第489話 第五章「投票の時間がない」前編

王命は、王が口にした言葉ではない。

 少なくとも、王国が大きくなった後はそうだった。

 王が朝食の席で「今日は雨だ」と言っても、空へ雨を降らせる法的効力はない。

 だが王府の書記が規格印を押し、継承鎖へ流せば、王が眠っていても、遠い駅の線路は切り替わる。

 言葉が権力になる時、話者は人間から制度へ変わる。

 制度になった言葉は、疲れない。

 肋骨も痛まない。

 迷わない。

 後悔しない。

 だから速い。

 そして、速いものほど、誰が責任を負うか見えにくい。

「俺は出していない」

 カイル・アークレイは、法廷車の命令板を見た。

 赤い王家規格光。

『中央第一避難圏へ全車両を集約せよ』

『地方停止標を解除せよ』

『応答不能地域は緊急同意と扱う』

『違反車は王国交通法上の妨害車両とする』

 文字は短い。

 短い命令は、読む時間を奪わない。

 考える時間を奪う。

「王家継承印は本物です」とセレナ。

 彼女は右手首を固定帯へ入れ、左手で六角単眼鏡を支えている。

「発令者」

「中央王府緊急運行室。個人名なし」

「父上の直筆」

「ありません」

「王の承認記録」

「現時点で照会不能」

「なら無効」

「無効とは断定できません」

「俺が王太子でも?」

「王太子だから法が短くなるなら、法ではなく家族会議です」

「友人として少し柔らかく言えないか」

「右手が痛いので余裕がありません」

「それ、俺のせいじゃない」

「王家の列車で負傷しました」

「半分くらい俺のせいだな」

「責任を割引しないでください」

 カイルは左拳で右の盾型籠手を二度叩く。

 考える時の癖。

 かつ。

 かつ。

 右肋部の古傷が、列車の振動へ遅れて痛む。

 背中も硬い。

 左膝は長時間立つと熱を持つ。

 王太子の身体は、王命ほど速くない。

「病院列車、通信」

「切断後、細い医療線だけ」テト。

「つなげ」

「命令?」

「要請だ」

「誰へ」

「サナへ」

「何を聞く」

 カイルは止まる。

 以前なら「状況を報告せよ」と言った。

 状況という巨大な言葉へ、現場の人間が必要な情報を詰めると思っていた。

「残り電力。待てない患者数。動かせない機能。本人希望。医療上の代理判断。撤退条件」

「長い」テト。

「必要だ」セレナ。

「送ります」

 返答は、途切れながら届く。

『予備電力、三十五分』

『人工呼吸三、重力補助二、保温四』

『今動かすと危険、四名』

『本人希望、中央五、東四、現在地二、保留三。重複あり』

『病院として残すことを希望する職員、十一』

『発電車は断線の外側。自由港救難艇から小型電池搬送可能、到着最短二十二分』

『王命牽引が継続すれば、岩礁から外れるまで七分』

「七分」とカイル。

「全域投票を待てない」と中央王府代理が言う。

 走る法廷の審理後も法廷車へ残った政府代理人である。

 彼は王命を支持する職務と、法廷車へ残る個人希望を分けた。

 人間として矛盾したまま、制度としては滑らかに話す。

「病院列車だけではありません。全鎖同時断線災害です。各地域へ投票を求めれば、その間に落ちる」

「だから中央が決める?」ハルの通信。

 運行車から細い声。

「判断能力のある機関が、救命上の選択肢を絞ります」

「絞った後、誰が選ぶ」

「時間があれば本人」

「なければ」

「緊急代行」

「誰」

「中央」

「最初から中央じゃん」

「言葉を一周させたな」とカイル。

「制度説明です」

「説明が円なら、出口はどこだ」

 政府代理人は答えない。

 カイルは、王盾炎を小さく出した。

 法廷車全体を包まない。

 命令板の周り。

 書記台。

 通信炉。

 セレナの右側。

「なぜ盾を」セレナ。

「次の重力変動で記録を守る」

「私を含めましたね」

「人が先」

「記録の方が近い」

「位置の問題だ」

「言い訳が王族」

「友人として柔らかく言え」

「右手が」

「もう聞いた」

 赤い炎が薄い板になり、通信台を固定する。

 全体を守らないことは、見捨てることではない。

 守れる範囲を明示することだ。

 カイルは、その考えを権力にも当てる必要があると思った。

 使える権限を全部使えば、速い。

 だが、どこまで使ったか見えなくなる。

「期限付き非常権限を使う」

 車内が静かになる。

 セレナが単眼鏡を上げる。

「範囲」

「中央王命を撤回する権限ではない。救命上、待てない事態だけ」

「具体化」

「病院列車の王命牽引を十五分停止。切れた鎖の両側へ物資渡しを許可。各車両の選択肢を、安全上実行可能な三つ以下へ絞る担当を指名する」

「誰が選択肢を絞る」

「医療はサナ。経路はエリア。構造はロロ。運行間隔はイヴァとテト。ただしイヴァが医療上外れた時間はテトと地域代表。法的許容範囲はセレナ」

「最終選択」

「本人、または本人が指定した代表。身体的に待てない場合のみ医療代理。返答不能を同意としない」

「終了時刻」

「今から十五分」

「延長」

「一度だけ、監査者の承認で十分快」

「監査者」

「セレナ」

「利害関係」

「王国星律官として俺と王府の両方を監査。完全な独立でない限界も公開」

「異議先」

「法廷車公開席。通信断地域は、受信後一刻以内に遡及異議」

「撤回条件」

「中央王命の個人発令者、収容機能、地域別損失、切断対象、失効時刻が確認できた時。あるいは俺が意識を失った時」

「意識を失ったら自動延長ではなく終了?」政府代理人。

「俺が倒れるほど便利になる権限は作らない」

 セレナは口述する。

 書記が左側から紙へ写す。

「名称」

「期限付きの非常権限〈レッド・キー〉

 王家には、古くから赤い鍵があった。

 戦争、疫病、空域崩落。

 平時の手続きを待てない時、王が使う。

 かつては、終了条件を持たなかった。

 終わった戦争の非常権限が、税として二百年残ったこともある。

 疫病が消えた後も、検問だけが身分制度になったこともある。

 歴史が教えるのは、非常時の権限が必要ないという清潔な理想ではない。

 必要な権限は、期限を持たなければ平時の所有物になる、という汚れた現実だった。

「発動」とカイル。

 左拳を右籠手へ二度。

 王盾炎の中央へ、小さな赤い鍵穴が開く。

「時刻」

「第四雷刻、十一分」テト。

「終了、二十六分」

「公開」セレナ。

 赤い文字が全線へ流れる。

 最初の異議は、病院列車から来た。

『十五分で何を決める』サナ。

「決める範囲を狭くする」カイル。

『患者の行き先は十五分で決めない』

「病院列車をどこへ止めれば、患者が後で選べるか」

『中間岩礁』

「安全条件」

『重力固定炉が二刻。発電車から小型電池二十二分。救難艇二隻。火災なし。王命牽引停止』

「本人選択」

『中央希望者は、小型艇が来てから再確認。東希望者も同じ。保留者は車内』

「承認」

『王太子が?』

「違う。俺は王命牽引を止めるだけ。医療案はサナ、経路はエリア、乗るかは本人」

『少しは学んだ』

「授業料は」ミラの声。

『高い』

「請求書、送る」

「今そこにいるのか!」

『病院へ電池を運んでる。王家半額』

「発動中の権限で全額出す」

『権限を買われたくない』

「救命費用だ」

『後から監査』

「書け、セレナ」

「すでに」