第455話 第十二章「走る裁判所」前編

判決とは、生活の終わりではない。

 判決書の外へ追い出されていた日常を、もう一度、公の記録へ連れ戻すための入口である。

 裁判官が木槌を置いた翌朝にも、腹は減る。薬は切れる。子供は文字を忘れる。濡れた靴下は乾かない。権利を認める、と一行書かれても、食卓へ椅子が一脚増えるわけではない。

 歴史書は、仮処分の日を大きく書く。

 配給車が三分遅れたことは書かない。

 薬箱の封が規格違いで開かなかったことも書かない。

 新しい学校名を決める会議が、鍋の焦げを巡る口論で二度中断したことも書かない。

 だが、人が制度に勝ったかどうかは、たいてい木槌の音より、その翌朝の湯気で決まる。

「次の停車は、朝食です」

 イヴァ・レイルが言った。

 車内放送ではない。

 法廷車の端、折り畳み食卓の前で、燻製豆の薄いスープを四十七人分ではなく、いま同じ車両にいる十二人分だけ数えながら言った。

「朝食って停車するの?」

 ハルがパンを二つ取る。

「食べずに発車した人間は、あとで止まる」

「事故扱い?」

「予定された故障」

「じゃ、三つ」

「あなたは予定外の故障です」

「一個減らす理由になってない」

「肩の診察が先」

「増えた」

 サナが赤い手袋でハルの左肩を掴む。

「上げろ」

「朝食を?」

「腕」

「こっちは上がる」

「右を見せてどうする」

「成功例」

「比較対象としては有用だ。左」

 ハルは左腕を肩の高さまで上げる。

 痛みはない。

 正確には、上げる途中の一か所だけ、骨が自分の居場所を忘れかける感覚がある。痛いというより、外れようとする予告だった。

「そこで止めろ」

「まだ上がる」

「上がることと、上げてよいことは別だ」

「法廷みたいな言い方」

「医務室は身体の法廷だ。証言を無視すると即時執行される」

 サナは肩へ幅広の布を回す。

「三日、跳ぶな」

「走るのは」

「短距離」

「どこまで」

「私が止めるまで」

「それ、距離じゃなくて権力」

「医療権限」

「期限は」

「三日」

「終了時刻あり。合格」

 ハルが勝手に判決を出す。

「患者が医師を監査するな」

「患者も当事者」

「口だけは完全回復だな」

 サナが包帯の端を結ぼうとした。

 ハルは一、二、と小さく数えた。

 三を言わない。

「エリア」

 窓際で透明板を整理していたエリアが顔を上げる。

「何」

「これ、後ろで結んで。自分だと右だけ締めすぎる」

 具体的に頼む。

 それだけのことを、ハルは地球から落ちてきて、長い旅をかけて覚えつつあった。

 エリアは返事の代わりに歩み寄り、サナから布端を受け取る。

「走る前に言って」

「走らない予定だった」

「あなたの予定は、危機が来ると最初に解約される」

「違約金は」

「私が怒る」

「高い」

「値下げしません」

 布が背中で締まる。

 きつくない。

 緩くもない。

 エリアは結び目を一度押し、ハルの左肩を見ずに言った。

「痛み」

「一」

「違和感」

「三」

「怖さ」

 ハルはパンを見た。

「朝食が減る怖さなら五」

「ハル」

「二」

「分かった」

 それ以上、慰めない。

 慰めは時に、答えを一つへ寄せる。

 エリアは三つ目のパンを半分に割り、片方をハルの皿へ置いた。

「一個半」

「三つより減った」

「私の分を半分渡した」

「増えた」

「算数からやり直して」

「学校ができたから?」

「そういう接続だけは早いのね」

 朝食の後、移動法廷は七両へ分かれた報告を一つずつ受け取った。

 場所は報告されない。

 場所を知ることと、生活を支えることを分けるためである。

 最初は医療車。

 フェル・ダンが通信鏡の向こうで、薬包を指へ挟んでいた。腫れた脚は水平に上げられている。

『名前を書かなければ薬を渡せない、と言われなかった』

「薬は合っている?」サナ。

『薬師が過去の瓶の匂いと、私の症状と、本人申告を照合した。名前は聞かれた。答えないと言った。では今月の呼び符号を、と聞き直された』

「断れた?」セレナ。

『断れた。断った後も薬は来た』

「記録します」

『記録へ私の顔を入れるな』

「入れません」

『脚も』

「症状記録は必要です」

『脚の持ち主まで要るか』

「要りません」

 フェルは薬を飲む。

 苦い顔をする。

『薬がまずいのは、権利が戻っても変わらん』

「そこは医学の敗北」とハル。

「製薬の限界だ」とサナ。

 通信が切れる直前、フェルが小さく言った。

『明日も来るそうだ』

 薬のことだった。

 明日のことでもあった。

 二つ目は学校車。

 通信鏡へ映ったのは、六人の子供ではない。

 一枚の鉄板だった。

 メラ・キスが、右頬の墨染みを指で広げながら、板を正面へ立てる。

『読める?』

「ここは仮ではない」とハル。

『続き』

「ただし、変えてよい」

『新しい学校名』

「名前じゃない」

『校名を決めるまでの校名』

「仮じゃん」

『仮ではない。変更予定』

「言葉が制度と喧嘩してる」

『学校はだいたいそういう場所』

 板の裏には、今日の時間割がある。

 一限。

 自分の呼ばれ方を自分で選ぶ。

 二限。

 選ばなかった人を、呼ばないまま助ける。

 三限。

 鍋の焦げを落とす。

「三限だけ生活」とハル。

『全部生活』

 メラの後ろで、子供が手を上げる。

『先生。明日は算数をしていい?』

『今日もしていい』

『今日の算数、人数を数えるやつ?』

『違う。鍋を何人で洗えば早いか』

『結局人数』

『人数は悪くない。数え方が悪くなることがある』

 黒板の端には、匿名色結びが六本。

 全員が同じ長さではない。

 毎朝、自分で結び直す。

 昨夜の形を引き継いでもいい。変えてもいい。外してもいい。

 数えられることと、固定されることを分ける練習だった。

『配給車が、教科書を十八冊置いていった』メラ。

「六人なのに?」ロロ。

『残留者十二人の読み書き教室にも使えと。余った分は誰かが途中参加するかもしれないから、白紙で置く』

 白紙は欠落ではない。

 来るかもしれない誰かへ残す席である。

 三つ目は、残った十二人の生活車だった。

 映像はない。

 音だけ。

 鍋の蓋。

 布を切る鋏。

 幼い咳。

 遠くの車輪音。

 場所を映さないという条件を、彼らは映像通信そのものを使わないことで守った。

『配給、受領』

 オルサの声。

『数量、十二。予備、二。薬、封印三。燃料、三日分。水、四日分。教師用紙、六十枚。住所照会、なし』

「受領者は」とヘスタ。

『生活者代表、三名。名前非公開。匿名結び、三本。受領刻印は荷物側へ』

「規格どおりです」

『あんたが作った規格か』

「私が見落としていた穴を塞ぐための暫定規格です」

『自慢に聞こえる』

「罪状説明です」

『なら聞く』

 ヘスタ・クレイは白い格子外套の右袖を外していた。

 辞職したのではない。

 監査徽章が付いた袖だけを、処分審査へ証拠として預けた。

 左袖にはまだ職権がある。

「半分監査官?」ハル。

「職権は半分になりません」

「見た目が半分」

「見た目で権限を測る制度を、今扱っていたはずですが」

「反論が正しいと悔しい」

『その女を、まだ監査へ置くのか』オルサ。

 法廷書記が答えようとする。

 ヘスタが先に口を開く。

「置かれています。私が残りました」

『逃げなかったと言いたい?』

「逃げれば、後任が私の記録を『前任者の特殊な失敗』として閉じられる。私は特殊ではない。規則どおりに働いて、人を消した」

『偉そうに聞こえる』

「責任は、しばしば偉そうな形をしています。引き受ける者が主語になるからです」

『許さない』

「許可を求めていません」

『監査はさせる』

「受けます」

『私たちも、あんたを監査する』

「必要です」

 通信の向こうで、巨大な締結レンチが床へ置かれる。

 硬い音。

 合意ではない。

 接続だった。

 四つ目は自由港救難路〈フリー・ライン〉

 ミラ・ベルウェザーは通信鏡へ顔を出さない。

 代わりに帳簿だけが映った。

『到着九。署名零。料金零。食事九。寝床九。義足一、整備代は本人確認後』

「最後、誰」とハル。

『私』

「自分で払うの?」

『共同会計へ乗せると、救難対象の金が船長の脚へ消えたと言われる』

「言う人いる?」

『私が言う』

 画面の端から、パル・スピンの六本指が入る。

 銀の匙を一本、机へ置く。

『借りた』

「盗んだじゃなくて?」カイル。

『返す気がある時は借りた』

「返す前から定義するな」

『返した』

「どこから」とセレナ。

『配給箱』

「何のため」

『名前を言わない客にも、同じ匙をくれるか試した』

「結果は」

『くれた。だから返す』

 ミラの指が現れ、匙を帳簿の横から取り上げる。

『試験費用、一匙洗浄』

「請求するの?」ハル。

『誰に?』

「パル」

『払えない者へ請求書を作ると、請求書が追跡札になる』

「無料?」

『費用は消えない。匿名試験費として私の名前で公開する』

「赤字増えるね」

『借金は見えた方がまし』

 カイルがうなずく。

「景気が悪くない」

『王子がそれを言うと国債みたいで腹が立つ』

「まだ即位していない」

『即位前から腹が立つ』

 救難路へ着いた九人のうち、三人は一夜だけ休み、次の行き先を探す。

 二人は港で働くかもしれない。

 一人は名前を変えない。

 一人は名前を変える。

 二人はまだ決めない。

 自由とは、全員が好きな場所へ行けることではない。

 行けない理由を、本人の罪として数えないことから始まる。

 五つ目は家族連絡の中継車。

 三通の手紙が投函された。

 宛先だけが封印されている。

 本文は三通とも短い。

『生きている。会うかはまだ決めない』

『死んだことにされていたなら、訂正だけしてくれ。帰るとは書かない』

『私の部屋を残さなくていい。私の話を勝手に終わらせないで』

 返事はまだない。

 返事がないことを、拒絶とも同意とも数えない。

 通信士が受領時刻だけを刻む。

 待つ時間へ、意味を一つに固定しない。

 最後は、行き先を保留する臨時駅〈ホールド・プラット〉だった。

 駅と言っても、五人を乗せた二両編成である。

 決まった場所を持たず、救難線と法廷線の間にある安全な側線を渡る。朝夕二回、目的地を聞く。答えなくてもよい。聞かれたくない日は、匿名結びを外側へ一度返す。

 保留には期限がある。

 ただし、期限切れで強制的にどこかへ送るためではない。

 安全条件を見直し、保留そのものが新しい檻になっていないか確かめるための期限だった。

 二結びが窓の前へ座る。

 今日は銅色の髪留めを二本。

「今日の名前は?」ハル。

『聞くの?』

「聞いていい日?」

 二結びは右手の索を見る。

 青と白を二回。

『今日は、ミコ』

「ミコ」

『明日は違うかもしれない』

「じゃ、今日はミコ」

『覚える?』

「今日の分は」

『明日、忘れる?』

「忘れろって言われたら、呼ばない。でも、忘れたふりはしない」

『難しい』

「俺も」

『保留って、いつまで?』

 イヴァが答えようとする。

 息を飲む。

「次の確認は夕刻。その次は明朝」

『そのあと』

「法廷の仮処分は三十日。十五日目に中間審査。三十日までに延長、別制度への移行、終了のどれかを、あなたたちと法廷で決める」

『イヴァが決める?』

「決めない」

『じゃ、誰』

「私も一人として参加する。決定権は分ける」

『分けたら、誰も決めないかも』

 イヴァの左手が、穿票鋏トランジットへ触れる。

 鳴らさない。

 改札鋏を鳴らさない返事は、放送ではない。

「それが怖い」

 低い声。

「だから期限を置く。期限が来たら私が決める、ではない。期限が来たら、決める方法が止まっていないか全員で確かめる」

『待ってる間に危なくなったら』

 サナが通信へ入る。

「呼吸、出血、落下、雷撃。命に直結する危険なら、いちばん近い安全駅まで医療代理する。着いたら権限は切れる」

『私が嫌だって言ったら』

「意識があって説明を理解できるなら止める。意識がなければ運ぶ。目覚めたら戻るか別へ行くか選べる」

『間違えたら』

「記録して、謝って、直す」

『正解じゃない』

「医者は正解を売ってない。選び直せる身体を守る」

 ミコは窓の外を見る。

 雷雲。

 同じ景色が、何度も形を変えて流れる。

『じゃ、今日はここ』

「承知しました」とイヴァ。

『車掌みたい』

「元です」

『今は』

 イヴァは自分の外套を見る。

 濃紺。

 裾は二本の線路のように割れている。

 胸から主任車掌章は外され、証拠袋の中にある。

「技術補助。被告。証人。乗客」

『多い』

「一つにすると、また間違える」