第523話 第十章「夢の舞台を壊す」前編

舞台には、物語を起こしやすくする力がある。

 扉が一つなら、入る者と出る者は出会う。

 椅子が二脚なら、二人は向かい合う。

 高い場所へ一人を立たせ、低い場所へ群衆を置けば、演説が始まる。

 刃物を壁へ掛ければ、誰かが取る。

 人間は物語を作る。

 同時に、物の配置から物語を作らされる。

 劇場はそれを利用する。

 法廷も、学校も、宮殿も利用する。

 机の向き、入口の位置、誰の席だけ高いか。

 夢灯網が作った殺人予測は、未来を覗く窓ではなかった。

 人を配置し、道具を置き、役を割り当てる舞台設計図だった。

 ならば、犯人を捕まえる前に、舞台を壊さなければならない。

 ただし、舞台の上には町がある。

 壊すとは、爆破することではない。

 別の物語を始められる配置へ、現実を選び直すことである。

 細い白い刃が、灯糸を滑った。

 上段裏から。

 下段へ。

 夢の中で、刃は左手に握られていた。

 現実では誰も握っていない。

「線!」エリア。

 上段五から叫ぶ。

 刃を吊るす灯糸は三本。

 主索一本。

 方向索二本。

 主索を切れば、刃は落ちる。

 下に群衆。

 方向索だけを切れば、回転しながら紙壁へ刺さる可能性。

「受ける!」カイル。

「盾を見せると人が寄る!」ユーディ。

「見せない盾は作れない!」

「場所を先に空ける!」

 ユーディが古鐘を鳴らす。

 二短、一長。

 中央階段から離れろ。

 自動配信灯は逆を言う。

『白階段中央へ避難してください』

 鐘と灯。

 人間と網。

 二つの指示が同時に町を引く。

「どっち!」市民。

「鐘!」

「灯網!」

「九十九パーセント!」

「固定表示です!」セレナ。「現在値ではありません!」

「現在値は!」

「五十八!」ロロ。

「どっちが本当!」

「両方、違う意味!」

 数字は同じ単位へ見えて、別のものを表している。

 九十九は、ベレトが保存した最終予測表示。

 五十八は、現在配置から算出した発生見込み。

 しかし群衆にとって、説明に三十秒かかる数字は、三秒で叫ばれる数字に負ける。

「表示を落とす!」ロロ。

 白階段下の操作柱へ飛びつく。

 四本の補助腕。

 一本は配信層。

 一本は医療層。

 一本は作業命令層。

 一本は予測核。

「混線してる! 誰だ、配信と医療を同じ束へしたの!」

「百年前の設計」とユーディ。

「死んでる奴に請求できねえ!」

「都市へ」

「都市は値切る!」

「私が承認する!」

「局長、好き!」

「作業上の感謝だけにして!」

 ロロの右眼が細くなる。

 長い光を見続けられない。

 ゴーグルの左レンズだけを下ろす。

「分離に十!」

「さっき十二」とハル。

「二分、作業した!」

「数字が減るの、安心する」

「お前の肩は増やすな!」

 ソムナは夢療室から、白階段へ十二本の出口線を縫っていた。

 一人一つ。

 アサ。

 エリア。

 ハル。

 ラト。

 ユーディ。

 カイル。

 ロロ。

 セレナ。

 保安班二。

 群衆代表二。

 全員が同じ夢へ引かれていても、同じ出口へ戻す必要はない。

「出口線、見える?」

 ソムナの声が伝話へ入る。

「橙、足元」とアサ。

「淡い」とエリア。

「俺、屋根だから下にある」とハル。

「位置を上げる」

「記憶」メイ。

「確認表、読める」

「自分の記憶」

「苺の数は、札で三」

「分からない時は」

「分からない」

「続行、あと五分」

「短い」ハル。

「案内人の身体が期限」

「夢の期限じゃない」

「現実の期限が先」

 ソムナは苦い種を噛んでいる。

 声の奥で、硬い殻が割れる音。

 まだ本音ではない。

 怖さを隠している。

 夢へ出口を作るほど、彼は目覚めた後の記憶を失う。

 今回、失うかもしれないもの。

 スープの味。

 ハルのマフラー。

 アサの合図。

 自分が何を守ろうとしたか。

「ソムナ」とアサ。

「いる」

「私の出口、消してもいい」

「だめ」

「他へ回す」

「出口は分けられる。奪わない」

「記憶が」

「私の費用」

「説明して同意したら、損じゃないことにならない」

 ハルが言った言葉を、アサが返す。

 ソムナは種を噛む。

 噛まない。

 口から出し、紙へ包む。

「怖い」

 本音。

「忘れたくない」

「終了する?」メイ。

「あと三本」

「終了条件は一項目欠落」

「まだ確認できる」

「三本後、強制終了」

「うん」

 治療者が、案内人の自己犠牲を美談へしない。

 刃が動き始めた瞬間、白階段にいる人々の一部が同じ夢へ引き戻された。

 目は開いている。

 足も動く。

 しかし見えているのは、明日の殺人。

「ハルが!」

 群衆の一人が、屋根上のハルを指す。

「左手に刃!」

 現実のハルは両手を上げている。

 夢の像だけが、現実の身体へ重なる。

「今、何を触っている!」ソムナの声。

 出口線だけでは足りない。

 現在へ戻る質問。

「手すり!」

「子供の服!」

「自分の靴!」

「誰かの肩!」

「許可なく肩を掴んでいる人は、離すか聞いて!」メイ。

「今それ?」

「今だから!」

 恐怖の中で、身体は他人を支えにも拘束にもする。

「離す?」

「待って、まだ!」

「腰を持って!」

「手は嫌!」

 夢の映像の下で、現実の同意が短く交わされる。

 エリアは紙輿の中から聞く。

 夢では、自分は声を失っていた。

 現実では、町じゅうの声がある。

「白階段上段、被害対象本人です」

 拡声灯へ。

「私はまだ刺されていません。ハルは刃を持っていません。夢像と現実を同じ画面にしないでください」

「本人が否定しているだけだ!」と誰か。

「そうです。本人の否定です。万能な証拠ではない。でも、本人の声を夢の声より軽くしないで」

 予測灯が一瞬、エリアの発言を『被害者混乱』へ分類する。

「分類を止めろ!」ユーディ。

「自動です!」

「自動という名前の誰かが、設定した!」

 危機局長が操作卓へ拳を下ろす。

 紙面を叩く三回ではない。

「本人発言を病理化する欄を閉じる!」

 権限競合。

 赤い警告。

 それでもユーディは、停止申請へ自分の名を書く。

 後で拒否されても、誰が止めようとしたかを残すため。

 白階段の下で、一人の少年が動けなくなっていた。

 夢では、倒れる影の場所。

 自分が死ぬと思い込み、膝を抱えている。

 ハルは屋根から声を投げる。

「名前!」

「言えない!」

「じゃ、靴の色!」

「青!」

「触ってる物!」

「階段!」

「冷たい?」

「冷たい!」

「夢には温度がなかった! 今は冷たい!」

 少年の目が、白い階段へ戻る。

「立てる?」

「分からない」

「分からないままで、右へ転がれる?」

「転がる?」

「格好は悪い!」

「嫌!」

「じゃ座ったまま、尻で二段!」

「もっと嫌!」

「選べる!」

 少年が笑い、泣く。

 尻で一段下がる。

 夢の影の位置から外れる。

 予測値が一つ落ちる。

 人一人の格好悪い移動が、未来の確率を変えた。

 舞台を壊すのは、英雄の一撃だけではない。

 夢が用意しなかった、みっともなく具体的な身体の選択だった。

 白い刃が上段四へ。

 エリアまで一段。

「私が下がる」と彼女。

「下がる先!」ハル。

「上段三」

「刃の延長線!」

「では横」

「壁!」

 白階段は、夢像へ近づける改装で逃げ幅を失っている。

 防刃壁。

 灯籠柱。

 保安索。

 守るための設備が、横移動を塞ぐ。

「紙壁を開ける!」ロロ。

「配信分離中!」

「補助腕一本!」

「四本全部使ってる!」

「口!」ハル。

「俺に壁を食えって?」

「工具を投げて!」

「落としたら請求!」

 ロロは歯で小型穿孔輪を咥え、上段へ投げる。

 ハルが右手で受ける。

 左手は使わない。

「エリア!」

「壁の繊維、縦!」

「穴の位置!」

 淡緑の点が白壁へ出る。

 ハルは屋根から白索を振る。

 穿孔輪を点へ当てる。

 回転。

 紙壁に穴。

 エリアが地図槍を持っていない。

 ロロへ預けたまま。

 代わりに白い日傘の柄だけ。

 柄を穴へ差し込み、身体を横へ引く。

 踵へ負荷。

「踵」メイ。

「二」

「呼吸」

「二・五」

「三で終了」

「分かっています」

 刃が上段五へ到達する。

 さっきまでエリアがいた位置を通る。

 夢と違う。

 配信値、五十一。

 しかし刃は止まらない。

 予測は外れ始めても、物理は惰性で進む。

 真相を解いたからといって、飛んでくる刃は消えない。

「主索、天井!」エリア。

「切れば落下!」

「落下先を作る!」

 カイルが群衆の中央へ踏み込む。

「ここを空ける!」

「王命?」

「救難協力のお願いだ! 拒否するなら、拒否したまま一歩横へ!」

「変な頼み!」

「拒否権を残したい!」

 人が動く。

 完全には動かない。

 一人の老人が立ち止まる。

「足が」

 ハルが屋根から白索を下ろす。

「腰へ掛ける?」

「肩は駄目」

「腰」

 本人の返事。

 引く。

 ハルの左肩へ痛み。

 右手だけで巻けない重さ。

「ロロ、巻取!」

「配信、あと八!」

「一本!」

 ロロの補助腕一本が配信束を離れる。

 作業が遅れる。

 老人が早く動く。

 何かを助ければ、別の工程が遅れる。

 無償の万能はない。

「巻く!」

 老人が空いた区画へ。

 カイルの盾が床へ薄く広がる。

 刃の落下受けではなく、滑走路。

「主索切断!」エリア。

 ハルは穿孔輪を索へ投げる。

 届かない。

 左肩を使えば一尺増える。

 使わない。

「ラト!」

 上段二の保安員。

「届く!」

「切る?」

「切る!」

 ラトが短刃を抜く。

 夢の凶器に似た刃。

 群衆がざわめく。

「主索を切る!」ラトが自分で宣言する。「人を刺さない!」

 刃物の意味を、先に言葉で分ける。

 切断。

 白い刃が落ちる。

 カイルの盾面へ。

 滑る。

 横へ。

 紙壁を突き破り、無人の夢渠へ刺さる。

 第一の凶器、排除。

 発生見込み、四十二。

「下がった!」

「終わってない」とセレナ。

 彼女は白い刃の根元を見る。

 星形の穴。

 夢と同じ。

 刃を吊っていた灯糸は、自動装置だけではない。

 途中に人の結び直し。

 左右非対称の指跡。

「ベレトの手袋」

 拘束中のベレトを見る。

 左手袋の人差し指が破れている。

「設置した?」

「保守試験」

「いつ」

「昨夜」

「殺人夢の前」

「安全装置です」

「何を安全にする」

「実行者が現れた時、自動で刃を取り上げる」

「刃そのものが飛んだ」

「方向制御が」

「夢像と同じ軌道へ設定されていた」

「予測に合わせた試験」

「夢の前に?」

 ベレトが黙る。

 セレナは今、追及を続けない。

「証拠保全。取り調べは救難後」

 怒りで順序を壊さない。