第521話 第九章「公開されていない傷」前編
人は、自分の傷を所有していると思っている。
どこで負ったか。
誰に見せるか。
どんな言葉で説明するか。
もう治ったことにするか、まだ痛むと言うか。
しかし一度、治療記録へ書かれた傷は、本人の身体を離れ、制度の中で別の生き方を始める。
医師には治療歴になる。
保険には危険率になる。
学校には配慮条件になる。
軍には配置制限になる。
警察には識別点になる。
夢灯網にとっては、物語を本物らしくする材料になった。
公開されていない傷は、秘密だったのではない。
公開しないという約束の下で、必要な人へ預けられていた。
預けられたものを、使えるものと数えた時、治療は監視へ近づく。
「予測を完成させる?」
エリアの声は、紙輿の中でも低く明瞭だった。
上段七。
白い防刃紙の四角い箱。
底板は固定され、側面の淡緑窓だけが外へ開いている。
外側の死角に、ベレト・カーム。
彼は白い袖をまくっていた。
右袖が短く、左袖が長い。
左手に保守鍵。
右手に配信札。
「完成ではありません」とベレト。
「今、そう言った」ハル。
屋根の上。
保安矢に囲まれ、両手を見える位置へ上げている。
救難小刀は屋根へ置いた。
赤いマフラーは腰。
「予測の検証です」
「言い換えで人の扱いは変わる」とエリア。
「刺されれば同じです」
上陸直後、ユーディが使った言葉。
同じ定義が、別の人間の口から出る。
「だから刺されないようにする」とハル。
「あなたが?」
「俺が」
「夢では、あなたが刺す」
「夢は左手。俺は右利き」
「両手は使える」
「使えることと、使うことは違う」
「危機下では変わる」
「変わるかもしれないを、変わるへ書くな」
ベレトの配信札が光る。
『予測犯行者、抵抗』
ハルが言葉を返すたび、灯網は抵抗として記録する。
「喋るな」と保安員。
「喋らなくても、沈黙が犯意へ分類される」とセレナ。
彼女は階段下から拡声札を上げる。
「灯網の犯意分類を、法的根拠として使用することを禁止します」
「星律官に予測運用の停止権限はありません」ベレト。
「法的証拠から外す権限はある」
「市民保護の参考情報です」
「参考情報が拘束、移送、道路閉鎖、役割配置を決めている」
「決めていません。提案しています」
「『必須』へ変更した記録がある」
ベレトのまぶたが、一度だけ狭くなる。
「混乱を避けるためです」
「アサ・ノーンの反対を消した」
「反対は保存領域不足で欠落した」
「他の賛成発言は残っている」
「音量が」
「都合よく小さかった?」
「夢内記録には誤差があります」
「誤差を確実と表示した」
セレナの声は低い。
怒鳴らない。
証拠を一段ずつ置く。
ベレトはハルを見ない。
エリアを見ない。
配信札の数字を見る。
八十二。
「今、あなた方が配置を崩せば、予測不能が増えます」
「だから?」エリア。
「殺人を防げなくなる」
「殺人を防ぐため、殺人の位置へ私を固定するの?」
「保護壁の中です」
「出口は一つ」
「管理しやすい」
「襲う側にも」
その一言で、ベレトの目が淡緑窓から外れた。
ノクスが低く鳴く。
匂い。
恐怖。
塗料。
蒼苦葉。
破約臭はない。
ベレトは「必ず守る」と約束していない。
彼は確率を上げるために動いている。
自分の中では、守ることと予測を正しくすることが同じなのかもしれない。
「紙輿を開けて」とユーディ。
「局長権限は競合中です」
「予測保全官として解除を」
「今はできません」
「できないか、しないか」
ベレトは答えない。
「それを記録」とセレナ。
ロロの停止索が、紙輿の底へ届いた。
「一、二、三――四本固定。全部、保守鍵から後付け」
「切れる?」ハル。
「切れば紙輿が落ちる」
「受ける」カイル。
「盾で受けると、上段七へ人が集まる!」
「分割」
「狭い。三面出す余裕ねえ」
「一面で滑らせる」
「誰へ」
下には群衆。
安全な落下先がない。
「私が内側で軽くする」とエリア。
「何を」ロロ。
「紙輿の壁を槍で分割。底板を小さく」
「防刃紙は、突くほど繊維が締まる」
「切線を地図で」
「呼吸二・七」メイ。
「今は二」
「休んで下がっただけ。術を使えば戻る」
「使います」
「終了条件を」
「呼吸三」
「胸痛」
「一」
「眩暈」
「出た時点」
「本人だけで判定しない。返答遅延二秒で外部停止」
「同意」
エリアは紙輿内部で地図槍を開く。
防刃紙の繊維方向。
後付け固定棒。
灯糸の張力。
白い壁へ淡緑の線。
夢の白へ、別の色が入る。
「ハル」
「いる」
「右上の灯糸を切らないで」
「切らない」
「左下も」
「切らない」
「中央二本を、ロロの合図で」
「小刀、置いた」
「保安員へ返却を求めて」
ハルは両手を上げたまま、屋根へ置いた小刀を見る。
保安員の一人。
「渡せない。予測犯行者へ刃物を」
「刃物を持たせる夢を完成させたいなら、渡さない方がいい?」ハル。
「詭弁だ」
「そう。だから、君が切って」
「俺が?」
「紙輿を落とさないため。右上と左下は残す。中央二本だけ」
保安員はベレトを見る。
命令を待つ。
「あなたが決めて」とカイル。
「殿下」
「王命じゃない。現場で見えてる条件を言え」
「切れば被害予測対象が移動する」
「移動すると危険?」
「予測外」
「予測外と危険は同じか」
保安員が息を吐く。
「同じではない」
小刀を拾う。
屋根へ上がる。
「中央二本」
「名前」ハル。
「なぜ」
「君が決めたと記録する」
「責任を」
「一人へ積まないため、参加者を残す」セレナ。
「ラト・シム」
「ラト。切る?」
「切る」
本人の言葉。
一本。
二本。
紙輿が傾く。
カイルの盾が薄く開き、壁ではなく斜面になる。
「今!」ロロ。
停止索が底板を引く。
エリアが内側から槍を走らせる。
防刃紙は正面からの刃を止める。
繊維と繊維の間へ、地図どおりの浅い切線を入れれば、面ではなく帯へ分かれる。
白い箱が、四本の紙帯へほどけた。
エリアが外へ出る。
上段七ではない。
盾面を滑り、上段五へ。
夢の位置から二段ずれる。
配信灯の数字が八十二から七十七へ落ちた。
ベレトが初めて、明確に顔を歪めた。
「なぜ下げる」
「下がったのは灯網です」とセレナ。
「あなた方が、予測を壊した」
「それが目的」ハル。
「予測が壊れれば、次の危険を読めない!」
「壊れない予測は、未来じゃなく命令だ」
ベレトは保守壁へ入った。
逃走か。
点検か。
別の手段へ移ったか。
断定しない。
「追う」とカイル。
「二人まで」とセレナ。「現場保全、群衆救難、エリアの診療を残す」
「ハル」
「俺?」
「左肩四。追跡不適」メイ。
「三に下がった」
「冷却中の数を行動許可に使うな」
「じゃカイルと」
「私」とセレナ。
「眼」
「再生はしない」
「手首」
「筆記をロロへ渡す」
「俺、追わねえぞ!」
「記録だけ」
「字が汚い」
「時刻と物だけでいい」
「感情は」
「記録しなくていい」
「助かる」
カイルとセレナが保守壁へ。
ハルは残る。
残ることを、置いていかれることと同じにしない。
エリアが上段五で膝をつく。
メイが呼吸を数える。
「三」
「終了」
「地図を」
「ロロ」
「俺に渡すな!」
「現在位置と、閉鎖路だけ」
「一層なら」
エリアは地図槍をロロへ渡す。
手を離す。
自分が持たなければ消える地図ではない。
「ハル」
「いる」
「肩」
「三」
「虚偽」
「三・五」
「正確」
互いに、相手の痛みを勝手に軽くしない。
夢は二人を、刺す者と刺される者へ簡単にした。
現実の二人は、呼吸と肩の数字を交換する。
それだけで役割から少し外れる。
保守壁の向こうは、細い縦坑だった。
カイルが先に入る。
「王子が先行するな」とセレナ。
「お前が言う?」
「私は追跡担当」
「俺も」
「あなたは盾」
「役割で人を固定する事件だったか?」
「状況に応じた得意分担です」
「言い方が賢い」
「事実です」
縦坑の壁へ、夢灯の保守線。
紙筒の中を光が走る。
ベレトの足音。
上。
カイルが壁の踏み具へ左手を掛ける。
右腕の古傷が引き、盾の展開は小さい。
「無理なら」
「右腕二。背中一」
「登攀」
「左主体なら可」
「王家の矯正教育が役立ちませんね」
「左利きを右へ直した教育が、左で登る時だけ役立たない。歴史的皮肉だな」
上から紙刃が落ちる。
セレナが長剣で払う。
「攻撃」
「殺意あり?」
「紙刃は保守用切断具。落下角度は意図的だが、目的は通路封鎖の可能性」
「俺たちに当たったら」
「負傷します」
「その事実で十分!」
カイルが小盾を開く。
紙刃を受けず、壁へ反らす。
刃が保守線を一本切った。
灯網の映像が瞬く。
白階段。
橙灯籠。
左手。
別の映像が、一瞬挟まる。
炎。
眠る少女。
崩れる紙家。
ベレトの記憶か。
「見た?」カイル。
「記録しない」セレナ。
「なぜ」
「出所不明の夢断片。本人の記憶と断定できない」
「でも」
「同情の材料にも、罪の証明にも使わない」
上で足音が止まる。
扉。
閉じる音。
医療記録庫は、白階段の真裏にあった。
人が傷つく場所の近くへ、治療記録がある。
合理的な配置だった。
救急時に速く参照できる。
合理性は、権限を持つ者にも速い。
ベレトは記録庫の中央に立っていた。
紙灯籠が無数に浮く。
中には、患者の夢、痛覚図、身体輪郭、服薬歴、退出希望。
「近づかないでください」
「その手を止めろ」とカイル。
「何をしている」セレナ。
「予測精度を確認」
「アサの記録を使った?」
「緊急保安権限で参照した」
「参照目的」
「犯行者の身体識別」
「犯行者はハルと表示されていた」
「夢の手は別人の特徴を含んでいた」
「だからアサを容疑者に?」
「違います。モデルは、実行可能性の高い手を選ぶ」
「本人の許可なく、傷を役へ使った」
「傷は識別点です」
「本人の身体です」
「記録された時点で、医療情報です」
「情報になったから身体ではなくなる?」
「治療に必要な利用は認められている」
「殺人映像の生成は治療か」
ベレトは答えない。
紙灯籠へ手を入れる。
アサの右掌を鏡面反転した左手。
ハルの赤いマフラー。
エリアの声。
市販の星穴刃。
材料が別々に浮く。
夢の犯人は、一人の人間ではない。
アサの実傷は右掌にある。配信画角へ収める時、手すりの鏡板を基準に像が左右反転され、夢では左手の傷として配置された。反転は未来の神秘ではなく、編集上の都合だった。
都市が持つ情報を縫い合わせた役だった。
「これが予測の原本」とベレト。
「原本ではない」セレナ。
「最初に生成された像です」
「入力を編集した時点で、原本と呼ぶ範囲が変わる」
「言葉遊びで危険は消えない」
「定義を曖昧にして権限を広げた人間へ、定義を返している」
カイルが紙灯籠を見る。
少女の火災夢が、一つ混じっている。
「妹?」
ベレトの右手が止まる。
「それを証拠にしないと言ったはず」とセレナ。
「聞いただけ」
「答える必要はありません」と彼女はベレトへ。
敵対者にも、記憶の非公開を認める。
ベレトは笑わない。
「妹は、十二年前に死にました」
自分から言う。
「火災予測は三十六パーセント。市は低いと判断し、避難させなかった」
「だから数字を高く見せる?」カイル。
「三十六で死ぬ人には、三十六は百です」
「死なない六十四には」
「避難の負担だけ」
「負担だけ、じゃない」
「死より軽い」
「いつも?」
「いつも」
「誰にとって」
ベレトは灯籠を強く握る。
「死ぬ人にとって」
「その人を先に知っているのか」
「予測する」
「予測が、配置で死ぬ人を作ったら」
「作っていない」
「今、作っている」
カイルの声から冗談が消える。
王家は歴史上、同じ言葉を何度も使った。
少数を救うため。
多数を守るため。
死より軽いから。
比較は必要である。
しかし比較の表へ載らない損失を、「軽い」と呼んではならない。
「ベレト」とセレナ。
「予測像へ、アサの傷を入れた操作記録を提出してください」
「自動です」
「抽出候補を固定した人間」
「モデルが」
「あなたの署名で、ハルの公開像、エリアの保護情報、アサの医療記録を同じ事件枠へ結合している」
黒い証拠札。
アクセス時刻。
零時九分。
最初の全市配信より四分前。
「未来を見た後ではない」とセレナ。
「夢を生成する前に、役者を選んだ」
ベレトの顔から、言い逃れが一枚落ちる。
まだ全部ではない。
「警告映像には、理解しやすい役が必要だった」
「ハルを犯人にした理由」
「外部者。赤い識別色。空間移動能力。公女との同行記録。市民が覚えやすい」
「覚えやすい人を犯人にした」
「犯人と断定していない」
「配信には名前が出た」
「危機局が」
「あなたの分類札を使った」
「私は、予測の遵守率を上げただけです」
「だけ」
セレナの語尾が、わずかに柔らかくなる。
証拠を訂正する時の声。
「訂正します。あなたは、遵守率を上げるため、医療情報から手を選び、外部者の記号を重ね、被害対象の声を使い、確率を確実と表示させ、回避案で舞台を作った」
「殺していない」
「まだ」
「殺すつもりはない」
「では、紙輿をなぜ上段七へ固定した」
「予測条件を維持すれば、実行者の動きを限定できる」
「実行者は誰」
「まだ分からない」
「分からない犯人のために、分かっている被害者を檻へ入れた」
ベレトは黙る。
紙灯籠の一つが、彼の手の中で破れる。
医療記録の光が漏れる。