第377話 第九章「保護の名の檻」前編

牢獄は、分かりやすい。

 鉄格子がある。

 鍵がある。

 見張りがいる。

 囚人は外へ出られず、自由を奪われたと知る。

 保護宮殿には、鉄格子がなかった。

 扉は美しく磨かれ、窓は広く、食卓には好物が並ぶ。

 寝台は身体の痛みに合わせ、庭は気分に合わせて季節を変え、医師は呼ぶ前に来る。

 ここから出なくても、生活に必要なものは全て届く。

 つまり、出る必要がない。

 国家は長いあいだ、この「必要がない」と「選べない」を混同した。

 もっと正確に言えば、混同した方が管理に便利だった。

「入れるのに、出せない?」

 ハルは、閉じた鏡扉を押した。

 動かない。

「正確には」とセレナ。「外部者の入場手続きはある。保護対象の退出手続きが、別条件へ接続されている」

「同じ扉だろ」

「同じ鏡でも、役によって出口が違う」

「扉が人を選ぶ?」

「契約が」

「契約、扉より面倒」

「扉は契約を実行するだけです」

「命令した方が悪いから、手は悪くない?」

「責任を手だけへ置かないでください」

 鏡面の文字が、彼らの役を読んでいる。

『七都巡回法廷――意思確認目的』

『証拠整理役――入場可』

『家族――条件付き可』

『友人――定義なし』

「俺だけない」

「友人は権限が少ない」とリゼ。

「でも本人に会う理由は一番分かりやすい」

「法は分かりやすさで入れない」

「じゃ何で入る」

 セレナは法廷命令を掲げた。

『被告人ユノ・ヴァレントへの意思確認』

 扉が半分開く。

「被告人としてなら会える」とハル。

「被害公女としては接触停止中」とセレナ。

「同じ人」

「その点が審理対象です」

「朝から何回目」

「正しい答えは回数で古くなりません」

 宮殿の中から、白い手袋の侍従が現れた。

 名札はない。

 胸へ役名だけ。

『第一接遇』

「ようこそ、王家保護宮殿へ。皆様の安全と対象者の平穏を損なわない範囲で、ご案内いたします」

「名前は」とハル。

「職務上、不要です」

「俺には必要」

「個人情報保護規定により」

「聞かれない権利?」とリゼ。

「はい」

「答えたい権利は」

 侍従の微笑みが、ほんの少し止まる。

「規定にありません」

 リゼは面紗の端を三角へ折る。

「名前を隠す制度は、人を守る。名前を言いたい人まで役だけにする制度は、仕事を守る」

「私は職務へ誇りを持っています」

「それは本人の答え?」

「……はい」

「なら今はそれでいい」

 名前を聞き出すことが自由ではない。

 答えを保留する余地を残すことが自由である。

 侍従は一礼した。

「入場者は、危険物を預けてください」

 グリムリリー。

 カイルの盾型籠手。

 ロロの工具箱。

 セレナの長剣。

「俺のマフラーは」とハル。

「布類は可」

「零星針」

「方位具として可」

 ハルは使わないまま鞄へ戻す。

 ノクスは、危険生物欄へ分類された。

「ナァ」

「本人は抗議しています」とセレナ。

「籠をご用意します」

 ノクスの背中の闇ひれが立つ。

「籠へ入れるなら俺も入る」とハル。

「人用はありません」

「差別」

「分類です」

 ノクスが侍従の靴へ鼻を近づける。

 噛まない。

 侍従はしゃがみ、前脚の赤い布環を見た。

「正式乗員証」

 セレナが札を出す。

「所有物ではありません」

「では、本人が入場条件を理解し、同意を」

 ノクスは籠を前脚で押し倒し、その上へ座った。

「同意しない、と記録します」

「代替条件」

「法廷側の監視下で自由歩行。証拠嗅覚は使用しない」

 侍従は迷った。

 宮殿は、選択肢が規定にある時だけ柔らかい。

 規定にない生き方を前にすると、丁寧なまま硬くなる。

 やがて、通した。

 入場後、全員へ一枚ずつ白い腕輪が渡された。

『来訪者』

「外せる?」とハル。

「退場時に」と第一接遇。

「今外すのは」

「館内案内が停止します」

「停止するだけ?」

「食堂、医務室、避難路が開かなくなります」

「罰じゃない?」

「安全機能の終了です」

「同じ結果でも、名前が違う」

「目的が違います」

「本人の身体には、結果が先に来る」とリゼ。

 彼女は腕輪を手首へ付けず、面紗の帯へ通した。

「装着位置は」と侍従。

「皮膚へ触れたくない」

「手首装着が標準です」

「標準と必須は同じ?」

 第一接遇は規定板を調べる。

「……同じではありません。身体の近くであれば可」

「聞かなければ、手首だけだった」

「全ての代替条件を最初に説明すれば、説明量が過大になります」

「説明しないと、選べない」

「説明が多いと、選べない人もいる」とセレナ。

 両方が正しい。

「最初に、代替条件があるとだけ言う」とハル。

 第一接遇が彼を見る。

「簡略化すると、個別条件を誤認する危険が」

「『別の付け方も聞けます』。それだけ」

 侍従は腕輪配布手順へ一行を加えた。

 宮殿内には、他の保護対象もいた。

 顔を薄布で隠した親子。

 片腕に家紋を焼かれた青年。

 鏡を見るたび床へしゃがむ老女。

 名前を明かして笑う少女と、役名でしか話さない少年。

 ここへいる理由を、誰も聞かない。

 聞かないことが保護になる。

 聞かれないことが孤立になる場合もある。

 中庭で、少女が白い花を摘もうとした。

 花壇の縁が光る。

『保護対象の摂取物変更に当たるため、許可を申請してください』

「食べない」と少女。

『皮膚接触による毒性が未確認』

「去年も触った」

『記録なし』

「記録されなかったから、してないことになる?」

 少女は手を引く。

 侍従が代わりに花を摘み、薄い手袋越しに渡す。

「これなら安全です」

「自分で摘みたかった」

 花は同じである。

 行為は同じではない。

 ハルは、その違いを見た。

 宮殿は欲しい物を与えるのが得意だった。

 自分で取ることを許すのは、不得意だった。

「保護対象が自分でできる行為を増やす訓練は」とセレナ。

「ございます。医師、保護官、生活指導員の三者承認で段階的に」

「本人は承認者に入らない?」

「希望申請者です」

「希望する人と、決める人が分かれてる」とハル。

「危険を客観評価するためです」

「客観って、本人が入ると壊れる?」

「本人の希望は主観です」

「主観だから抜く?」

 第一接遇は答えを探す。

 宮殿の廊下は静かだった。

 静かすぎて、答えを探す時間まで保護されている。

「客観評価へ、本人の主観を一つの資料として入れるべきです」とセレナが助ける。

「それなら、規定上可能です」

「可能なのに、標準ではない」

「はい」

 制度は、できないことだけで人を閉じ込めない。

 できるが普段はしないことでも閉じ込める。

 保護宮殿は、ユノの好みを知っていた。

 酸味のある葡萄。

 鏡へ背を向けて眠れる寝台。

 耳鳴りを抑える吸音壁。

 右薬指を伸ばさず持てる茶器。

 光を弱めた廊下。

 誰かを大切にするとは、その人の小さな不便を覚えることでもある。

「いい場所」とハル。

 廊下の先に立っていたユノは、頷いた。

「そうだよ」

 完璧な微笑みはない。

 白銀髪は少し乱れ、片眼遮光膜を左眼へ付けている。アルマのケースは壁へ立て、本人の手には何もない。

「食事は美味しい。耳鳴りの薬も、ここが一番合う。幼い頃、暗殺未遂が続いた時は、この宮殿で生き延びた」

「牢じゃない?」

「牢と呼べば、ここで僕を守った人たちまで看守にできる。そうすれば話は簡単になる」

「簡単にしない?」

「簡単にして、出たい理由を強く見せる誘惑はある」

「でも」

「出たい」

 敬語がない。

 短い。

 ハルは、ユノの顔を見た。

「俺たちに会いたくない?」

「会いたかった」

「じゃ何で手紙だけ」

「会えば、止められないと思った」

「俺を?」

「僕を」

 ユノは壁へ背をつける。

「君たちへ説明すれば、手伝ってくれた。エリアは契約の穴を探し、ロロは門を分解し、カイルは王命で止め、セレナは正しい証拠を集め、ハルは先に走った」

「その通り」

「そうすると、僕が選んだことが、皆に救われた話へ整う」

「救われたら駄目?」

「駄目じゃない。僕は救われたい。でも、自分がここから出たいと言った事実まで、誰かの英雄談へ預けたくなかった」

「だから一人で」

「一人でできるところまで」

「できなかった?」

「法廷をここへ連れてくるところまでは」

 ユノは、壁に掛かった小さな木馬へ目を向けた。

「七歳の時、ここへ最初に来た」

「覚えてる?」とハル。

「全部ではない。床の冷たさと、薬の匂いと、母が手袋を片方なくしたこと」

「母さんは」

「三日だけ一緒にいた。王妃は保護対象ではなく、付き添い。三日後、政務へ戻った」

「怖かった?」

「怖いと言えば、帰してもらえないと思った」

「だから平気って?」

「言った。保護官は、平気だと言えるなら判断能力がある、と書いた。同じ記録の別欄には、幼いため本人判断を採用しない、とある」

「都合いい」

「どちらも、当時の人には都合がよかった」

 ユノは木馬を指で回す。

 右薬指は曲がったまま。

 左手で押す。

「第一接遇は、当時からいた?」とセレナ。

 侍従が一瞬止まる。

「役は」

「本人は」とリゼ。

「回答を希望します」

 侍従は、自分の胸の役札へ手を置く。

「いました」

 声の丁寧さが少し崩れる。

「当時は第三接遇。夜泣きへ対応しました」

「僕は泣かなかった」とユノ。

「音を出さず泣いていました」

 ユノの目が動く。

 記憶がない。

「その記録は」

「個人記憶です。業務記録には、睡眠浅度と水分摂取だけ」

「覚えていた?」

「はい」

「なぜ今まで言わなかった」

「職務上、不要でした」

「今は」

「本人が、当時を尋ねたので」

 ユノは木馬から手を離す。

「ありがとう」

「職務です」

「本人として」

 第一接遇は五秒も待たない。

「どういたしまして」

 宮殿は人を役へ変える。

 同時に、役の中で人が誰かを覚えている。

 だから、この場所を悪として燃やすことはできない。

 だから、この場所から出られない条件を善として残すこともできない。

 ユノは自分の部屋の扉を開く。

 扉は開いた。

 廊下へ出る。

 廊下の先、庭。

 庭の先、図書室。

 図書室の先、音楽室。

 どの扉も開く。

 外へ通じる鏡扉だけ、開かない。

「鍵は」とロロ。

「ない」

「錠前」

「ない」

「じゃ壊す部品がない!」

「修理工に最も厳しい牢」とカイル。

「笑えねえ!」

 ロロは工具箱を預けたまま、補助腕で床の振動を読む。

「扉は閉じてるんじゃねえ。出口側が、ユノを目的地として認めてない」

「言い換えると」とセレナ。

「門の向こうに、ユノが行ける場所が一個も登録されてない」

「法廷は」

「被害公女としては、保護席へ戻る場所。被告人としては、出頭先」

「役で出口が違う」とハル。

「同じ身体を二つへ割れって命令だ」

 エリアは、床へ膝をつく。

 グリムリリーは預けた。

 地図筆だけで線を写す。

 廊下の壁には、見えない契約線が何層もある。

 食堂へ行く線。

 医務室へ行く線。

 庭へ行く線。

 王へ面会する線。

 法廷へ「保護された状態で」証言する線。

 自由退出の線はない。

「線がないのに、扉はある」とハル。

「扉は選択肢の形をしている」とエリア。「選べる行き先だけ、先に限定している」

「豪華な一本道」

「正確ではない。枝は多い」

「全部、中」

「そう」

 エリアの声が低くなる。

 彼女の父が作った保護も、この形だった。

 航路は多い。

 学校も、社交も、旅もある。

 ただし、父が安全と認めた地図の内側だけ。

「同じ」と言いかけ、止める。

 ユノを見る。

「あなたは、この宮殿の何を残したい?」

「医療設備。暗殺時の一時保護。外部から住所を隠す仕組み。侍従が役名で働ける選択」

「何を変えたい」

「期限。出口。本人が保護者を替える権利。保護を一時停止した時、生活支援まで失わないこと」

「全部壊したいわけではない」

「君なら?」

「私の答えを、あなたへ渡さない」

 ユノの目元が少し緩む。

「それが欲しかった」