第431話 第十二章「十三番の切符」前編

切符は、行き先を約束する紙だと思われている。

 しかし鉄道が最初に切符へ刻んだのは、目的地ではなかった。

 支払った金額。

 乗れる車両。

 運べる荷物。

 降ろされる条件。

 行き先より先に、人間を何として扱うかが記された。

 その意味で切符は、小さな旅券であり、小さな身分証であり、小さな判決文だった。

 雷鎖環には、印字されない穴が一つある。

 駅名を示さない。

 座標を示さない。

 料金区間も、身分も、罪名も示さない。

 昔の乗務員は、それを十三番と呼んだ。

 十二まで数えた後に、まだ一人残っていることを忘れないための穴である。

「十三番駅は、駅じゃない」

 イヴァは言った。

 公会港の夜明け前。

 時刻鐘の下、灰帽の男が座っている。両手は膝。逃げる様子も、名を明かす様子もない。

 セレナは男の切符を透明板へ挟んだ。

 穴は十二個。

 拘束区分。

 医療確認。

 食事配給。

 護送権限。

 その外側に、針先ほどの傷が一つある。

 正式な穿票ではない。

「さっきは『十三番駅で降ろせ』と言った」とハル。

「乗務員の隠語だ」とイヴァ。「行き先を決められない者、決めると危険な者、登録された駅へ降りられない者へ使った」

「保留の穴」とラナ。

「そうだ」

「じゃ、駅じゃないのに降りるの?」

「昔は、保守台、救護側線、車掌室、次の安全確認点。列車ごとに違った。正式時刻表へ載せれば、中央が行き先を決める。載せなければ、乗務員が勝手に決める。どちらも危険だった」

「じゃどうしたの」とテト。

「切符へ穴だけ残した。降ろす場所は、その時の乗客と乗務員が相談する」

「相談してない時は」

「走り続けた」

「それ、ブラック・ラインと同じ」とハル。

「だから廃れた」

 イヴァは灰帽の男へ右耳を向ける。

「お前の希望は、十三番という場所か。保留という状態か」

「どちらでもない」

「二十秒確認で、二択を拒否するな」とベル審査官。

「二択しかないから拒否する」

 男の声は乾いている。

「俺の名がある駅へ降ろせば、そこに俺の罪名が先に着いている。名のない駅へ降ろせば、俺自身まで名を失う。だから十三番だ」

「何を求める」とセレナ。

「名と罪名を別の列車へ載せろ」

「具体的に」

「先に名を確認する。次に罪を審査する。今の切符は逆だ」

 セレナは灰帽の男を見た。

 左眼の焦点が疲労でわずかに遅れる。

 見ていないことを、見たふりはしない。

「現在、氏名を自分から話す意思は」

「公開の記録官へだけ」

「罪名欄の黒塗り理由を本人へ開示することは」

「求める」

「移送先」

「公開記録室。拘束の必要を個別審査。その間は、十三番」

「公会港の保留区画を利用するか」

「扉の音が全員へ聞こえるなら」

 ラナが言う。

「私と同じ」

「同じ区画ではない」と男。

「どうして」

「お前はまだ罪名を付けられていない。俺は罪名を先に付けられた」

「でも保留」

「理由が違う」

「同じ場所でも別に記録する」とセレナ。

「できるか」

「します」

「できなかったら」

「異議を残す」

「弱いな」

「弱い道具しかありません」

「正直だ」

「評価は」

「記録しなくていい」

 男は切符を差し出す。

 イヴァのトランジットは封印中である。

 テトが見習い鋏を持つ。

「俺でいいですか」

「穴の位置を間違えるな」とイヴァ。

「形は音で分かります」

「私の真似をするな」

「師匠の教えです」

「師匠ではない」

「次の停車まで保留」

「お前の雇用も保留にするぞ」

「もう運行局から停職通知が来てます!」

「早いな」

「中央は救難より処分が速いです!」

 帽子の鍔を二度叩く。

 テトは切符の外縁へ、小さな穴を穿つ。

 かちん。

 十三個目。

 灰帽の男は切符を受け取り、初めて帽子を少し上げた。

「名は、記録室で言う」

「それまでは」とハル。

「灰帽でいい」

「それ、名じゃない」

「お前が呼ぶ時だけだ」

「じゃ、灰帽さん」

「さんを付けるな」

「注文が多い」

「目的地を聞いた責任だ」

 ハルは少し考える。

「灰帽」

「それでいい」

 人間を仮の呼び名で扱うことと、番号へ減らすことは同じではない。

 本人が選び、後で変えられるなら、仮名は待合室になれる。

 夜が明けると、雷鎖環の朝は上から来なかった。

 雲の底が薄くなり、島の下面工場が一斉に灯りを落とす。暗い物が減ることで、朝だと分かる。

 ゼロスター号は、公会港の第三空桟橋へ片帆を畳んでいた。

 六つに裂けた帆は、鏡砂環で応急縫合され、雷雲を越えてまた二か所焦げた。ロロの補助腕が、朝食より先に修理用糸を引く。

「帆が船より旅慣れてきた」とハル。

「人間の無茶へ付き合わされて老けてんだ」とロロ。

「味がある」

「穴を味って呼ぶな。金が出てく味だ」

「燻製豆三袋で席を直した人が言う?」

「座席は別会計!」

 船室では、客員席が進行方向へ向け直されていた。

 もともと回転式である。

 ロロは固定具を六個追加し、急旋回時だけ自動で外れるようにした。

 座面へ濃紺の継ぎ布。

 背面へ小さな切符入れ。

 イヴァが点検する。

「固定角、右へ二度ずれている」

「船は線路じゃねえから進行方向が動く!」

「だから座席も追従させろ」

「三袋でどこまで求める!」

「一袋は燻製具合が浅い」

「現物見てねえだろ!」

「契約時に品質条件を言わなかった」

「元車掌、商人より面倒!」

「本日五人目」とセレナ。

「まだ数えてたのか」とハル。

「評価内容は記録していません。件数のみ」

「それ記録してる」

 イヴァは客員席へ座らない。

 胸へ一枚の白い移送札を付けている。

『被移送者イヴァ・レイル』

『目的地 公開法廷』

『経由地 本人と監督者の合意で更新』

『行動制限 危険区画単独立入禁止』

『能力器具 封印保管』

『異議確認 毎朝・毎夜』

 その下へ、別の札。

『客員航路士』

「同じ人へ札が二枚」とハル。

「役割が二つ」とセレナ。

「囚人と仲間?」

「被移送者と航路助言者」

「言葉で距離を取った」

「友人関係は法的役割ではありません」

 イヴァが言う。

「仲間と呼ぶな」

「じゃ客」

「客でもない」

「客員って書いてる」

「制度上だ」

「被移送員航路客」

「語を足して正確さを壊すな」

「何て呼べばいい」

 イヴァは左耳をハルへ向ける。

 信頼する時の癖。

「イヴァ」

「最初から名があった」

「それで呼べ」

「分かった、イヴァ」

 彼女は客員席へ座る。

 背は預けない。

 ロロが怒鳴る。

「背を預けて荷重試験しろ!」

「急停車へ備える」

「空中船に急停車はねえ!」

「墜落は」

「あるけど言うな!」

 朝食は、出航前の船室で取った。

 ロロが買ってきた焼き豆。

 カイルが公会港から受け取った薄い卵焼き。

 エリアの薬草茶。

 ハルの配達鞄に残っていた地球の塩飴は、全員へ一個ずつでは足りないので、ノクスに見つからない棚へ隠された。

「俺の分は」とカイル。

「証拠用非常食を食べた」とセレナ。

「昨夜の苺は救難費だ」

「救難費へ味は含まれません」

「味のない苺を想像させるな」

 イヴァの前にも、豆と茶が置かれる。

 彼女は豆を食べる。

 茶へは触れない。

「嫌い?」とハル。

「出発前に飲まない」

「毒見待ち?」

「発車時刻まで口へ液体を入れると、緊急放送で声が揺れる」

「船、発車しない」

「出航する」

「じゃ飲める」

「まだしていない」

 ハルが茶杯を一センチ船首側へ動かす。

「何をする」

「茶だけ先に出航」

「戻せ」

「途中下車」

「液体へ乗車概念を使うな」

 エリアが茶杯を元へ戻す。

「イヴァ。水分を取らないと不整脈へ影響します」

「出航まで十一分」

「身体は時刻表を読みません」

「読む。毎朝同じ時刻に目が覚める」

「収監中の点呼時刻でしょう」

 イヴァの指が止まる。

 習慣には、本人が選んだものと、強い制度が身体へ押し込んだものがある。

「……半分飲む」

「出航前なのに?」ハル。

「規則を更新した」

「誰と相談して」

「身体と」

 イヴァは茶を半分飲む。

 すぐに胸へ手を当てる。

「どう?」

「普通だ」

「普通って、列車の表示みたい」

「訂正する。脈拍九十六。吐き気なし。声の揺れなし」

「正確」

「面倒な乗客がいるので」

「客じゃないって言った」

「面倒なハル」

 名を直接呼ぶ。

 怒っている時の癖だった。

 ただし口元は、怒りより少しだけ柔らかい。

 ノクスが棚の上で鼻を動かす。

「塩飴、見つかった」とハル。

「ノゥ」

「まだ見つけてない顔?」

 二本尾が同時に棚を指した。

「完全に見つけてる!」

 朝食は、事件を解決しない。

 だが事件の後も同じ人間が食べ、飲み、昨日までの癖を少し変える。

 その時間がなければ、救難は人を生活へ戻したことにならない。

 サナはゼロスター号へ乗らなかった。

 共同救護院の外桟橋で、赤い手袋を新しいものへ替えている。

 ユールは手術後の観察区画。

 ガラス越しに、右手を一回動かした。

 サナは入らない。

「本人へ先に説明すると言った」とハル。

「説明した。今は眠る方を選んだ」

「行き先は」

「二時間後の質問に、保留を一回。六時間後にまた聞く」

「サナはどこへ」

「公会港に残る。七号車の医療記録をまとめ、保留区画へ診療口を作る」

「法廷へ行かないの?」イヴァ。

「証言日は後から行く。患者を置いてお前の裁判見物へ行けるか」

「見物ではない」

「なら、被告席で背を預けろ」

「関係ない」

「心拍へ関係ある」

 サナは封筒をイヴァへ投げる。

 拘束解除鍵ではない。

 診療記録の複製。

「ユールの医療欄。本人が読めるよう専門語の横へ普通語を書いた。お前の救難判断は記した。感謝は書いてない」

「要らない」

「礼を求めるな」

「求めていない」

「顔が求めてる」

「顔は証拠ではない」

「医師には症状だ」

 サナはイヴァの左耳側へ立ちかけ、右へ回る。

 わざとではなく、もう覚えている。

「助けた人数を数えるな」とサナ。

「時刻表へ必要だ」

「助けた後、どこへ行ったかを聞け」

「聞く」

「全員へ?」

 イヴァは言葉を選ぶ。

「聞ける範囲で。聞けない者には、聞ける状態へ戻す期限を置く」

「少しはましだ」

「褒めた?」とハル。

「診断」

 サナはハルの左肩を触る。

「痛み」

「二」

「昨日三だった」

「寝たから減った」

「夜中に二回起きてた」

「見てたの?」

「患者が多い夜は巡回する」

「俺、患者じゃない」

「予備患者」

「新しい分類」

「肩帯を三日。飛ぶ時は申告。痛み三で交代」

「もう言った」

「言われた時だけ守る奴へ、何度でも言う」

 サナは赤い手袋の指で、ハルの額を一度弾く。

「選べる身体を残せ」

「サナも寝て」

「次の診療まで四十分ある」

「寝る時間」

「短い」

「三十秒より長い」

「口が育ったな、赤布」

「マフラー」

「嫌か」

「……別に」

「じゃ一回だけ使う」

 サナは背を向ける。

「次に会う時、生きて来い。赤布」

 二度目は使わない。

 本人が嫌だと言わなかったので、一度だけの渾名として残す。

 サナ・ホルムの仕事は、ゼロスター号を見送った場所で止まらない。

 保留区画の診療口。

 料金を払えない者。

 治療を拒む者。

 命を救うために選択を一時止め、その解除を忘れそうになる自分。

 彼女には、次の患者がいる。

 別れは勤務の終わりではなく、次の勤務の始まりだった。

 テトは、ゼロスター号の乗船口へ荷物を三つ持ってきた。

 一つ目、紺の車掌帽。

 二つ目、故郷駅ヴァン終点の木札。

 三つ目、運行局の停職通知。

「荷物、最後だけ捨てていい?」ハル。

「証拠です!」

「何の」

「中央が事故の調査より、見習いの処分を先にした証拠」

 通知時刻は、七号車が検査台へ載る前だった。

 理由欄。

『無許可の信号変更』

『収容者との私語』

『運行指揮系統外の救難参加』

「私語まで」とエリア。

「囚人へ名前を聞きました」

「規則違反?」

「番号で呼べって」

 イヴァの細い目がさらに細くなる。

「異議を出せ」

「出しました。返事は三十日後です」

「遅い」

「処分だけ速いです」

「次はどうする」とハル。

「公会港の臨時車掌へ応募しました。でも審査まで三週間」

「ゼロスター号へ乗る?」

「船に車掌はいらないでしょう」

「うち、道を聞く人は要る」とロロ。

「エリアがいます」

「線路の話になると二人とも言い争う」とカイル。

「正確に議論します」とエリア。

「声量が不正確だ」とロロ。

 イヴァがテトへ問う。

「行き先」

「法廷まで同行したいです。証言します。その後、公会港へ戻るか故郷へ戻るか、まだ」

「保留」

「はい」

「乗船理由」

「雷雲信号と列車側の連絡。ゼロスター号は線路の上を飛べませんが、線路の横は飛ぶ」

「報酬」とロロ。

「停職中なので安くていいです」

「安売りするな」とイヴァ。

「でも」

「仕事へ値段を付けるのは、中央へ価値を決めさせないためでもある」

「師匠が給料を全部小駅へ送るって噂」

「噂の出所」

「車掌室」

「私語が多い」

「いくらなら」とロロ。

 テトは硬貨を運賃区間で数える。

「一日、故郷の灯油二日分」

「単位が地域限定!」

「都市貨幣で八十ルム」

「高っ」

「灯油が高いんです!」

「六十」

「焼き林檎一個」

「六十五」

「妹へ切符絵葉書」

「七十、林檎、絵葉書」

「成立!」

 テトが見習い鋏を鳴らす。

 かちん。

「勝手に契約印を付けるな!」ロロ。

「口頭契約の確認です!」

「俺、商談で車掌に負けた?」

「最初から向こうが本職」とハル。

 テトは乗船する。

 停職されたまま。

 故郷へ戻るかも決めないまま。

 保留は、何もしないことではない。

 決められる日まで、生活を止めないための仮の切符だった。