第461話 第三章「嘘の音がしない」前編
信じる、という言葉は便利である。
証拠がない時に使える。
証拠があっても使える。
正しい相手にも、間違った相手にも使える。
昨日と今日で意味が変わっても、同じ二文字で通る。
その便利さゆえに、信じることはしばしば証明の代わりに置かれた。
王を信じよ。
神を信じよ。
家族を信じよ。
証人を信じよ。
歴史上、そう命じた者の多くは、自分を検証する手間を相手の信頼へ請求している。
しかし、何も信じずに人間社会は作れない。
毎朝、床が床であること。
昨日直した橋が今日も橋であること。
出発した者が、帰れないなら帰れないと知らせること。
証明できないまま一歩を置く場所を、人は信頼と呼ぶ。
大切なのは、信じた相手が間違った時に、世界まで一緒に壊れないようにしておくことだった。
「全員を信じる」
凪野ハルは言った。
「却下」
セレナ・クロウが言った。
「早い!」
「審理方針として不適切です」
「じゃ、全員を疑う」
「同じく不適切」
「選択肢、狭くない?」
「信頼と検証を二択にするから狭いのです」
開廷から一時間。
法廷車と食堂車をつなぐ短い渡り廊下で、遅い朝食が配られていた。
列車は止まらない。
裁判官も証人も、止まらないまま食べる。
雷鎖環の法廷料理は、汁が少なく、角が丸く、落としても転がりにくい。皿には磁石。匙には手首紐。パンは六角形。煮豆は潰して板状にされている。
味より証拠保全を優先した食事である。
「この豆、食べ物としての自由を拘束されてない?」
「口へ入る自由はある」とカイル。
「出る自由も早そう」
「食事中に言うな」とエリア。
ハルは右手で六角パンを持ち、左腕は固定帯の上へ載せている。
三日前の跳躍禁止は、昨夜の第六雷刻で期限を終えた。
期限が終わったことと、肩が新品になることは別である。
サナはその点を、パンより硬い声で説明した。
「挙上は胸の高さまで。荷重は二。急な懸垂なし。痛み三で役割変更」
「三ってどれくらい」
「お前が『平気』と言い始める一歩前」
「主観尺度として俺への信頼が低い」
「実績尺度だ」
「信じて」
「身体の嘘は音が鳴るのか」
「鳴らない」
「なら申告しろ」
「はい」
「素直で気持ち悪い」とカイル。
「最近、その評価、流行ってる?」
「お前たちが普段素直でなさすぎる」とロロ。
四本の補助腕が、皿を固定し、匙を運び、車輪記録を開き、請求書へ『法廷食・味覚損害』と書き込んでいる。
「味覚損害、誰に請求するの」とハル。
「食堂局」
「払わないでしょ」
「争わせる。争いのない請求書はただの願いだ」
「法律を悪用する修理工」
「制度を利用してると言え」
「同じ意味?」
「請求書では違う」
セレナは食べない。
蜂蜜菓子を一つ、外套の内側へしまったまま、七人の供述を切り分けている。
人名。
位置。
身体向き。
視力。
聞こえた音。
後知識。
推測。
黒い羽根札は、色でなく重さ順に並ぶ。
「食べないの」とハル。
「第六雷刻までに摂取します」
「今、第五雷刻五十八分」
「把握しています」
「二分で食べる?」
「小型です」
「食事を証拠提出みたいに扱うなよ」
「低血糖で審理停止する方が不適切です」
「じゃ、今」
「質問整理後」
エリアが蜂蜜菓子を外套から取り、セレナの記録板の左へ置く。
左眼の見えにくい側ではなく、右眼の視界へ。
「質問整理は、食べながらできます」
「油分が記録板へ」
「包みを開けず一口ずつ」
「一口の大きさが」
「測りますか」
「不要です」
セレナは外套の襟を閉じ、蜂蜜菓子を一口かじった。
甘味を食べる時だけ襟を閉じる理由を、誰も聞かない。
見えている癖を、すべて説明させる必要はない。
「それで」とセレナ。「凪野ハル。全員を信じるとは、何をすることですか」
「嘘つきって決めない」
「それだけなら採用できます」
「採用された」
「ただし、全員の発言を事実として扱うのではありません」
「言ったことと、起きたことは別」
「そうです」
「でも、ひびは鳴らなかった」
「記録から除外」
「分かってる」
「不満そうです」
「俺が嘘ついてるみたいに扱われた気がした」
「あなたの感覚を否定していません」
「使わないだけ」
「他者が再確認できないものを、有罪無罪の決定打にしない」
「俺を信じてるから?」
セレナは菓子を噛み終えてから答える。
「あなたが間違える権利を残すためです」
「信頼の説明として景気が悪い」
「景気のよい信頼は、間違えた時に裏切りと呼ばれます」
ハルは返事を探す。
父を信じていた。
帰るという約束を、正しさと同じ場所へ置いていた。
帰らなかったから、父そのものが嘘になった。
約束が破れたことと、人間の全てが嘘になることは、同じではない。
十五歳の少年へ、それを分けるのは難しい。
難しいから、走る方が簡単だった。
「じゃあ」とハル。「全員が間違ってる可能性も残す?」
「残します」
「全員が正しい可能性も」
「残します」
「何も決めてない」
「決める前です」
「法廷って、決める場所じゃないの」
「決める前に、決めてはいけないものを減らす場所です」
ベルが食堂車の入口から言った。
「星律官。いい台詞だ。判決文には長い」
「短くします」
「短くすると意味を落とすな」
「難題です」
「それが仕事だ」
食後、ハルは七つの供述札を床へ並べた。
右から火。
上から火。
左下から火。
下から上。
右肩。
左下。
床の継ぎ目。
「火、忙しすぎない?」
「火は一か所から始まっても、燃え広がる」とロロ。
「でも最初に見た方向が違う」
「最初に発生した瞬間を見たとは誰も言っていません」とセレナ。
「最初に見た火」エリアが言い直す。「それぞれの視界へ最初に入った火」
「事件の最初じゃない」
「証言の最初」
「最初にも種類がある」
「一つしかないと思うから事故になる、と言ったでしょう」
「右だけじゃなく最初まで増えた」
「世界はあなたの語彙へ合わせて減りません」
「語彙を増やせって?」
「質問を増やして」
ハルはヘスタの札を持つ。
「『右から火』」
「正確には」とセレナ。「『当時の私の右にある窓枠が青く光り、その後、床の継ぎ目から炎が見えた』」
「長い」
「長さを削った結果が旧判決です」
「短い方が間違ってる」
「短いことが間違いなのではありません。何を削ったかが問題です」
「じゃ、右を削る?」
「右を残し、基準を残す」
「私の右」
「身体の向き」
「座席の向き」
「列車の向き」
「走ってる向き」
「重力」
エリアが透明板を五枚重ねる。
「多い!」
「まだ時刻がある」
「六枚!」
「窓の向き」
「七!」
「証人の高さ」
「八!」
「興奮してるな」とカイル。
エリアの歩幅が半歩大きくなっている。
「未知の構造です。興奮ではなく集中」
「声が一音上がった」
「気のせい」
「証言します」とハル。
「顔で?」
「耳で」
「却下」
エリアは右眉を上げた。
法廷列車の後部には、事故当時の座席を保存した証拠車が連結されている。
審理中の立入りは禁止。
だが外側から観察することは許可された。
ハルたちは連絡窓へ並ぶ。
古い座席は焦げ、背もたれの片側が裂けていた。窓には雨筋。床板には銅色の流れ跡。天井札は半分黒い。
「三年間、向きは変えてない?」とハル。
「封印記録では」とセレナ。「事故後、車体ごと保管。座席は取り外していない」
「封印記録が正しい証拠は」
セレナがハルを見る。
「良い質問です」
「褒められた」
「一度で成長と思わないで」
「台詞、共有されすぎ」
ロロが窓の下へ潜る。
右眼だけ度入りのゴーグルを切り替える。
「座席脚の錆輪、床と連続。外したら割れる。封印後に向き変えた形跡なし」
「魔法で?」
「そんな便利な術使ったら、星痕が残る。ねえ」
「ありません」とセレナ。
「じゃ、固定」
ハルは自分の身体を、ヘスタの座席向きへ置く。
窓が右。
通路が左。
証拠車の前が正面。
「この状態で、列車が逆向きに走ったら」
「身体の右はそのまま」とエリア。「進行方向基準の右は反対」
「証人が『右』って言うだけで、どっちか分からない」
「だから、三年前の記録は足りない」
「嘘じゃなくて、短い」
「短すぎる真実は、別の真実を刺すことがある」
カイルが深紅の半マントを座席へ固定する。
「政治演説にも多いな」
「王太子殿下の演説で例を挙げましょうか」とセレナ。
「今日は裁判が一つで足りてる」