
「彼は、保護契約を全て捨てたい」
「事実ですか」
「……推測」
「根拠」
「自分で離れた」
「一つの保護契約から」
「王家の役も」
「停止を選んだ。放棄とは記録されていない」
「婚約も拒否した」
「現在署名のない婚約条約を拒否した。将来、誰とも婚姻しないとは言っていない」
エリアは唇を閉じる。
自分なら、父の保護から離れる。
幼少署名を無効にする。
公爵家の婚姻契約を拒む。
自分の地図を自分で描く。
ユノも同じだと思いかけた。
似た檻にいたから。
だが、檻の形が似ていても、出た後の道は同じではない。
「私は」とエリア。「私なら、全てを一度切り離したい」
「それは事実です」とセレナ。
「ユノが何を残したいかは、聞く」
「はい」
「最初から分かっていた顔をしないで」
「顔の評価は証拠外です」
「していた」
「否定しません」
フリードリヒは、その会話を黙って聞いていた。
「父上は」とエリアが言う。「私なら全部切ると思う?」
五秒。
「思っていた」
「今は」
「分からない」
「それを言えるようになったのは、進歩?」
「評価は君が決める」
「私へ評価権を返すことと、関係を直すことは別です」
「知っている」
「知っている顔だけしないで」
「最近、その文が家訓になりそうだ」
「家訓は本人署名を取って」
フリードリヒは半月眼鏡を掛け直す。
「ユノ殿は、王家を残す可能性がある」
「あなたなら、残してほしい?」
「政治的には」
「本人として」
五秒。
「彼が選ぶなら、残すことも離れることも支持する、と言えば聞こえはよい」
「実際は」
「娘と彼の婚約で、国境が安定する利益を計算していた。今も計算できる」
「正直」
「だから、その計算を彼の意思として語らない」
エリアは父を見る。
似た境遇を持つ者だけが投影するのではない。
利益を知る者も、恐怖を知る者も、愛する者も、自分の答えを相手へ置く。
「私は、彼を理解していると思っていた」
「理解は、完成した資格ではない」とフリードリヒ。
「あなたが言うと腹が立つ」
「実績の問題だろう」
「はい」
エリアは進行鏡へ、新しい注記を入れた。
『追跡者の推測――本人の目的ではない』
自分の地図へ、自分の誤差を表示する。