第522話 第九章「公開されていない傷」後編
記録庫の床が傾いた。
破れた灯籠は、夢灯網へ「患者急変」と誤信号を送った。
医療棚が自動で移動する。
最短の治療者へ記録を運ぶため、千の紙棚が中央へ滑る。
「退避!」セレナ。
棚と棚が噛み合い、床が紙の歯車になる。
カイルが盾を出す。
今度は見せていい。
記録庫の中に市民はいない。
「ベレト、右!」
彼を守る。
敵対者でも、証拠と一緒に潰さない。
盾面が二つの棚を分ける。
紙は軽い。
千束になれば、石より重い。
「出口!」
「一つ」とベレト。
「医療庫まで一つか!」
「記録漏洩を防ぐため」
「危機で毎回、一つの出口が問題になるな!」
カイルは盾を壁へ当てる。
「破る?」セレナ。
「法的には」
「人命優先。記録流出防止のため、破口を盾面で封鎖。終了後修復」
「了解」
王盾炎が壁を焼き切る。
外は白階段の裏。
カイルはセレナを先に出す。
「ベレト」
「私は」
「来い」
「拘束するのか」
「今は救助する。外で聞く」
「逃げるかもしれない」
「逃げたら追う」
「信じる?」
「信じない。選択肢を残す」
ベレトが外へ出る。
最後にカイル。
盾が破口を塞ぐ。
内部で紙棚が崩れる音。
セレナは右手を使わず、左で簡易拘束札を出す。
「ベレト・カーム。医療記録の目的外利用、予測情報の不当表示、緊急避難命令の改変について、任意同行を求めます」
「任意」
「拒否できます」
「拒否したら」
「逃亡、証拠改変、再発危険を個別に審査し、必要なら強制拘束」
「最初から拘束すればいい」
「あなたと同じ方法を使わない」
ベレトは白階段を見下ろす。
群衆。
エリア。
ハル。
アサ。
自分が作った役割が、まだ舞台にいる。
「同行します」
彼は言った。
だが、配信札をセレナへ渡す直前、指先が一度動いた。
小さな送信。
ロロの声が伝話へ響く。
『夢灯網、最終予測を固定した! 自動実行へ入る!』
「何を送った!」カイル。
「予測条件の保存」
「取り消せ!」
「私の権限では、もう止められない」
できないか、しないか。
今度は、システム上できない。
自分で、できない状態へ移した。
「実行内容」とセレナ。
「白階段の全役割を、夢像へ同期する」
「凶器は」
「保安員の装備から、最も近い形を選ぶ」
アサが十二段目にいる。
保安員の短刃。
夢の手の傷。
ハルの記号。
役割は、誰の身体にも移せる。
「アサを下げる!」ハル。
アサが伝話へ返す。
『待って』
「危ない!」
『だから、私が決める』
「何を」
『位置に入る。でも、刃を持たない。出口札を三つ置く。手を見えるようにする。私を犯人にする像を、本人が拒否する』
「それ、囮だ」
『囮は、他人が餌にする言葉。私は証人になる』
ハルは反論する。
言葉が出ない。
自分が守るためにアサを引きずり出せば、危険を理由に本人の選択を消す。
「条件」
やっと言う。
『杖を倒したら退出。ソムナの出口線。セレナの記録。刃物は周囲五段から除く。保安員ラトが手を空にする』
「俺は」
『上段へ来ない』
「でも」
『あなたの記号を使うなら、記号を別の場所へ置いて』
赤いマフラー。
ハルは腰から外す。
「どこ」
エリアが答える。
『私へ渡して』
「君が持つと夢に」
『夢では、あなたが身につけています。私が持つ』
「それで未知動作」
『一つでは足りない。何個も入れる』
ハルは赤いマフラーを白索へ結ぶ。
上段五のエリアへ投げる。
彼女は左手で受け取る。
右手には地図槍を持たない。
地図はロロへ預けたまま。
「エリア」
『何』
「手伝って」
『具体的に』
「俺が、夢の俺を信じそうになったら、今の俺の利き手を言って」
一。
二。
三を数えられないまま、頼む。
エリアは赤いマフラーを自分の腰へ巻く。
『あなたは右利き。左手は受け取る手。夢が決めることではありません』
「了解」
作戦の前に、アサの医療記録をどう扱うか決めた。
証拠だから全部見る。
危機だから後回し。
どちらも簡単だった。
簡単な扱いほど、本人を消しやすい。
「傷の頁だけ」とセレナ。
「頁には、前後がある」とアサ。
「必要範囲を本人と確認します」
「私が読んで、該当行を指す」
「改変の疑いが出る」
「医療者が立会う」とメイ。
「ベレト側は、原本を見たと言う」
「だから、同じ侵入を捜査側もする?」アサ。
長い間。
セレナは単眼鏡の縁を一度押す。
「しない。原本全体は封印したまま、アクセス記録、該当行の指紋値、本人提示の傷位置を別々に照合します」
「指紋値」ハル。
「文章を読まず、同じ記録片か確認する符号」
「内容を見ない証拠」
「見ないことを証明する手続です」
アサが右掌を開く。
「触る?」
セレナは聞く。
「見て。触らない」
斜めの傷。
薄い。
夢では、もっと濃く、犯人らしく加工されていた。
メイが定規札を置く。
「長さ一寸一分。起点、親指球下。終点、掌中央手前。古傷。可動制限なし」
「夢像は」とセレナ。
「長さ一寸四分。終点が中央を越える」とハル。
「なぜ覚えている」
「何度も見せられた」
「再生しないで答えられる範囲だけ」
「今の記憶」
セレナは夢像の傷を紙へ写さない。
「原記録を使った上で、見栄えを変えた」
「傷を大きくした」とアサ。
「犯人と認識しやすいように」
「私の傷は、説明のための太字じゃない」
「記録します」
「誰の言葉で」
「あなたの」
セレナはその一文だけを、アサへ見せる。
『本人申告――私の傷は、説明のための太字ではない。』
「残す?」
「残す」
「公開範囲」
「裁判関係者。市民向け要約には『非公開医療情報を視覚的に強調して利用』」
「名前」
「出さない」
「今は」
「今は」
アサが頷く。
ハルは自分の赤いマフラーを見る。
「俺のは公開情報」
「公開している物でも、何へ使ってよいかは無限ではない」とエリア。
「服の色に同意欄はない」
「だから法は、利用目的と害を後から問う」セレナ。
「遅い」
「遅い。だが、ないよりいい」
「夢は先に来る。法は後」
「だから今、作戦で先に条件を置く」
アサは傷のある手を閉じる。
「私は十二段目へ立つ。でも、手は私のまま」
「記録」とセレナ。
「役へ貸さない」
「記録」
「怖くなったら降りる」
「理由を聞く前に道を空ける」
ラトが復唱する。
予言が人へ役を与える前に、本人たちは役から出る方法を決めた。
作戦を決める。
期限。
白階段の役割同期まで十八分。
目的。
予測の人物配置、凶器動線、観客人流を同時に崩す。
禁止。
夢灯網を全停止しない。医療夢、火災警報、覚醒支援を残す。
撤退条件。
群衆圧が三を越えた区域は、謎解きより避難。
エリア呼吸三。
ハル肩四継続。
セレナ左眼光痛二。
ロロ喘鳴二。
アサの杖倒し。
ソムナ記憶欠落一。
役割。
エリア――舞台条件の地図化。ただし地図を自分一人で持たない。
ハル――夢にない身体動作を入れ、凶器動線を切る。刃を持たない。
カイル――群衆救難と盾面による落下防止。犯人捕縛を優先しない。
ロロ――配信、医療、作業命令の回線を分離。全停止しない。
セレナ――予測と現実の差を時刻順に記録。夢を証拠にしない。
ノクス――塗料と保守者の匂いを追う。犯人判定に使わない。
ソムナ――各人へ個別の退出線を縫う。夢内へ結論を示さない。
メイ――身体監視。比喩を許さない。
アサ――十二段目で、予測が借りた傷と役割を本人の言葉で拒否する。
ユーディ――古い鐘と手動旗で複数避難路を維持。自動配信に従わない。
ベレト――拘束下で予測核の操作手順を説明する。
「私も役に入る?」ベレト。
「入る」とセレナ。
「容疑者として?」
「技術者、被疑者、証人。三つを混ぜない」
「協力すれば減刑」
「約束しない」
「何のために」
「これ以上、人が傷つかないため」
「それだけ?」
「司法取引は後。今の救難へ、未来の判決を餌にしない」
ベレトは苦く笑う。
「夢の町で、未来を使わない」
「未来を使う。確定したものとして売らない」
アサが十二段目へ立った。
杖を右へ。
退出札を胸へ。
両手を開く。
右掌の傷が見える。
群衆がざわめく。
「あの手」
「夢の犯人」
「ハルじゃない?」
「二人いた?」
アサは拡声灯を受け取る。
声の間が長い。
待てない群衆が、空白へ疑いを入れ始める。
ソムナは急かさない。
ハルも。
アサが話す。
「この傷は、私の傷です」
短い。
「灯網へ、犯人役として貸していません」
夢灯が揺れる。
「治療のため預けました。退出扉で切った傷です。私は、治療をやめて外へ出ました。傷は、殺す未来の証拠ではありません」
右手を下ろさない。
「私は十二段目へ立つことを選びました。途中でやめます。杖が倒れたら、理由を聞く前に道を空けてください」
ラト・シムが周囲の保安員へ短刃を収めさせる。
五段以内、刃物なし。
エリアが上段五。
赤いマフラーを腰へ。
ハルは白階段の正面へ立たない。
灯籠屋根の裏側。
夢の画角から外れる。
配信灯の発生見込みが六十一へ下がる。
しかし、固定予測核が別の表示を重ねた。
『最終予測 九十九パーセント』
内部値ではない。
ベレトが保存した、更新されない数字。
「九十九!」市民が叫ぶ。
「逃げろ!」
人流が再び白階段へ押し寄せる。
「固定表示を消せ!」ユーディ。
「表示層を切ると医療灯が」とロロ。
「分離まで」
「十二分!」
「同期は」
「十五分!」
三分しか余裕がない。
未来はまだ来ていない。
だが人々は、九十九という数字から逃げるため、九十九の舞台へ走り込む。
アサの杖が、群衆の風で一度揺れた。
まだ倒れない。
彼らは自分で立っている。
同時に、白階段の上段裏で、誰も触れていない保守扉が開いた。
細い白い刃が、灯糸に吊られ、夢と同じ高さへ滑り出す。
実行者の手を必要としない凶器。
夢灯網が、予測された殺人を「事故防止装置」として自動実行し始めていた。