第482話 第一章「千本の鎖が切れる」後編
運行車の前方で、古い転轍機が勝手に動いた。
がちゃん。
「触った?」ロロ。
「誰も」とオルサ。
無標線の先に、三本の線がある。
中央。
地域。
外環。
転轍機は中央へ倒れた。
「自動退避」イヴァ。
「中央命令?」ハル。
「旧式の緊急時刻表。全通信断時、稼働列車を中央第一避難駅へ集める」
「さっき拒否した」
「列車は聞いていない」
「列車にも行き先を聞け?」
「列車を使う人へ聞く」
運行車の床へ、青白い文字が出る。
『中央第一避難駅』
続けて、救護車の残光。
法廷車の残光。
別の貨物列車。
学校車。
工場車。
家畜車。
生きている全ての進路灯が、中央へ向きを変える。
千本の鎖が切れた空で、列車だけが一つの場所へ集まり始めた。
「止める?」ハル。
イヴァは右手の震えを、左手で押さえない。
隠さず見る。
「今すぐ全部を逆へ振れば、衝突する」
「じゃ従う?」
「一時だけ、中央の手前へ寄せる」
「一つの避難先へ?」
「避難先にはしない。衝突を避ける仮の乗換域にする。十八分」
「十八分後」
「各列車へ、もう一度聞く」
「中央が手放さなかったら」
イヴァはトランジットを開く。
巨大な改札鋏が、短槍の形になる。
「その時は、中央から降ろす」
彼女が床へ切符印を打つ。
移動物へ停止条件を刻む標〈ステイション・マーク〉。
『中央第一避難駅・外周十八分』
『到達前衝突回避』
『十八分後失効』
青い文字が運行車の車輪へ走る。
同時に、遠くの列車灯が一つ、二つ、中央へ曲がった。
そのさらに外側で、巨大な工業島が重力を失い、ゆっくりと横倒しになり始める。
煙突が空を指す。
次の瞬間には、町を指す。
「十八分で足りる?」ハル。
「足りない」
「言い切った」
「足りないから、何に使うかを決める」
イヴァの声は放送のように静かだった。
「次の停車は、中央ではない」
列車は中央へ向かう。
「中央の手前で、選び直す」
その言葉を聞いた全員の足元で、八本目の重力鎖が切れた。
空が、今度こそ下へ落ちた。
重力固定が消えると、人は落ちない。
正確には、今まで下だった方向へ落ちなくなる。
列車は慣性のまま前へ進む。
浮島は最後に固定されていた方向へ漂う。
車内の人間は、床から離れた身体だけが過去の下を覚えている。
世界の全てが、それぞれ別の「さっきまで」を持つ。
運行車の床が遠ざかった。
ハルの身体が天井へ上がる。
ミコは固定網へ戻る。
オルサの締結レンチが回転し、窓へ向かう。
「工具!」
ロロの補助腕が伸びる。
一腕がレンチを掴む。
一腕がミコの固定網を締める。
一腕が自分の工具箱を抱く。
最後の一腕が空を掴む。
「四本あって一つ余ってる!」ハル。
「お前を掴む予定だった!」
「掴めてない!」
「動きが無駄に速い!」
ハルは天井の手すりへ右手を掛ける。
左肩へ体重を預けない。
ゼロスター号が、今度は列車の上へ回った。
牽引索が窓枠を擦る。
船底の手動機関〈クランク・ハート〉が無人のまま一度、低く鳴った。
船が自分で助けを求めたのではない。
前の回転で蓄えた歯車が戻っただけだ。
人は、偶然に意思を見たがる。
機械へ心を見れば大事にできることもある。
機械の警告を心の声と呼んで整備を忘れることもある。
「船首継ぎ、あと二拍で外れる!」ロロ。
「行く」とハル。
「行き先」イヴァ。
「ゼロスター号の船首。継ぎを手で戻す。戻る条件、固定音が二回、痛み四、索が赤熱」
「補助者」
「俺一人で」
「却下」エリア。
「速い」
「却下に速度は必要ない」
「じゃ誰」
「私が周期を読む。オルサが索を送る。ロロが固定。あなたは手だけ」
「手だけで船まで行けない」
「脚も使っていい」
「権限が細かい!」
「身体を雑に使う人向け」
エリアは地図板を横へ立てる。
列車と船の間へ道を描かない。
互いに近づく瞬間だけ、白い輪で示す。
「次、四拍後。接近距離一・八」
「一、二」
「まだ」
「数えてるだけ」
「三を言ったら飛ぶ顔をする」
「顔で裁くな」
「身体は前科あり」
「セレナまで移った!」
「今!」
「三!」
ハルは手すりを蹴った。
飛ぶというより、二つの漂流物の間へ自分を置く。
赤いマフラーが遅れる。
右手が船首索へ届く。
左手は船板へ添えるだけ。
ゼロスター号の船首に、ノクスが先にいた。
「いつ来た!」
「ノゥ」
「説明になってない!」
二本の尾が別方向を指す。
一方は運行車。
一方は船首のさらに先。
そこに、小さな保守台が漂っていた。
四角い鉄床。
短い手すり。
折れた信号柱。
人影が二つ、柱へしがみついている。
「人!」
『位置』エリア。
「船首から前、十メートル! 保守台二人!」
『台の重力』
「分からない!」
『見える物を』
「布が列車側へ流れてる。工具袋は台へ貼り付いてる。人は手すり!」
『局所固定が残っている。台だけ別の下』
「助ける!」
『船首先端を直してから』ロロ。
「先に人!」
『索が外れたら船ごと離れる! 二十秒!』
助ける順番。
人を先にすれば船が落ちる。
船を先にすれば二人が離れる。
どちらも人を守るための順番である。
「保守台!」ハルは叫ぶ。「聞こえる!」
一人が腕を上げる。
「船の継ぎを二十秒で直す! 台は自分で持つ!」
「持てる!」
女の声。
「もう一人は!」
「十二歳! 右腕、折れたかも!」
『サナへ接続』イヴァ。
通信板は割れている。
それでも救護車から、音だけが来る。
『意識』
「ある!」
『出血』
「見えない!」
『右腕を身体へ固定。引っ張るな。二十秒なら台を優先していい。落下兆候が出たら人』
「受領!」
ハルは船首先端の継ぎへ指を差し込む。
金具が半回転ずれている。
右手の親指、人差し指、中指に白い細線が浮く。
零星針ではない。
力を込めた時の星痕。
「硬い!」
『硬いは情報じゃねえ!』ロロ。
「右へ動かない、左へ二ミリ、熱い!」
『固定爪が下。今の下じゃねえ。船の前方へ押してから時計回り!』
「時計、どっちから見た!」
『お前から!』
「俺のどっち!」
『顔側! ああもう、右へ回せ!』
「最初からそう言え!」
『お前の右は今どこだ!』
「地球と同じ!」
『地球を持ち込むな!』
継ぎが回る。
一回。
がちん。
二回目。
がちん。
「固定音二!」
『戻れ』イヴァ。
「保守台!」
『戻る条件を自分で言った』
「でも人が」
『ゼロスター号を台へ寄せる。あなたは船内から索を出す』
「今ここから行く方が」
『一人で決めるな』
イヴァの声は静かだった。
「助けることと、助け方を所有することは別だ」
ハルは歯を噛む。
保守台の二人が見える。
行ける距離だ。
行ける気がする距離は、たいてい帰りを含んでいない。
「戻る!」
自分で言う。
オルサが送った索を掴む。
運行車へ引かれる。
ゼロスター号は自由継手で旋回し、保守台へ船腹を向ける。
ロロが船内の救難索を遠隔開放する。
エリアが接近周期を読む。
イヴァが船へ停止条件を刻む。
『保守台との距離二メートル以下』
『相対速度一以下』
『救助者二名の接続確認』
条件が揃う。
船が止まる。
時間ではない。
思考でもない。
保守台に対する相対移動だけが、七秒間、固定される。
女が十二歳の子を抱え、船腹へ渡る。
七秒後、船と台は再び離れた。
人は船にいる。
「生存二追加!」ハル。
『医療情報』サナ。
「十二歳、意識あり、右腕疑い。成人女性、歩行可!」
『名前は後。固定して救護車へ』
ミコが言う。
「名前を後にできる通信、残そう」
イヴァが彼女を見る。
「安全記録に必要だ」
「身体の状態は送る。旧名は要らない」
「同一人確認が」
「今日の印を作る」
「誰が」
「本人と、見た人」
議論は続く。
救助が終わったから、制度の問題が始まるのではない。
救助の最中に制度の問題はもう働いている。
運行車が中央へ曲がる。
遠くで、救護車も同じ方向へ曲がった。
法廷車の灯りも、一瞬だけ見える。
生きている。
ハルは羅針盤の蓋を四回目まで弾かず、三回で止める。
安心したのではない。
確認できた恐怖は、確認できない恐怖より持ちやすい。
雷鎖環の災害記録は、この夜を後に全鎖同時断線災害〈チェイン・ブラックアウト〉と呼ぶ。
実際には同時ではなかった。
中央の位相変化。
外環へ走る命令。
戻り信号の消失。
物理鎖の断裂。
通信。
電力。
重力固定。
八十一秒の中で順番に起きた。
人間にとって八十一秒は、同時と呼ぶには長い。
千の地域を救うには、短すぎる。
運行車の前方へ、中央第一避難駅の白い灯が現れる。
その周囲へ、何十本もの列車が集まっている。
病院列車。
工場列車。
学校車。
家畜車。
監獄車。
食堂車。
空の貨物車。
人を運ぶ器と、人が暮らす機能が、同じ線路へ押し込まれていく。
中央命令板が再び灯った。
『全列車、中央第一避難駅へ』
『個別目的地は到着後に審査する』
イヴァが、その文面を最後まで読む。
左耳を向ける。
「十八分」
自分の停止標の期限を確認する。
「それを越えたら」ハル。
「中央も、仮駅から降ろす」
白い灯の下で、最初の外周鎖が過負荷に軋み始めた。