第487話 第四章「病院列車、工場列車」前編

医者が列車を嫌う理由は、患者が揺れるからではない。

 患者は、地上の病院でも揺れる。

 痛みで。

 熱で。

 恐怖で。

 医師の手が遅れた時には、世界そのものが揺れているように感じる。

 列車を嫌う本当の理由は、病室に車輪があることだった。

 病室が動けば、医者は患者だけでなく、行き先まで診なければならない。

 どの町へ運べば薬があるか。

 どの線なら重力が安定するか。

 どこへ着けば家族がいるか。

 どこへ着けば逮捕されるか。

 どこへ着けば本人の名が、本人の許可より先に記録されるか。

 身体を救うことは、身体をどこかへ運ぶことと同じではない。

 この区別を、雷鎖環ガルドは長く苦手としていた。

 鉄道国家において、停車とは決着である。

 駅へ着けば、運送は終わる。

 運送が終われば、責任は駅へ渡る。

 しかし医療では、着いた瞬間から責任が始まる。

 だからサナ・ホルムは、病院列車の車輪が鳴るたび、誰かが責任を床下へ置いていく音を聞いた。

「接続索、あと十秒!」

 ロロの声が通信板から割れた。

「十秒で切れるのか、十秒で切るのか」サナ。

『どっちも!』

「答えになってない」

『現場が答えを二つ持ってるんだ!』

 病院列車は中央側へ引かれている。

 工場発電車は外側へ残ろうとしている。

 二両の間をつなぐ電力索が、銀白色へ伸びていた。

 銀白は美しい。

 金属が限界まで細くなった時に出す色でもある。

 美しさには、しばしば破断直前という意味がある。

「患者固定、再確認!」

 サナは赤い手袋を鳴らす。

「寝台一から八、固定済み!」

「九、右腕が外れました!」

「腕じゃなく固定帯だ。言葉を省くな!」

「固定帯、右側が外れました!」

「本人の腕は」

「ついてます!」

「それを先に言え!」

 冗談ではない。

 救護現場で「腕が外れた」は、固定具と関節で意味が違う。

 言葉遊びは平常時には娯楽だが、非常時には診断である。

「九、固定し直す。十から十四、移動可否を本人へ確認。返答不能は医療代理、期限三分!」

「三分後に?」

「本人へ返す」

「意識が戻らなければ」

「延長理由を記録。私が便利だからではなく、身体が待てないから」

 列車が大きく引かれた。

 寝台の脚が一斉に鳴る。

 がん。

 一番奥で、呼吸器の青い管が外れかける。

 サナは走る。

 左手で管を押さえ、右手の赤い手袋を患者の胸へ当てる。

 患者は十三番駅から来た年配の男だった。

 名は公開していない。

 肺に古い粉塵傷。

 右胸へ排気管。

 列車が傾いた拍に、管の縫合部が裂けた。

 血が、白い寝台布へ小さく広がる。

「サナ!」

「選べる状態じゃない」

 彼女は言った。

「三十秒だけ私にくれ」

 赤い手袋の縫い目が光る。

 傷の悪化を三十秒だけ保留する脈止め〈サーティ・ホールド〉

 治癒ではない。

 痛みも消さない。

 裂けた組織も戻さない。

 出血が増えるという、次の一歩を止める。

 止められるのは三十秒。

 止めた分だけ、サナの左手中指と薬指は固くなる。

 元々動きにくい二本が、さらに木の枝のようになる。

「一」

 自分で数える。

「排気弁、交換」

 助手が差し出す。

「四」

 古い管を抜く。

「七」

 新しい管。

「十」

 患者の胸が沈む。

「十三」

 列車がまた揺れる。

「揺れ止め!」

『無理!』ロロ。

「無理を時間へ入れろ!」

『次の大揺れ、六秒後!』

「十七」

 縫合。

 赤い糸。

「二十一」

 呼吸器接続。

「二十四」

 胸腔圧。

「二十七」

 息が戻る。

「二十九」

 サナは手を離した。

 三十秒目。

 止まっていた出血が、続こうとする。

 だが新しい管が、その続き方を変えていた。

 血は増えない。

 患者の胸が上下する。

「治った?」若い助手。

「治してない」

「でも」

「悪化する前に作業した。言い換えるな。魔法が治したことにすると、次に器具を用意しなくなる」

 サナは左手を握ろうとする。

 二本が曲がらない。

「固定」

 助手が副木を取る。

「私の手より患者を」

「先生も次の患者を診る身体です」

 返される。

 サナは一拍だけ黙った。

「正しい」

「珍しい」

「殴るぞ」

「左手、動かないのに」

「右がある」

 助手は笑いながら、彼女の二本指を固定した。

「残り五秒!」

 接続索の話へ戻る。

 命は、一つずつ救う。

 災害は、複数を同時に壊す。

「ロロ、切れた場合」

『病院側、予備電力三十八分。工場側、炉は生きる。患者十四、うち人工呼吸三、保温四、重力補助二』

「切らない場合」

『二両とも外周へ引かれる可能性六割。索だけ千切れて車体を打つ可能性三割。奇跡一割』

「奇跡の定義」

『俺が何とかする』

「それは故障原因になり得る」

『医者が修理工を診断すんな!』

「症状が大きい」

 サナは窓を見る。

 工場発電車が二百メートル外へ引かれている。

 その向こうには小さな居住島。

 灯りが消えている。

 中央へ全員を運ぶなら、病院列車は中央へ。

 発電車も中央へ。

 居住島の人々も中央へ。

 だがそれには、三つの重さを一本の鎖へ載せる必要がある。

 病院を島へ届ければ、動く重さは一つ。

 発電車を病院へつなげば、機能は二つ。

「中央へ患者を運ぶより、病院を外へ運ぶ」

『今それを言う?』ハル。

「今しか意味がない」

『でも中央に薬が』

「この列車に十二時間分。外島に患者がいるなら、中央へ全員動かすより軽い」

『発電車は』ロロ。

「病院へ残す。工場は炉として動く」

『工員の家族は中央』

「交代を作る。病院患者のうち炉を扱える者、外島の技師、自由港の救難員。資格だけで固定しない」

『危険』

「訓練と監督を付ける」

『時間』

「三十八分ある」

『今は五秒!』

「だから先に切れ」

『どっちを!』

「電力を切らず、牽引を切る」

『索、同じ束!』

「分けろ」

『今?』

「今」

 ロロの罵声が、通信板を震わせた。

『オルサ! 束の外皮だけ三分割! 青を残せ! 白と黒を切れ!』

『色で言うな!』テトの声。

「形!」サナ。

『丸穴が電力! 二重切れ目が牽引! ギザが通信!』

『見えた!』オルサ。

 巨大なレンチが落ちる音。

 がん。

 索の束が裂ける。

 白い牽引線が切れた。

 黒い通信線が弾けた。

 青い電力線だけが、細く残る。

 病院列車は中央側へ滑る。

 工場発電車は外側へ残る。

 二両の距離が広がる。

 青線が伸びる。

「電圧!」

『低下二割、まだ送れる!』

「三十八分が」

『六十一分へ増えた! 炉から直接!』

「奇跡」

『請求するぞ!』

「明細を」

『医者まで!』

 通信線を切ったため、声は飛ばなくなった。

 代わりにテトが形信号を使う。

 丸。

 四角。

 横線。

 病院列車の窓へ白板を出す。

 工場発電車から、二重円。

 電力継続。

 子供でも読める。

 色を区別しにくい者も読める。

 雷で耳が固まる者も読める。

 国家は長く、標準化を「全員へ同じものを見せること」だと思っていた。

 だが同じ色を見ても、同じようには見えない。

 同じ音を聞いても、同じようには聞こえない。

 標準とは、同じ信号を使うことではない。

 異なる感覚でも、同じ危険へ届けるよう複数の入口を作ることだった。

 その発想は、しばしば巨大な会議室より、落雷を怖がる十五歳の見習いから先に生まれる。

 病院列車が中央へ引かれる。

「止めろ」サナ。

 イヴァの声は来ない。

 通信線が切れた。

 停止標の青い文字だけが床へ残っている。

『中央』

『東側診療所』

『現在地』

 三つが競合し、列車の車輪が前後へ震える。

 患者は揺れる。

 サナは鋏を持たない。

 列車の停車条件を変える資格もない。

 医師は、何でも止められるわけではない。

「テト!」

 隣の連絡台にいる見習いへ叫ぶ。

「師匠の印、分けられるか!」

「勝手に触れません!」

「正しい。じゃ本人へ確認!」

「通信が!」

「物理で行け!」

「僕が?」

「次を決めるな。聞きに行け」

 テトの顔が固まる。

 窓の外では雷が走っている。

 彼の右足の落雷痕が、記憶より先に痛む。

「怖いか」サナ。

「はい」

「行けるか」

「分かりません」

「選択肢。ここに残り形信号。補助索二本で運行車へ。ハルを呼ぶ。どれ」

「ハルさんを呼ぶ」

「理由」

「僕より速い」

「それだけ」

「僕が行くより、事故が少ない」

「受領」

 テトは三角と二重輪を窓へ出す。

 支援要請。

 行き先変更可。

 遠くの運行車で、赤い布が揺れた。

 ハルが来る前に、別の船が来た。

 銅色の帆。

 船首へ白い無署名札。

 左舷へ、赤茶の救難索。

 自由港の小型救難艇。

 舷側に立つ少女は、銅色の短い巻き髪を雷風へ投げ出していた。

 風鈴ピアスが鳴る。

 左膝下の星晶義足が、甲板へ三度硬い音を返す。

 ミラ・ベルウェザー。

「病院列車!」

 拡声筒から声。

「署名なし救難路、外周から接続! 乗員名簿を要求しない! 医療危険だけ寄越せ!」

 サナが窓を開ける。

「危険情報を要求するなら、記録は残る!」

「名前と切り離せ!」

「同じ人を二重搬送する」

「形札」

「複製できる」

「紙繊維を裂け!」

「それでも交換される」

「完璧にしたい?」

「死なせたくない」

「私もだ!」

 ミラの義足が一度滑る。

 傷が治っていないわけではない。

 長時間の操船と雷振動で、接合部が熱を持っている。

 彼女は右脚へ重心を移す。

 隠さない。

「痛み」サナ。

「四」

「十段階」

「八段階」

「勝手な尺度!」

「八までしか耐えない!」

「今、降りろ」

「医者が船長へ命令するな!」

「身体条件を提示した!」

「操船は交代済み!」

「じゃ座れ!」

「値段は!」

「請求書を出せ!」

「医者が払う?」

「王家へ!」

「カイル、聞いたな!」

 法廷車から遠い通信が割り込む。

『半額までだ!』

「半分王子!」ハルの声も来る。

『今そこ?』カイル。

「生存報告!」

『先に言え!』

 ハルが補助索を渡って病院列車へ飛び込む。

「一、二、三!」

 着地。

「左肩、痛み二! ミラ、久しぶり!」

「十七日だ!」

「久しぶりの基準、契約にある?」

「お前と会わない一日は安い。会う一日は高い!」

「褒められた?」

「請求された」エリアの遠隔声。