第488話 第四章「病院列車、工場列車」後編
ミラの救難艇は、病院列車の外側へ並ぶ。
外島から二十三人。
名前を出したくない者、九人。
名前を失っている者、三人。
医療上の呼び印だけ持つ者、二人。
イヴァが追いついた運行車から、停止標の照会が飛ぶ。
『乗船者一覧を』
「出さない」とミラ。
『重複救助と家族照会に必要』
「旧名照合へ回される」
『回さない』
「お前一人が?」
『制度へ分離鍵を付ける』
「今?」
『今から』
「約束の担保」
『私の名』
「安い」
イヴァの声が一拍止まる。
自分の名前を軽く扱われた怒りではない。
名前だけで安全を保証できると思った自分への怒りだ。
『では何を』
「記録の項目を、名前より先に決める」
『医療危険、移動介助、乗車時刻、希望行き先』
「旧住所なし」
『なし』
「旧名との自動照合なし」
『なし』
「救難費用の個人債務化なし」
『費用は基金へ』
「事故時の照会」
『本人が選んだ呼び印と、裂いた紙繊維』
「警察要求」
『救命中は拒否。裁判命令が出ても本人へ通知』
「通知できない時」
『代理人を本人が事前指定。未指定なら、目的限定の独立監査』
「独立って誰から」
『私からも、王家からも、自由港からも』
「今はいない」
『セレナ』
『私は王国星律官です』遠くから返る。
「じゃ独立じゃない」
『その通りです。暫定監査の限界を記録します』
「便利に引き受けるな」
『便利ではありません。後で全員から怒られます』
「なら少し信用する」
『信用の理由がひどい』
ミコが、運行車から紙札を掲げる。
丸穴。
四角穴。
三角穴。
紙繊維を半分ずつ裂く。
「名前なし安全札」とハル。
「名前がないんじゃない」とミコ。「名前を出す場所を本人が決める札」
「長い」
「短くすると、ないことにされる」
「じゃ長いまま」
病院列車の行き先は、まだ決まらない。
だが、役割は決まり始める。
患者を中央へ運ぶだけではない。
外島の負傷者を受け入れる。
自由港の救難艇へ薬を分ける。
工場発電車から電力を受ける。
学校車へ衛生水を送る。
「列車を止めても、病院は走れる」とハル。
「病院は走らない」とサナ。
「意味」
「医療は、人から人へ動く。車輪は手段」
「じゃ工場も」ロロ。
『炉が電気を送れば、車体は止まっていい』
「学校も」とメラの形信号。
教える人と学ぶ人がいれば、駅名は要らない。
国家の鉄道台帳では、車両は目的地へ物を運ぶ器である。
だが危機の現場で、空の器ほど役に立たないものはない。
中に何が積まれているか。
誰が働いているか。
何をやめれば、何を続けられるか。
機能は、車輪より重い。
その重さを人数へ換算すると、中央駅は「収容可能」だった。
機能として数えると、中央駅は最初から足りなかった。
「負荷表」とエリア。
透明板へ三つの案。
一、全員中央。
二、患者のみ中央、機能は外。
三、病院・炉・学校を地域へ分散。
「線路荷重」ハル。
「一は最大。二は中。ただし運転者の往復が増える。三は初動が複雑、総移動量は最小」
「安全」
「短期は一が読みやすい。線が持てば」
「持たない」ロロ。
「証拠」サナ。
『中央へ近い鎖ほど温度上昇。外周切断後、残った幹線へ重さが流れた。今のまま全員中央なら、あと二本』
「予測?」
『計測。過去五分』
「なら記録」セレナ。
彼女の右手首はまだ固定されている。
左手で項目を並べ、書記へ口述する。
『中央駅容量は人数上足りるが、集中運行に必要な鎖荷重は残存幹線上限を超える』
「それが原因?」ハル。
「全部ではない」とエリア。「断線開始は中央避難命令より先。でも命令が残存線の過負荷を増やしてる」
「最初の原因と、今の悪化原因は別」
「同じ犯人へまとめないで」セレナ。
「犯人いないかも」
「構造はあります」
病院列車を東側診療島へ寄せる。
イヴァの停止標は、まだ三つに割れている。
彼女は自分で新しい印を作ろうとした。
右手が震える。
左手の鋏は持てる。
心拍が一つ飛ぶ。
サナは通信越しでも分かった。
「イヴァ」
『聞いている』
「脈」
『十秒、十四。抜け二』
「運行判断から五分外れろ」
『列車が』
「ハル」
「いる」
「本人の行き先を」
「イヴァ、五分座る?」
『保留』
「医療上、保留できない」とサナ。「意識を失えば全印が不安定になる可能性」
『確率』
「高い。数字は出せない」
『不十分』
「お前の唇が白い。右手の震えが肩へ上がった。返答が一拍遅い。十分」
沈黙。
『五分、運行判断を移譲』
「誰へ」
『停止はテト。経路はエリア。車体はロロ。医療優先はサナ。全体間隔は――』
「全体をまだ持つな」ハル。
『誰かが』
「全体じゃなく、接触する隣同士だけ」
『衝突する』
「最低の共通時刻だけ後で作る。今はこの病院と工場と救難艇」
イヴァの呼吸が乱れる。
全体を手放す恐怖は、落下より大きい。
彼女は三年前、一つの列車を切り離して人を救った。
その後、一つの隠し駅へ人々を集め、守り、閉じ込めた。
全体を見なければ、誰かが消える。
全体を自分だけで見れば、自分の見えない者が消える。
矛盾は、正解を出すことで解けない。
どちらの失敗も起こり得るよう、権限を分けるしかない。
『五分』
「受領」とテト。
師匠の言葉を奪わない。
停止標を一つ、切符紙へ移す。
列車全体ではなく、車両ごと。
病院前車。
病院後車。
発電車。
救難艇。
まだ正式な地域ごとに条件を刻む切符ではない。
試作。
テトが穴を開ける。
丸は、停止。
三角は、医療。
二重線は、接続維持。
横線は、行き先保留。
「次は――」
言いかける。
やめる。
「病院前車の方。中央、東診療島、現在地。どれを希望しますか。変更できます」
返答。
中央、五。
東、四。
現在地、二。
保留、三。
「一両で割れた」とハル。
「人が割れたんじゃない」とミコ。「希望が別」
「車両は一つ」
「車両を、橋みたいに途中へ置く?」
エリアが透明板へ点を打つ。
「東診療島と中央線の中間。重力岩礁。そこへ病院を止め、中央希望者は小型艇へ。東希望者は島へ。保留者は車内」
「病院を駅にする」
「臨時」
「行き先を保留する臨時駅〈ホールド・プラット〉」とイヴァが、座ったまま言う。
初めてその言葉を使う声は、案内放送ではない。
自分へ許可を出すような、低い声。
「停車しても、終点にしない」
「次を決めなくても、落ちない場所」とテト。
「期限は」サナ。
「重力岩礁の固定炉、四刻。二刻ごとに再確認」エリア。
「食料」
「病院六刻。自由港から追加可能」ミラ。
「費用」ロロ。
「救難基金!」ミラ。
「記録!」
「出す!」
怒鳴り合いながら、制度が一つ生まれる。
病院列車を中間岩礁へ向ける。
中央へ引く力が弱まる。
停止標を車両単位へ移したためだった。
だが弱まったのは、一本の力だけではない。
病院前車は岩礁。
病院後車は外島。
発電車は両者へ電力。
三つの停車条件が、同じ連結器を別方向へ引く。
「連結を可動化!」ロロ。
補助腕が伸びる。
「角度は」
「四十七度まで!」
「足りない、六十二!」エリア。
「そんな連結器は列車じゃねえ!」
「列車である必要ある?」ハル。
「車輪ついてる!」
「橋にも車輪あるかも」
「ない!」
「今日から」
「歴史を雑に作るな!」
オルサが巨大レンチを投げる。
「受けろ!」
ロロの補助腕が掴む。
二人で連結器の固定歯を一本抜く。
車両が折れる。
壊れたのではない。
曲がれるようになった。
病院前車が岩礁へ。
後車が外島へ。
発電車が中央に浮く。
電力線が三方へ分かれる。
「動くな!」ロロ。
「誰に」ハル。
「全部!」
「人も?」
「人は息しろ!」
「命令が雑!」
「参照点を言え!」エリア。
「構造床! 各車、黒線基準! 発電車は炉床赤格子!」
「最初から言えるじゃん」
「今覚えた!」
列車は止まる。
止まって、初めて病院になる。
外島から最初の患者が来る。
幼い子供。
右脚の骨折。
母親は名を出したくない。
ミコの紙札。
三角穴。
四角穴。
裂いた繊維。
「名前」と助手が聞きかける。
サナが止める。
「呼び印」
「白い鳥」母親。
「本人が決めた?」
「今、話せない」
「医療代理で仮。意識が戻ったら本人へ」
「名前なしで治すの」
「骨は名前を要求しない」
「後で誰だか」
「紙繊維と傷の記録。公開は本人の選択」
「逃げた人だったら」
「今は患者」
サナは子供の脚を診る。
魔法は使わない。
出血は少ない。
固定で足りる。
三十秒を、劇的な場面のために浪費しない。
「痛い?」
子供が頷く。
「八までで、いくつ」
ミラの尺度が移った。
子供は指を四本出す。
「四。固定すると一度六になる。その後三へ下がる見込み。やる?」
頷く。
「声で言える?」
「やる」
「受領」
治療が始まる。
病院列車が機能し始めた時、中央から新しい牽引力が来た。
強い。
今までの自動避難より、さらに強い。
王家規格の赤い命令光が、切れた通信線の代わりに鎖そのものを走る。
「何」ハル。
イヴァが立ち上がる。
五分は終わっていない。
サナが睨む。
「座れ」
「命令光」
「見れば分かる」
「中央王命の上書き規格」
「誰の」
「王家」
「カイル?」
「違う。王太子個人の印ではない。中央王府の継承印」
赤い光が、病院列車の停止標を一つずつ塗り替える。
岩礁。
外島。
保留。
すべての上へ。
『中央第一避難圏』
病院前車の車輪が回る。
まだ患者を治療している。
「停止!」サナ。
「私の印では止まらない」とイヴァ。
「王命なら人の骨を待たないのか!」
「待たない設計」
サナは子供の脚を抱えたまま、床へ膝をつく。
「選べる状態へ戻すまで、動かすな!」
赤い光は答えない。
列車が岩礁から離れる。
その時、外周の鎖が一本、切れた。
病院前車と、工場発電車の間。
青い電力線が弧を描く。
病院列車は切れた鎖の中央側。
発電車と外島は反対側。
距離が一気に広がる。
電力線が千切れた。
車内の灯りが落ちる。
人工呼吸器が、予備へ切り替わる音。
三十八分。
今度は、本当に三十八分だった。