第451話 第十章「十三番を降ろす」前編
地図へ人の道を描く時、最も危険な線は、最短路ではない。
一本しかない線である。
逃げる者と残る者。
病人と健康な者。
名前を出せる者と出せない者。
裁判へ行く者と、裁判所そのものを恐れる者。
全員へ一本の安全路を示せば、線から外れた者は危険人物になる。
地図は命令ではない。
そう言うだけなら簡単である。
だが地図上に選択肢が一つしかなければ、命令文を使わなくても命令になる。
エリア・ルーンベルグは、そのことを知っていた。
知っていたつもりだった。
つもりと実践の間には、雷雲ほどの距離がある。
透明板は七枚になった。
一枚目。
物理構造。
裏ホーム、旧貨物車、証拠列車、監査列車、ゼロスター号、救難車、三本の黒い牽引鎖、二つの重力継ぎ目、残存支柱。
二枚目。
公開できる権利情報。
生活者集団あり。
医療、教育、食料、乗降、裁判申立てを要する。
所在地非公開。
三枚目。
非公開住所。
何も描かない。
描かないことを示す枠だけを置く。
四枚目。
第一選択。
残る、十八。
退避、二十三。
今は決めない、六。
五枚目。
退避先。
医療、五。
公開法廷、七。
自由港救難路、八。
家族連絡用の中継車、三。
六枚目。
保留者の安全条件。
目的地を問わない。
公開名を問わない。
車両総数には含む。
次の分岐前に再確認。
七枚目。
撤回路。
途中で選択を変えるための戻り線。
「七枚も重ねたら、見えない」とハル。
「一度に全部見るからです」
「地図って全部見るものじゃないの」
「必要な人が必要な層だけ見る」
「じゃ、俺は」
「物理構造と撤回路」
「他は信用されてない?」
「住所を覚えて迷うでしょう」
「覚えないから安全」
「自慢しないで」
エリアは地図針を差し直した。
右手のグリムリリー。
左手の地図筆。
両踵には、すでに細い針痛がある。
「痛み」とハル。
「二」
「十段階?」
「開始前基準」
「いつもの尺度と違う」
「長期作業用です」
「俺に分かる尺度で」
「走れる。八分後は不明」
「分かった」
「分かったの?」
「八分以内に終わらせる」
「終わらなければ」
「手伝う」
「具体的に」
エリアは一拍置いた。
助けを求める時、命令形をやめる。
「私が三枚目と七枚目を同時に維持できなくなったら、七枚目を持って。撤回路だけは消さないで」
「地図を?」
「線が消えないよう、透明板を現在地に合わせ続けて」
「俺、地図読めない」
「道を身体で覚えるでしょう。板を読む必要はない。私の歩いた順を、そのまま走って」
「できる」
「頼む」
「了解」
短い返事。
エリアは右手で口元を隠しかけ、すぐ地図へ戻した。
乗客の振り分けは、番号で行わなかった。
テト・ヴァンが床へ、次の停車位置を足元へ示す標〈ネクスト・ストップ〉を出す。
いつもなら一つ。
今日は五つ。
丸い波紋。
三角の連続。
二本の平行線。
四角の点滅。
何も閉じない半円。
色だけに頼らない。
音も違う。
丸は低い一音。
三角は三連音。
平行線は二拍。
四角は長い一拍。
半円は、音を鳴らさない。
「次は、医療車!」
テトが丸を示す。
「次は、法廷車!」
三角。
「次は、自由港救難車!」
二本線。
「次は、連絡中継車!」
四角。
半円の前で、声を止める。
「次は――」
言わない。
「停車未定。乗ったまま保留できます」
六人の索が半円へ置かれる。
テトは自分の標を一つへ集めない。
五つの小型発標器を、住民代表へ渡す。
医療はサナとフェル。
法廷はオルサ。
自由港はミラとパル。
中継はメラの教え子の一人。
保留は二結びを含む六人が、交代で持つ。
「俺が出すんじゃないんですか」とテト。
「出してもいい」とイヴァ。「ただし、あなた一人が『次』を決めない」
「師匠は」
「補助」
「じゃ、間違えた時は」
「各車両が止める」
「全体の責任は」
「全体を一人で持つな」ロロが床下から叫ぶ。「重いから配線が切れる!」
「比喩?」
「物理も!」
ロロの四本の補助腕は、匿名索の半片を読む仮設箱へ接続している。
索が入ると、名前でなく三つの情報だけが灯る。
現在乗車、一。
希望停車、形。
救命代理の有無、結び目。
「中央へ送る線は切った」とロロ。「車両ごとの箱へしか残らねえ。到着したら本人側と重ねて、残すか切るか選べる」
「事故時の総数は」とヘスタ。
「全箱の数だけ監査車へ送る。個別形は送らねえ」
「改造記録」
「全部書け。俺の名前も」
「無資格」
「現場資格!」
「その分類はない」
「今作れ!」
「仮称として記録する」
「成立!」
「契約ではない」
「ミラが移った」とハル。
「誰が金の話をした?」ミラ。
「言葉の癖」
「癖にも料金がある」
パルが仮設箱へ匙を一本入れた。
警告灯が点く。
『乗客一』
「匙を数えるな!」ロロ。
「人と物、区別できる?」
「索の形で読む!」
「同じ形を匙へ結んだ」
「本人が持ってねえだろ!」
「試験」
「今やるな!」
パルは匙を抜く。
「人じゃない物も札を持てる」
「だから本人側との照合が要る」とイヴァ。
「意識ない時」
「救命代理」
「盗まれた時」
「失効を申告」
「申告できない時」
「サナの身体確認」
「全部、答えある?」
「全部ではない」
「じゃ、使える」
「どうして」とテト。
「全部答えあるって言う仕組み、一番危ない」
パルは匙を腰袋へ戻す。
ロロが小声で言う。
「その匙、どこから」
「白い列車」
「返せ!」ヘスタ。
「安全だって分かったから返す」
「何を試した」
「監査官が見てるか」
「見ている」
「合格」
「試験主体が逆よ」
残る十八人のため、裏ホームをそのまま残すことはできなかった。
牽引鎖が二本、食い込んでいる。
切れば落ちる。
残せば中央拘束設備局へ運ばれる。
そこでエリアは、ホームを「駅」として固定しない。
生活設備を三つの小さな保守車へ分け、互いに距離を変えながら接続する。
学校車。
厨房・診療車。
寝台・水槽車。
三車は同じ場所へ常駐しない。
所在地は一つにならない。
だが救難回線と、権利登録の公開符号だけは共通にする。
「ばらばらになる」とメラ。
「ばらばらにするのではありません。中央を一つにしない」
「子供が学校車から寝台車へ戻る時」
「本人が持つ接続索と、次の停車標。公開座標は出さない」
「迷ったら」
「救難符号は全車共通」
「追跡者も使える」
「受信側を複数にして、一人では位置を開けない」
「誰が持つ」
「今、決める」
「時間がない」
「だから急いで決めない」
メラが笑う。
「矛盾」
「時間を区切ります。十分だけ話し、その後は暫定。明日、必ず見直す」
「明日が来たら?」
「見直す日付を、車体へ刻む」
「消されたら」
「三車全部へ」
「全部消されたら」
「人が覚える」ハル。
「記憶は証拠にならない」とメラ。
「生活にはなる」
メラの右頬の活字染みが動く。
「印刷板、落ちた」
「覚えてるってオルサが言った」
「文字の形は。圧の癖は板ごと違う」
「次の板へ、今の癖を写せる?」
「完全には」
「完全じゃないから、次のになる」
メラは答えない。
学校車の新しい鋼板へ、石筆で最初の文字を書く。
『ここは仮ではない』
その下へ小さく。
『ただし、変えてよい』
監査列車の灯、四つ。
中央拘束設備局の牽引鎖が、第二段階へ入った。
残った裏ホームの主骨が曲がる。
「出発を十五分前倒し!」ロロ。
「選択確認が終わっていない」とイヴァ。
「六人保留は、保留車へ乗ることだけ確認済み」とエリア。「残る十八、退避二十三も本人照合済み」
「名前なしで?」ヘスタ。
「匿名索と目視、二者確認」セレナ。
「法廷で争われる」
「争わせます。落とすより先に」
「物理限界」とロロ。「主骨一本、あと十二分。二本目は二十分。黒鎖が同時に引けば八分!」
「最悪条件を採用」とサナ。
「八分で発車」とイヴァ。
「あなたが決めない」とオルサ。
「限界を報告した」
オルサは三人の住民代表を見る。
メラ。
フェル。
二結び。
「八分で第一離脱」
「成立」とミラ。
「住民決定」とヘスタが記録する。
イヴァは改札鋏を鳴らさない。
「承知した」
出発準備が始まる。
八分。
人間は八分あれば、長い別れを短くできる。
短い別れを、言わずに済ませることもできる。
荷物を選ぶ。
手を握る。
握らない。
戻ると言う。
戻るとは言わない。
時間制限は、決断を生む。
同時に、言えなかった言葉を大量に作る。
だからエリアは、全てを決めさせようとしなかった。
「第一離脱で決めるのは、今このホームから離れるかだけ!」
声を張る。
「行き先、公開名、裁判参加、帰還時期は後で変更できます! 索を結び直せます! 乗った後でも降りられます!」
撤回路を先に告げる。
人は、戻れない道ほど早く拒む。
あるいは、戻れないことを理解しないまま従う。
「医療車、五!」
サナが赤い手袋を上げる。
フェルを含む五人が、丸い標へ進む。
フェルは学校車の方を見る。
「薬が届いたら戻る」
「戻る義務はない」とメラ。
「言う権利はある」
「待つ約束にしない」
「返事を待たず、連絡はする」
「それなら」
二人は握手をしない。
フェルが自分の薬箱を持ち、メラは箱の底へ新しい石筆を一本入れる。
「代金」とフェル。
「返ってきたら、授業を一つ」
「帰らなければ」
「どこかで誰かへ教えて」
「高いな」
「教育は高い」
「成立」
「ミラの言葉が移った」とハル。
「流行料」とミラ。
「今、請求する?」
「生きてから」
「サナも移った」
「言葉は救難物資よ」とサナ。「使い回して」
法廷車、七。
オルサが先頭へ立つ。
締結レンチの柄へ、欠けた左小指の空間。
「私が代表じゃない」と言う。
「じゃ誰」とカイル。
「七人それぞれ。私は最初に喋るだけ」
「それを代表と呼ぶ場合もある」
「呼ばない場合も作れ」
「王国法へ宿題が増えるな」
「王子の個人借金へ足せ」
「景気が悪い勘定だ」
自由港救難車、八。
ミラが入口へ立つが、切符を切らない。
「名前不要。料金、今は零。後から請求しない。共同食費は見える形で分ける。降りたい時は言う。言えない時の印も作る」
「契約?」一人が聞く。
「契約じゃない。説明」
「守らなかったら」
「追い出していい」
「誰を」
「私を」
パルが横から言う。
「船はみんなの。船長だけ追い出すの難しい」
「じゃ、役目から外す」
「誰が」
「同じ飯の人」
「成立」
「まだ乗ってない」とミラ。
「先に決める」
連絡中継車、三。
家族へ連絡を送るだけ。
返事が来るまで、住所を明かさない。
返事が来ても、会うとは限らない。
「連絡したら家族へ戻ると思われる」と若者。
「文面へ書く」とセレナ。「連絡は所在公開、面会、帰属、赦しを意味しない」
「そんな長い一文、家族が読む?」
「読みやすく言い換える」とハル。「生きてる。今は会うか決めてない。返事はここへ」
「短すぎる」セレナ。
「意味は同じ」
「法的には」
「家族の手紙に法廷語を入れたら、返事より弁護士が来る」
「では、本文はハル案。外封へ法的範囲を添付」
「共同作業」
「文章の荷物扱い」
「この一件、荷物扱い多い」
保留車、六。
二結びが、音のない半円標の前へ立つ。
「今、乗る?」テト。
「乗る」
「行き先は」
「聞かないで」
「承知――」
テトがイヴァを見る。
「了解」
「真似しなくていい」とイヴァ。
「師匠を真似して車掌になった」
「悪いところは止めて」
「どれ」
「今、増えた」
二結びが小さく笑う。
今日初めての、子供らしい笑いだった。
残る十八人は、三つの保守車へ分かれる。
残ると言っても、同じ場所へ残るのではない。
学校車に六。
厨房・診療車に五。
寝台・水槽車に七。
互いの接続は変えられる。
誰がどの車へいるか、中央へは送らない。
ただし全体数十八と、救難時に開く分散鍵だけは、三車へ一つずつ保管する。
分散鍵を一つ奪っても、住所は開かない。
二つで、救難符号だけ。
三つと住民側の同意で、現在接続が開く。
「追跡者が三車を押さえたら」とメラ。
「その時は仕組みが破られます」とエリア。
「破られないとは言わない?」
「言いません。破られた時の変更条件を残す」
「どこへ」
「車体の内側。公開鍵では読めない」
「中央が車ごと持っていったら」
「今夜、それを止める」
メラは新しい学校車へ乗る。
印刷板はない。
石筆だけ。
「最初の授業、何」とハル。
「『残る』は動かないことではない」
「難しい」
「子供を馬鹿にするな」
「俺が分からない」
「あなたは生徒じゃない」
「入学拒否」
「住所がないでしょう」
「この学校も」
「じゃ、仮入学」
「仮は歴史を奪うって」
メラが一瞬止まる。
「訂正。途中入学」
「いつ卒業」
「授業料を払ったら」
「高いな」
「労働で」
「成立」
残り五分。
ロロの仮設回路が灯る。
五つの退避車。
三つの残留車。
合計八。
各車の匿名索箱が、総数だけを送る。
五。
七。
八。
三。
六。
六。
五。
七。
合計四十七。
「一人も零じゃない」と二結び。
「今は」とロロ。「走ってる間に索が外れたら警告が出る」
「人が落ちたのと区別」
「身体反応計と二重確認。完璧じゃねえ」
「分かった」
「怖くないのか」
「怖い」
「じゃ、なんで乗る」
「怖いまま決めていいって、今日聞いた」
ロロはゴーグルを下ろす。
「誰が言った」
「いっぱい」
「責任分散だな」
「逃げ?」
「違う。いい分散」
四本の補助腕が最後の回路を閉じる。
『乗客 四十七』
旧端末に、初めてその数字が出た。
次の瞬間。
『設備十三種と旅客登録の併用不能』
赤警告。
『分類競合』
『全系統停止』
「予想どおり!」ロロ。
「嬉しそうに言わない!」エリア。
「競合を起こすために作った! 機械へ選ばせるな。止まった間に十三番を切る!」
「どこを」
「分類母線!」
駅全体へ十三番を配っている一本の古い銅線。
だが銅線は、裏ホームの外側。
黒鎖と並行し、雷雲へ露出している。
「俺が行く」とハル。
「左肩」とエリア。
「申告、一。役割変更?」
「まだ荷重なし。私も行く」
「踵」
「二」
「八分」
「開始から六分」
「あと二分?」
「連続展開を一度切れば、再計測」
「ずるい」
「医学的な根拠は」
「ありません」
「正直」
「だから、頼む。七枚目」
エリアが撤回路の透明板をハルへ渡す。
板には線がある。
読めない。
だがエリアがさっき歩いた順を、ハルは覚えている。
右へ三歩。
床板の焦げ。
重力継ぎ目の低い唸り。
左へ七歩。
薬草の匂い。
外骨へ九歩。
「俺が板を持つ。エリアは」
「分類母線の切断点を描く」
「一人で?」
「ノクス」
「ナァ」
夜獣がエリアの右側へ立つ。
「またミコ――二結びを選ぶかと思った」ハル。
「ノゥ」
「今回はエリア?」
「本人へ聞いて」とエリア。
「一緒に来る?」
「ナァ」
「成立」
「料金は」とミラ。
「今じゃない!」