第453話 第十一章「法廷へ戻る線路」前編
法は、人を場所へ結びつけたがる。
どこで生まれたか。
どこへ住むか。
どこで罪を犯したか。
どこの裁判所が扱うか。
住所がなければ税を取れない。
住所がなければ召喚状を送れない。
住所がなければ保護も、処罰も、相続も、投票も、入学も、死亡確認も難しくなる。
そのため国家は、住所のない人を嫌う。
嫌うという感情語が不正確なら、処理できない人を存在しないことへ近づける、と言い換えてもよい。
だが人間は、裁判所の管轄に合わせて生まれるわけではない。
逃げる。
移る。
追われる。
戻れない。
住み続けても、土地の方が動く。
場所を示せない人にも、身体がある。
身体がある人には、場所より先に権利がある。
それを法廷で証明するには、法が一度、自分の地図から目を上げなければならない。
「証拠を三つに分けます」
セレナ・クロウは、黒い証拠列車の六号車で言った。
列車は監査列車の後方へ連結され、移動法廷の巡回線を追っている。
窓の外は白い雷雲。
医療車、法廷車、自由港救難車、中継車はそれぞれ別路へ向かった。残留三車は位置を互いに変え、公開回線から消えている。保留車は環状線を走り続けている。
全員を一か所へ集めないまま、法廷だけへ証拠を運ぶ。
その難しさは、証拠の原則と似ている。
原本を集めれば分かりやすい。
同時に、一度奪われれば全てを失う。
「第一群、制度証拠」
セレナが机の左へ置く。
追跡危険下臨時救難施設の旧辞書。
十三番穴の切符。
十五年前製造と推定される三枚歯部品の拓本。
設備分類母線の切断片。
イヴァの七十二時間命令。
十一回の延長穴。
三回の終了申立て。
監査側の無人資産切離し命令。
「第二群、生活実態」
机の中央。
四十七単位の配給票。
名簿零と荷重二六八四の差分。
四十七組の寝台留め。
学校の石筆粉。
診療所の薬剤消費。
鍋の煤。
子供の身長線を写した板片。
ただし板片は場所特定につながる木材成分を削り、住民側が持ち出しを許可した一部分だけ。
「第三群、意思と被害」
机の右。
匿名索の半片。
本人側と車両側を重ねた照合記録。
残る、退避、医療、法廷、自由港、中継、保留、無回答の選択手続。
切離し時の身体反応記録。
落ちた表ホームの映像。
住民の発言。
発言は名前を消したのではない。
本人が選んだ現在名、仮名、無名、役割名をそのまま使い、旧名へつながる情報だけを封じた。
「四群じゃない?」ハル。
「何が」
「被害と意思」
「関連します」
「被害を受けたから、その意思になったって思われない?」
セレナの証羽が止まる。
「分けます」
「増えた」
「訂正は早い方がよい」
「怒らない?」
「なぜ」
「整理中に口出した」
「事実を改善しました」
「褒めてる?」
「分類保留」
「流行ってる」
第四群、意思。
第三群、被害。
並べ直す。
証拠は、美しく並べるために分類するのではない。
一つの説明へ押し込まれないよう、原因と結果を分ける。
「空欄はどこ」とオルサ。
法廷車から来た七人のうち、先頭にいる。
「空欄だけは証拠にしません」
「だが人員名簿は空だ」
「空欄に、配給差分、荷重、生活痕、監査目視、本人意思を重ねる。空欄が何を意味するかは、他の証拠で立証します」
「何も書かれていないことを、何かの証拠にするな?」
「記録へ残らない不在〈ネガティブ・ログ〉には、複数の原因があります。誰もいなかった。記録できなかった。本人が非公開を選んだ。制度が除外した。区別します」
「私たちは」
「制度が除外した。かつ、現在は一部情報の非公開を本人が選んでいる」
「二つ同時」
「そうです」
「法廷は面倒がる」
「法は面倒な人を処理するためにあります」
「簡単な人だけ相手にしてきたように見える」
「その証拠も提出しますか」
「口が悪い記録官だ」
「本日八人目」
「まだ朝をまたいで数えるのか」
「同一事件中です」
ヘスタ・クレイは、自分の監査記録を提出した。
白い外套の右袖は焼け、赤い手袋の処置布が巻かれている。
「監査側に不利」とカイル。
「不利かどうかは法廷が決める」
「あなたの命令でホームが落ちたと読まれる」
「私の切離し命令と、中央拘束設備局の前倒し牽引が競合した。監査側の予測不足。現地停止権限の不備。記録した」
「処分される」とテト。
「監査官は処分可能でなければ監査不能」
「怖くないんですか」
「怖い」
ヘスタは短く答える。
「だから、先に自分の記録を封じない」
「職を失ったら」
「別の仕事を探す」
「簡単に言う」
「簡単ではない。子供が二人いる」
初めて、個人的な情報を一つだけ出す。
「でも四十七人を零へ戻して守る職なら、残る理由にはならない」
「英雄にならないで」とカイル。
「なる気はない」
「職を捨てた監査官の美談へすれば、制度は変わらない」
「なら、辞めずに処分を争う」
「その方が景気は悪い」
「王太子の評価を記録する?」
「個人の感想だ」
「では記録しない」
ヘスタは監査板をセレナへ差し出す。
「複写条件。住民所在地へつながる時刻差は、法廷封印。人員四十七の目視は公開。前倒し命令の発信局は公開。現地の学校・診療の詳細は、本人同意分だけ」
「承知しました」
「私の火傷は」
「必要性が低い」
「監査事故の身体被害」
「提出しますか」
「する。監査側にも人がいると示すためではない。設備併用不能が実際に危険を生んだ証拠」
「本人同意を記録」
「私が本人」
「確認しました」
「面倒ね」
「本日九人目」
ヘスタが薄く笑う。
「あなた、嫌われた数を勲章にしていない?」
「していません」
「否定が速い」
イヴァ・レイルの証拠は、最も扱いが難しかった。
彼女は被告候補であり、証人であり、制度の実行者であり、救難者でもある。
一つの役割へまとめれば、理解しやすい。
悪人にすれば、分類を作った者として罰せられる。
英雄にすれば、三十九人を救った者として赦される。
どちらも、十一回の延長と、三回の申立てと、住民から行き先を奪った事実を同時に扱えない。
「供述を分けます」とセレナ。
「何へ」とイヴァ。
「観測事実。本人判断。推測。責任認識」
「責任は事実では」
「法的責任は法廷が決めます。あなたが何を自分の責任と考えるかは供述」
「逃げ道を作る?」
「混同を防ぐ」
「私の善意を減刑へ使わないで」
「あなたが決めることではありません」
イヴァの目が細くなる。
「厳しいな」
「被移送者へ容赦を見せる職ではありません」
「雷導監獄の一件から変わらない」
「事件が続いています」
「では言う。最初の七十二時間、私は追跡危険を観測した。設備分類が照会を止めると判断した。三十九人を降ろした。十一回延長した。権利停止の全範囲を説明しなかった。終了を求めた者を止めた。三回の変更申立ては却下された。申立てが却下された後も、私は住民へ公開しなかった」
「理由」
「公開すれば、私へ従うか反対するかで共同体が割れると思った」
「推測」
「そう。実際に割れるかは分からなかった」
「現在の認識」
「割れることを恐れ、選ぶ権利を奪った」
「責任認識」
「救難の必要はあった。私の署名は必要だったかもしれない。だが終了条件を私が持ち続けたこと、情報を隠したこと、公道へ出る者を止めたこと、捜索を出さなかったことは私の責任」
「今後の希望」
「法廷で判断を受ける。完全な名誉回復は求めない」
「なぜ」
「無罪という言葉で、被害をなかったことにしたくない」
「有罪を求める?」
「求めない。判決を私が決めない」
セレナは記録する。
イヴァは左耳をこちらへ向けている。
信頼されている。
信頼は、柔らかく扱う理由にはならない。
問題は、原告だった。
移動法廷から最初の照会が来る。
『申立人の氏名、住所、出生記録、司法照会番号を提出せよ』
オルサが紙を破ろうとする。
セレナが止める。
「原本です」
「答えたら全部終わる」
「答えません」
「なら却下」
「別の根拠を出す」
雷鎖環の古い救難法。
十三番分類よりさらに古い。
線路事故で身元不明者が運ばれた時、名前が分からなくても医療と補償を申請できる条文がある。
『身元未確定の乗客は、身体識別符と事故時刻をもって暫定当事者となる』
「身体識別符」とオルサ。
「傷、骨格、指紋など。本来は意識不明者用」
「私たちは意識がある」
「だからそのまま使わない。本人が選んだ識別符を、身体識別と同じく暫定当事者性へ使えると主張する」
「匿名索」とハル。
「索は身体ではない」とヘスタ。
「本人が所持し、車両半片と照合し、監査人二名が乗降を確認した。さらに本人が法廷封印下で現在名または指標を申告する」
「公開しないだけで、裁判官には見せる?」オルサ。
「選択できます。完全非開示の集団申立て。法廷だけへ封印名を出す個別申立て。現在名だけを公開する申立て」
「三つ」
「一つへ揃えません」
「裁判官が認めなければ」
「却下理由を公開させます」
「その間に配給は」
「緊急仮処分を同時申請」
「仮処分を受ける主体がない」
「生活実態がある集団を主体とする」
「循環してる」ハル。
「そうです。主体と認められなければ申請できない。申請しなければ主体と認められない」
「どう壊す」
「法の外からではなく、古い条文の隙間から」
セレナは申立書の表題を書く。
『設備十三種に分類された身元非公開生活者四十七名による、暫定乗客権確認及び切離し禁止申立て』
「長い」とハル。
「短くすると何かが消えます」
「駅の名前は」
「書かない」
「十三番駅」
「それは制度側の呼称です」
「じゃ、何て呼ぶ」
オルサが言う。
「今は呼ばなくていい」
申立書の原告欄。
空欄にはしない。
『申立人A群 十八名 所在地封印』
『申立人B群 二十四名 移送中』
『申立人C群 五名 目的地保留』
自由港へ一人移ったため、退避先人数が変わっている。
総数四十七。
「群にされた」と二結びが保留車から通信する。
「嫌?」ハル。
「分からない」
「別の書き方」
「二結び、一名」
「それを公開する?」セレナ。
「今だけ」
「現在名として封印内へ」
「封印って、誰が開ける」
「裁判官と、あなたが指定した立会人」
「裁判官が悪い人なら」
「異議を出す」
「開けた後は戻せない」
「そうです」
「じゃ、私は群のまま」
「承知しました」
選ばないことを、零にしない。
法廷へ申立書を送るには、証拠列車が巡回線へ接続する必要がある。
移動法廷は止まらない。
管轄を越える事件を扱うため、線路を走りながら各地域の法を順番に適用する。止まれば、その場所の権力だけが扉を囲むからである。
列車ごと移動する法廷〈ローリング・コート〉。
今はまだ、証拠列車とは別の編成だった。
「接続まで七分」とテト。
「監査列車が先」とヘスタ。
「証拠列車は後方から」
「二本同時に入ると、巡回線の荷重を超える」とロロ。
「どちらか切る?」ハル。
「監査列車には切離し命令の原本。証拠列車には生活証拠」セレナ。
「両方要る」
「だから、連結して一編成として入る」エリア。
「規格が違う」とロロ。
「直せる?」
「修理費」
「王家個人借金」とカイル。
「まだ増やすのか」
「国家予算を使うと、王家が原告を所有したように見える」
「正しい」とセレナ。
「景気が悪い正しさだ」
ロロが連結器へ潜る。
監査列車は新式の四爪。
証拠列車は旧式の二爪。
直接は合わない。
間へ、十三番駅から回収した空の貨物台を入れる。
「設備を橋に使う」とハル。
「人を設備にした仕組みの逆」とエリア。
「比喩は後!」ロロ。
白雷が近い。
巡回法廷の金色の灯が、雲の向こうへ見える。
七分。
連結作業中、証拠列車の床が揺れる。
セレナの左眼へ光が刺さる。
視界の半分が白くなる。
「遮光」とオルサ。
白い布を差し出す。
「証拠が見えません」
「見えなくなってからじゃ遅い」
「三割」
「何」
「光を三割だけ落として」
オルサは布を折り、単眼鏡の左へ結ぶ。
「注文が細かい」
「正確です」
「蜂蜜、食べる?」二結びから通信。
「なぜ」
「黒い人、甘いの持ってるって赤マフラーが」
ハルを見る。
「個人情報」
「追跡につながらない」
「嗜好も人物同定に」
「食べない?」
セレナは外套から蜂蜜飴を一つ出す。
「食べます」
「正直」
「低血糖は証拠精度を下げます」
「言い訳が記録官」
飴を口へ入れる。
甘さで頭痛は消えない。
しかし痛みを数える余地が戻る。
「連結、あと二分!」ロロ。
巡回線の分岐が近い。
監査列車と証拠列車の速度差。
白と黒。
間の貨物台。
「三、二、一!」
四爪が貨物台へ。
二爪が反対側へ。
合わない規格を、空の設備がつなぐ。
衝撃。
カイルが王盾炎を使いかける。
サナの遠隔通信が飛ぶ。
『使うな!』
「聞こえてるのか」
『患者の無茶は音がする!』
カイルは籠手を下ろし、物理的に手すりを掴む。
肋へ痛み。
耐える。
連結完了。
一編成として巡回線へ入る。
移動法廷の後部扉が開いた。
『申立人を確認する』
最初の問い。
『氏名を』
セレナは申立書を掲げる。
「公開しません」
扉が閉じかける。
「ただし、存在は証明します」
証羽四群が、同時に光った。
移動法廷の法廷車は、長方形ではなかった。
線路の曲がりに合わせ、細い部屋が三つ折りになっている。
中央に裁判席。
前方に申立人席。
後方に行政席。
列車が右へ曲がれば、行政席が上になる。
左へ曲がれば、申立人席が上になる。
どちらが見下ろす側になるかを固定しないための設計だという。
思想は立派である。
実際には、書類が滑る。
「法廷用重石、三つ!」
書記が叫ぶ。
「証拠へ重石を直接置かないで」とセレナ。
「では何で留める」
「証拠札の外枠」
「法廷規格と違う」
「破損より規格を優先しますか」
「言い方が強い」
「質問です」
「外枠へ」
法廷は始まる前から、細部で争う。
細部で争わない法廷は、大きな結論で雑になる。
裁判席には三人。
中央裁判官。
鉄道法担当。
救難法担当。
名は告げられたが、この審理のために乗り込んだ手続担当者である。セレナは肩書と現在の権限だけを記録する。
「申立人の出廷を」と中央裁判官。
セレナが立つ。
「申立人は分散しています。七名が法廷車、二十四名が各移送車、十一名が分散居住車、五名が保留車です」
「合計が四十七にならない」
「法廷車七名は、移送二十四名へ含まれます。分け方を説明します」
「最初から重複のない分類に」
「人物の現在地と申立て方法を同じ分類へ入れると、必要な情報が消えます」
「裁判官へ講義を?」
「誤解を訂正しています」
「星律官、礼節」とカイルが小声で言う。
「王太子は発言許可を得て」とセレナ。
「俺にも厳しい」
「同一法廷です」
中央裁判官が咳払いする。
「申立人名がない」
「現在名を公開する者、封印提出する者、完全非公開を選ぶ者がいます」
「完全非公開で、当事者性をどう確認する」
「身元未確定乗客条項を準用します」
「意識不明者の条項だ」鉄道法担当。
「本人が意識を失っている場合だけでなく、身元照会が不可能な事故時に暫定乗客権を認める条文です」
「彼らは身元を知っている」
「自分で知っていることと、国家へ公開できることは別です」
「公開しなければ、虚偽申立てを検証できない」
「存在の検証と、旧名の検証を分けてください」
セレナは第一群を出す。
荷重記録。
「設備表示二六八四。旅客零。現地計測による生体反応四十七」
ヘスタの監査記録。
「監査主任による目視四十七。年齢層、身体特徴は場所同定へつながらない範囲で封印」
配給差分。
「四十七単位の食料が設備消耗材として継続供給」
生活痕。
「四十七組の寝台留め、教育使用による石筆粉、医療薬剤消費、成長線、調理煤」
「それは四十七人が同時にいた証明か」と鉄道法担当。
「単独ではありません」
「では弱い」
「単独証拠で全てを証明する必要はありません。互いに独立した記録が同じ総数へ収束します」
匿名索。
「乗車時、本人所持半片と車両半片を監査人二名、現地人二名が確認。総数四十七。分岐後も四十七。身体反応四十七。索の個別形は本人同意なく公開しません」
「索を別人へ渡せる」
「渡した場合も現在の所持者を一人として数える。旧名同一性ではなく、現在の乗客存在を立証する仕組みです」
「人身入替えを許すのか」
「人を名前の容器として扱わないでください」
法廷が静かになる。
セレナの声は冷たい。
冷たい声は、怒りがないという意味ではない。
怒りを相手へ投げる前に、証拠の形へ削っている。
中央裁判官が言う。
「申立人のうち、現在名を公開する者」
オルサが立つ。
「オルサ・レイ」
「出生名」
「答えない」
「法廷命令なら」
「異議」とセレナ。
「理由」
「今の審理――本件の争点は、旧名公開を強制せず権利を認められるかです。最初に旧名を要求すれば、審理そのものが結果を先取りします」
「現在名が本人の選択とどう確認する」
「本人が今、そう名乗った」
「昨日の名と違う可能性」
「今日の本人性を、昨日の国家記録だけへ従属させないでください」
「名前は継続性の証明だ」
「身体、生活、証言、選択にも継続性があります」
オルサが裁判席を見る。
「私が昨日と同じ人間だと証明しないと、今日薬を受ける権利もないのか」
「そうは言っていない」
「なら今の名で扱え」
「旧記録に犯罪照会があれば」
「犯罪を調べるために、全員の権利を先に止めるな」
裁判官は返事を保留する。
保留を記録へ残す。
これまで住民に許されなかった行為を、法廷は当然のように使う。