第481話 第一章「千本の鎖が切れる」前編

千本の鎖が暗くなった。

 そして、暗くなることと切れることは、同じではない。

 灯りが消えただけなら、まだつながっている。

 通信が途絶えただけなら、声が届かないだけで、橋は残る。

 電力が落ちただけなら、人が手で回せる機関もある。

 雷鎖環ガルドの人々は、そうやって一つ一つの故障を別々に考えてきた。

 だが歴史というものは、別々に作られた便利を、後から同じ骨へ載せたがる。

 最初の鎖は、浮島をつなぐ橋だった。

 次の世代は、その鎖へ列車の案内電流を流した。

 次の世代は、通信を載せた。

 さらに次の世代は、島の重力固定まで同期させた。

 一つの鎖で四つの仕事ができる。

 その発明は、百年にわたって褒められた。

 同じ鎖を失えば、四つの仕事が同時に死ぬことは、百一年目まで教科書の脚注だった。

「一つ目、来る!」

 凪野ハルが叫んだ時、何が一つ目なのかを説明する余裕はなかった。

 走る法廷だった三両編成は、たった今、三方向へ分かれた。

 法廷車は中央線。

 救護車は地域救難線。

 運行車は地図へ名のない無標線。

 ハルがいるのは運行車だった。

 エリア、ロロ、ノクス、イヴァ、オルサ。

 そして車体の右側へ短い牽引索で結ばれたゼロスター号。

 片帆の星帆船は線路を走れない。

 線路の横を飛べる。

 その「横」が、重力の変わる雷鎖環で何秒同じ方向を意味するかは、誰にも保証できない。

 窓の外。

 青白い鎖が、一本、弓のようにしなった。

 切断音より先に、鎖の中央が白くなる。

「伏せろ!」

 ハルは言った。

 言ってから、自分も伏せる。

 以前なら逆だった。

 先に飛び、後から「危ない」と叫んだ。

 成長とは、危険を避けることではない。危険へ入る順番を、少しだけ人間らしくすることである。

 鎖が切れた。

 ぎぃぃぃぃん、と空そのものを鋸で引いたような音。

 切れた端が跳ねる。

 直径二メートルの金属束が、鞭になって運行車の上を通過した。

 窓が全部、内側へ膨らむ。

「一つ目って、これか!」ロロ。

「物理切断、一つ目!」ハル。

「暗化は千本終わってる!」

「じゃ二段目の一つ目!」

「段数を後から増やすな!」

 ロロの四本の補助腕が、本人の返事より早く天井へ伸びる。

 一腕が窓留め。

 一腕が車体傾斜計。

 一腕が工具箱。

 最後の一腕が、ノクスの尾を掴みかける。

「ナァ!」

 ノクスが工具腕を噛んだ。

「お前を留めようとしたんじゃねえ!」

「今のは噛まれる言い方」とハル。

「非常時に獣の権利講座すんな!」

「平常時に聞かないから非常時に来る」

「お前の説教、災害より迂回する!」

 運行車が左へ落ちた。

 左ではない。

 構造床の黒線側へ、重力が二十二度傾いた。

「基準を言って!」エリア。

「構造床、黒線側二十二!」ハル。

「速度」

「体感で速い!」

「数字!」

「俺に聞くな!」

「正確な無能を申告した点だけ評価するわ!」

 エリアの地図槍グリムリリーが開く。

 白い日傘の骨が細身の槍へ変わり、先端から三枚の透明板が展開した。

 一枚目、列車。

 一枚目の上へ、ゼロスター号。

 その上へ、切れた鎖。

 さらに、漂い始めた浮島。

 線が増える。

「車体速度、百三十から百一。減速中。落下角二十二から二十七。ゼロスター号は牽引索が短く、車体より先に下へ回る」

「下はどっち」とハル。

「三秒後に船側」

「今聞いた下が三秒で変わる!」

「だから今答えた!」

「地図って賞味期限あるんだな!」

「あなたの理解より長い!」

 ゼロスター号が車体の横から下へ回る。

 牽引索が張る。

 片帆が雷雲をはらみ、船首が運行車の床へ向く。

 船内には誰もいない。緊急時の無人牽引状態だ。

 それでも、船は物ではないように見えた。

 鏡砂の白い補修布。

 翠獣環の獣毛索。

 自由港の赤茶の縫い目。

 学院の灰銀留め具。

 旅のたびに壊れた痕跡が、今度は重さになって運行車を引く。

「牽引索を切る!」オルサ。

 巨大な締結レンチを持つ女が、欠けた左小指を柄へ巻き込まないよう握り直す。

「待って」とハル。

「待てる張力じゃない」

「切ったらゼロスター号が落ちる」

「切らなきゃ、こっちも引かれる」

「どっちを」

「だから聞くな。今、決める」

 オルサがレンチを牽引基部へ掛けた。

「切るんじゃない」とロロ。「一段抜け。自由継手を噛ませる!」

「部品は」

「ある!」

「どこ」

「お前の右足の下!」

 ハルが見る。

 床箱の蓋。

「開ける!」

「行き先を言え」

 低い声が割り込んだ。

 イヴァ・レイル。

 電光色の青い三つ編みが、傾いた車内で線路図のように床へ伸びている。

 右手の指は震えていた。

 左手には穿票鋏トランジット。

「床箱」とハル。

「その後」

「継手をロロへ」

「その後」

「牽引基部」

「戻る条件」

「索が二本になったら。左肩の痛みが四になったら。床角が四十度を越えたら」

 イヴァが鋏を一度鳴らす。

「受領」

「毎回これやる?」

「毎回、帰るつもりなら」

「じゃ行く!」

 ハルは羅針盤の蓋を三度弾く。

「一、二、三!」

 床箱へ滑る。

 右手で蓋を開け、左手は添えるだけ。

 銀の継手を掴む。

 車体がさらに傾く。

 足が浮く。

「痛み二!」

「聞いてない!」サナの声が、割れた通信板から飛んだ。

 救護車との通信は、まだ一部生きている。

「申告!」ハル。

『申告先を勝手に増やすな。右手保持、補助索!』

「了解!」

 エリアの路図が一本、ハルの腰へ沿う。

 道ではない。

 次に重力が戻る拍を示す光。

「二拍後、床!」

「一、二!」

「三を待って!」

「言ってない!」

「顔が跳んだ!」

 重力が戻る。

 ハルは床へ落ち、継手をロロへ投げる。

 ロロの補助腕が受ける。

「料金!」

「今?」

「無料で渡すと、お前が次も床箱を勝手に開ける!」

「一ルク!」

「命懸けの部品が一ルク!」

「じゃ労働一回!」

「もう働いた!」

「成立!」

「勝手に成立させるな!」

 ロロは怒鳴りながら継手を噛ませた。

 オルサがレンチを回す。

 牽引索が一段伸びる。

 ゼロスター号は切り離されず、運行車も引き倒されない。

 危機は終わらない。

 危機の種類が一つ減っただけだ。

 二本目が切れた。

 三本目。

 四本目は、物理鎖ではなく通信鎖だった。

 法廷車の映像が消える。

 最後に見えたのは、カイルの深紅の半マントと、セレナが右手首を左手で固定する姿だった。

『こちら法廷――中央線へ――王命では――』

 途切れる。

「カイル!」ハル。

 返答なし。

「呼ぶだけじゃ通信は戻らない」とイヴァ。

「知ってる」

「なら、何を送る」

 ハルは一拍止まる。

「無標線、運行車。生存六、夜獣一。ゼロスター号牽引中。左肩痛み二。進路不明。法廷車の状態を求む」

「誰が六に入った」とオルサ。

「俺、エリア、カイル――」

「いない」

「ロロ、イヴァ、オルサ」

「五」

「ノクスは夜獣一」

「エリアを二回数えた?」

「数えてない」

「自分を忘れた」とエリア。

「俺、最初に言った!」

「では誰を」

 全員が車内を見る。

 座席の下。

 黒い外套の裾。

 違う。

 法廷の記録係ではない。

 小さな人影が一人、固定網へ絡まっていた。

 十三番駅から法廷へ来ていた生活者。

 今日の名は、ミコ。

「法廷車に乗ったと思ってた」とハル。

「私も」ミコ。

「いつ移った?」セレナなら時刻を聞く。

「三両を分ける時。中央へ行くか決めてなかったから、無標線」

「誰が許可を」オルサ。

「乗るのに旧名が要らない車両を選んだ」

「それは許可の答えじゃない」

「許可した人の名前を出すと、その人の責任になる?」

「なる」

「なら、後で本人と一緒に話す」

 ミコは固定網から腕を抜く。

「今日の名はミコ。生存。行き先、保留」

 ハルは通信文を訂正する。

「生存六、夜獣一。今度こそ六」

「生存を人数だけで送る?」ミコ。

「名前も?」

「私のは今日の名だけ」

「条件付きで」

「受領」

 イヴァの鋏が鳴る。

 短い通信が飛ぶ。

 返答はない。

 五本目の断線で、列車灯が消えた。

 六本目で、車内暖房。

 七本目で、重力固定が一拍落ちた。

 全員の身体が天井へ浮く。

 ノクスだけが先に爪を掛けた。

 二本の尾が、逆方向を指す。

「ノクス、どっち!」ハル。

「ナァ!」

「右?」

「床?」ロロ。

「中央と外」とエリア。

 彼女は透明板を重ねていた。

 鎖の暗化時刻。

 実際の切断音。

 列車灯の消失。

 重力角の変化。

「画面では、外側から暗くなった」とハル。

「戻り信号が外側から失われたから」

「実際は?」

「最初の重力位相変化は中央寄り。次が第二環。今の無標線は第四環」

「中央から外へ?」

「波のように」

「誰かが順番に切ってる?」

「まだ断定しない」

 エリアの顎が上がる。

 分からないことへ、完成した線を引きたくなる時の防具。

「中央の予備機構が働いた可能性。切断命令が各線へ届いた可能性。荷重が内側から移った可能性。三つとも残す」

「三つも」

「一つにすると楽?」

「犯人が一人なら追える」

「災害は、追いついて殴れば直る相手とは限らない」

「殴る前提じゃない」

「顔が殴っている」

 ハルは羅針盤の蓋を弾く。

 一回。

 二回。

 三回。

 四回。

 エリアの目がそこへ落ちる。

「怖い?」

「四回は観測?」

「台帳がなくても分かる」

「カイルたちの返事がない」

「私も」

「エリアも?」

「怖い。だから、一本に決めない」

 彼女は地図へ三つの仮説を残す。

 完成しない地図。

 だが今は、完成した誤りより役に立つ。