第524話 第十章「夢の舞台を壊す」後編

 作業命令層と医療層の境目は、一本の線ではなかった。

 百年前の技師は、同じ灯籠を二つの目的へ使った。

 患者が悪夢で火事を見る。

 医療側は、恐怖反応を記録する。

 都市側は、火災の可能性を警告する。

 作業側は、避難路の灯りを増やす。

 一つの夢から、治療と防災が同時に動く。

 効率が良い。

 人員が少なくて済む。

 救命が速い。

 同じ線を切れば、全部が止まる。

「配信束、青環。医療束、内側の白縫い。作業命令、外側の橙縫い!」ロロ。

「色を言われても分からない!」ラト。

「形! 青環は丸留め、白は二重、橙は返し針三!」

「最初から!」

「今、色が見えない奴に気づいた!」

 テトが遠隔伝話で笑う。

『改善記録へ入れて!』

「他人の空域から請求項目増やすな!」

 ロロは操作柱の腹へ半身を入れる。

 紙の配線が生き物の腸のように脈打つ。

 補助腕一本が、丸留めを押さえる。

 一本が二重縫いを持ち上げる。

 一本が返し針をほどく。

 最後の一本が、本人の吸入器を持っている。

「喘鳴」とメイ。

「一・五」

「吸入」

「両手塞がってる!」

「補助腕は四本」ハル。

「全部塞がってる!」

「俺が」

「触る前に聞け!」

「吸入器、口へ持っていい?」

「角度は俺が言う! 押すな!」

 ハルは右手で吸入器を持つ。

 ロロの口元へ。

「右三度」

「こう」

「下二」

「細かい」

「肺へ入れるんだぞ!」

「押す?」

「今!」

 一噴。

 ロロが息を吸う。

 作業を止めない。

「自分でやるより屈辱」とロロ。

「助けを求めた?」

「工具名を言わず、お前に頼んだ」

 ロロが本当に助けてほしい時の合図。

 ハルは冗談を止める。

「了解」

 吸入器を持ったまま、次の指示を待つ。

「もう一回、二十秒後」

「数える」

「一、二、で止めんなよ」

「君、知ってる?」

「どれだけ一緒に旅してると思ってんだ」

 ハルは三まで数える。

 自分の助けを求める時は言えない三を、他人のためなら言える。

 六。

 九。

 十二。

 二十秒。

「押す?」

「今」

 二噴目。

「喘鳴」メイ。

「一」

「続行、三分。悪化で交代」

「交代要員」

 夢灯都市の技師たちがいる。

 しかし自動網の運用には詳しくても、物理配線を触った経験が少ない。

 夢の中で修理する職員は、現実の紙線へ手を入れる訓練を受けていなかった。

「私が」と若い技師。

「名前」ロロ。

「フィア・レン」

「丸留めと二重縫い、見分け」

「できます」

「返し針三を解く手順」

「夢内では」

「現実で」

「教えて」

「一回だけ。次はお前がやる」

「危機中に教育?」カイル。

「俺が倒れたら終わる設計を、今増やすな!」

 ロロはフィアへ一本の補助腕を譲る。

「ここ、押さえろ。引くな」

「押さえる」

「何が起きても」

「何が起きる」

「分からねえから押さえる!」

 フィアが押さえる。

 ロロは別の線へ。

 作業は一人分遅くなる。

 同時に、一人が倒れても続けられる形へ変わる。

 速さを少し捨て、継続を買う。

 群衆の中では、夢灯網の矢印がまだ白階段を指していた。

 配信灯を見ない人もいる。

 子供へ目隠しをした父親。

 耳栓をした老女。

 灯網の光で発作を起こす患者。

 彼らには、自動指示が届かない。

「聞こえない人は安全?」ハル。

「逆」とユーディ。「周囲が全員同じ方向へ動くため、理由を知らず押される」

 古鐘の手動案内を、音だけにしない。

 鐘守リムが、形の違う大旗を出す。

 丸――その場で待つ。

 三角――右へ分散。

 四角――介助を求める。

 テトの信号方式。

 雷鎖環で生まれた工夫が、夢灯都市へ届く。

「色は要らない?」市民。

「色も使う。形も音も。どれか一つが見えなくても、別で分かる」

「全部違ったら」

「止まって聞く」

「今、止まったら押される」

「周囲三人で止まる場所を作る!」

 カイルが王盾炎を小さな島へ分ける。

 盾は防壁ではなく、立ち止まる場所。

「一枚三人まで! 四人目は隣へ!」

「王家の席?」

「違う! 誰でも使え! 俺が乗っても三人の一人!」

 カイル自身が一枚へ乗る。

 残り二人。

 老女と子供。

 王太子がいるから特別な盾ではない。

 人数上限を自分にも適用する。

「殿下、別の盾へ」と保安員。

「ここ三人。満員」

「あなたが降りれば、介助者が」

「なら俺が介助する。誰を」

 肩書を外さず、肩書だけで席を増やさない。

 舞台の役割は、こうして細かく崩れていく。

「表示層、分離!」ロロ。

 白階段の配信灯が消える。

 一瞬、町が暗くなる。

 人々が息を呑む。

 次に、医療灯だけが点く。

『南診療棚、受入可』

『覚醒困難者、橙三角灯へ』

『火災なし』

 殺人予測の九十九は消えた。

「予測層は」

「動いてる。表示しない。内部監査だけ」

「作業命令」

「まだ夢像へ同期中!」

 町が音を立てる。

 白階段の段そのものが動く。

 可動階段。

 通常は、夢療患者を負担なく上段診療所へ運ぶ設備。

 今は予測役割を正しい位置へ戻すため、段が上下左右へずれる。

 エリアの上段五が、上段七へ移動。

 アサの十二段目が、夢像の十二へ固定。

 ハルの屋根が、下段正面へ折り畳まれる。

「街が配役を戻してる!」ハル。

「作業命令層!」エリア。

「分離あと六!」ロロ。

「六分?」

「六工程!」

「時間で!」

「知らねえ!」

 階段が傾く。

 群衆が滑る。

 カイルは盾を縦へ出さず、段の下へ小面を並べる。

「踏め! 王家の盾じゃなく、ただの足場だ!」

「燃えてる!」

「熱くない! でも嫌なら横の索!」

 選択肢を同時に出す。

 アサの段が上へ動く。

「退出する?」ソムナ。

「まだ」

「杖」

「持ってる」

「足」

「左、震え」

「終了条件へ入る?」メイ。

「まだ立てる」

「立てると続けるは別」

 アサは長く黙る。

 段がさらに動く。

「続ける。二分」

「二分で再確認」

「うん」

 本人が時間を切る。

 永遠の我慢へしない。

 エリアの段が上段七へ入る直前、彼女は赤いマフラーを外した。

「ハル!」

「何!」

「受け取って!」

「夢に戻る!」

「身につけないで!」

 投げる。

 赤い布が白階段を横切る。

 ハルは右手を伸ばす。

 掴まない。

 白索の輪へ通す。

 マフラーは彼の身体ではなく、屋根上の旗になる。

 夢の記号が、人から物へ移る。

 配信されない予測核が混乱する。

 犯行者識別。

 赤い布。

 位置、屋根。

 身体反応なし。

「数字!」

「三十六!」ロロ。

 しかし可動階段は止まらない。

 役割同期が別の方法を選ぶ。

 屋根上の赤い布へ、刃の方向索が向きを変える。

「二本目!」セレナ。

 白階段脇の灯籠十四基。

 それぞれの内部から、細い紙刃が開く。

 凶器は一つではない。

 予測像を成立させるため、最も近い道具が刃へ変換される。

 紙灯籠は本来、夢を入れる。

 今は、殺人の役を入れられた。

「全部切る?」ハル。

「落ちる!」エリア。

「灯籠を外す!」ユーディ。

 十四基。

 群衆上。

 同時。

「一人一基!」カイル。

「十四人、同じ判断は危険!」セレナ。

「条件を分ける!」エリア。

 彼女はロロへ預けた地図槍から、遠隔で十四の点だけを受け取る。

 全部を持たない。

「上段四基は外へ投げる。中央六基は夢渠へ降ろす。下段四基は紙を破り、刃だけ固定!」

「誰が!」

「上段――ラト、ユーディ、保安二!」

「中央――カイル、ロロ補助腕二、ハル、群衆協力二!」

「下段――アサは参加しない。残り保安四!」

 アサを夢の刃役から外す。

「私もできる」とアサ。

「できるかではなく、夢があなたへ刃を持たせようとしているから外す」とエリア。

「本人の選択」

「選んで」

 アサは考える。

「刃を持たない。出口線を守る」

「記録」とセレナ。

 十四の灯籠が開く。

 紙刃。

 白い光。

 上段。

 ユーディが一基を抱え、投げる前に叫ぶ。

「外へ投棄! 下に人なし!」

 保安員二人が確認。

「人なし!」

「投げる!」

 灯籠が夜へ飛ぶ。

 紙が大きな花のように開き、刃だけ夢渠へ落ちる。

 中央。

 カイルが盾で六基の速度を落とす。

「重い!」

「紙だろ!」ハル。

「夢液が入ってる! 人の悪夢は比重が高い!」

「歴史的事実?」

「今、腕で分かる!」

 ロロの補助腕が二基。

「一基、裂け目!」

 夢液が漏れる。

 触れた群衆の目が閉じる。

「覚醒線!」ソムナ。

 橙の出口線を路面へ増やす。

 彼の声が一瞬、途切れる。

「ソムナ?」

「いる」

「確認表」メイ。

「名、日付、スープ、赤……」

 止まる。

「マフラーの色」

「……赤」

「自分の記憶?」

「札」

「欠落二」

「まだ一」

「苺を既に失っている。今、マフラー」

「二」

「終了」

「出口線、あと」

「終了」

 メイが強く言う。

 ソムナは杖を握る。

 苦い種へ手。

 掴まない。

「終了」

 自分で選ぶ。

 夢の出口線は、縫ったところまで残る。

 残りは現実側の人間が守る。

 案内人が全員を連れて帰る誓いをしない。

 中央六基のうち一つが、ハルへ向かう。

 赤いマフラーを結んだ白索。

 予測核は、布を犯人と誤認している。

 灯籠の紙刃が開く。

「ハル、避けて!」

「避けると後ろ!」

 後ろに、夢液で眠った市民二人。

「右へ転がす!」

 ハルは白索を引く。

 左肩に痛み。

 四。

 継続。

 手が痺れる。

「肩四!」

 自分で叫ぶ。

「離せ!」メイ。

「離したら刺さる!」

「別の手段!」

「カイル!」

「盾、六基で埋まってる!」

「ロロ!」

「補助腕全部!」

「エリア!」

 彼女は呼吸三に近い。

 地図を使わせれば危険。

 一、二。

 三を言えない。

「……手伝って!」

 具体的でない。

「何を!」

「俺が離しても、後ろへ行かない道!」

 エリアは目を閉じない。

 白階段。

 灯籠。

 屋根。

 夢渠。

 地図槍はロロの手。

 自分の手元にない。

「ロロ、地図槍を開かないで! 右補助腕の角度を三度下!」

「三度?」

「二・八!」

「最初から!」

「ハル、索を離すと同時に右へ一歩。灯籠はロロの腕へ当たり、夢渠へ落ちる!」

「分かった!」

「肩を使わない!」

「離す!」

「今!」

 ハルが手を開く。

 白索。

 赤い布。

 灯籠。

 予測核が目標を失う。

 灯籠は慣性で直進。

 ロロの補助腕が、二・八度下がる。

 紙灯籠の縁へ当たる。

 回転。

 夢渠へ。

 落ちる。

 後ろの二人は無傷。

 ハルは右へ一歩。

 左肩を抱える。

「成功!」

「請求!」ロロ。

「今?」

「成功を忘れる前に!」

 下段四基。

 保安員が紙を破り、刃だけ固定する。

 一本。

 二本。

 三本。

 四本目が開かない。

 灯籠内部から、別の引き糸。

 上段七の保守扉へ続く。

「ベレトの事前線」とセレナ。

 拘束中の彼を見る。

「何に繋いだ」

「最終安全装置」

「また安全」

「予測犯行者が刃を避けた時、第二動線を封じる」

「誰が第二動線へ入る」

 ベレトは言わない。

 セレナが糸の先を見る。

 上段五。

 エリア。

「被害者側の退路を刃で封じる装置を、安全と呼んだ?」

「犯人を限定するため」

「被害者も限定した」

 四本目の灯籠が、エリアへ向く。

 彼女の呼吸。

「三」とメイ。

「終了!」

 エリアが地図術を止める。

 淡緑線が消える。

 物理位置だけが残る。

「下がる!」

 後ろは防刃壁。

 右は動く階段。

 左は灯籠柱。

 夢の舞台が逃げ道を消している。

 ハルは屋根から飛ぶ。

「肩!」

「腕を使わない!」

 足で灯籠柱を蹴る。

 身体を横へ。

 右手は空。

 左手も空。

 エリアの前へ入らない。

 それをすれば夢の犯人像になる。

 代わりに、二段下へ着地。

「マフラー!」

 赤い布は白索の先、夢渠の縁。

 遠い。

「何に使う!」

「灯籠の目標!」

「今、布を追ってる!」ロロ。

「じゃ布を投げる!」

 ハルは白索を足で踏む。

 右手で巻き上げる。

 左肩へ荷重を入れない。

 赤いマフラーが跳ねる。

 右手へ。

 夢では左手が刃を持つ。

 現実のハルは右手で、刃ではなく灯籠を投げる。

「エリア、頭下げて!」

「命令?」

「頼み!」

「具体的!」

「一秒!」

 エリアが伏せる。

 ハルは赤いマフラーを、近くの空灯籠へ巻きつける。

 灯籠を右手で投げる。

 上へ。

 白い刃の前。

 予測核が赤い記号を追う。

 刃の方向索が、エリアから灯籠へ一瞬ずれる。

「今!」セレナ。

 ラトが、方向索を切る。

 刃は赤い灯籠へ刺さる。

 紙が破裂。

 橙の火花。

 刃の動線が断たれる。

 エリアの白いケープへ、紙片が降る。

 胸には届かない。

 影も倒れない。

 夢と逆の手で。

 夢と違う物を投げ。

 夢にない人の同意で。

 明日の殺人の舞台へ、最初の大きな穴が開いた。

 予測核の表示が、二十一まで落ちる。

 それでも、白階段の最上段で、鐘が一度鳴った。

 夢では二度目の鐘の後、影が倒れる。

 まだ一度。

 町は、次の一音を待っていた。