第526話 第十一章「刺されない明日」後編

 白階段上段裏。

 最後の装置が動いた。

 ベレトの事前命令。

 予測核停止時、証拠保全のため現場を封鎖する。

 防刃壁が一斉に閉じる。

 エリアが上段五へ取り残される。

 アサは下段へ退出済み。

 ハルは屋根裏。

「封鎖だけ?」ロロ。

「壁内の灯糸が収縮!」

 白い刃が刺さった赤灯籠。

 刃は止まっている。

 灯糸が縮めば、壁ごとエリアへ引かれる。

 犯行はまだ終わっていない。

「ベレト!」セレナ。

「証拠保全です」

「人が中にいる!」

「自動避難判定では、被害対象は上段三へ移動済み」

 エリアは上段五。

 紙輿から降りた位置変更が、封鎖系へ反映されていない。

 予測の誤差が、現実の人を殺す。

「壁を壊す!」カイル。

「内圧で階段が落ちる!」ロロ。

「上から!」ハル。

 屋根を走る。

 左肩は使えない。

 右手一本。

 紙壁の上へ。

 エリアの声。

『ハル、止まって』

「止まれない!」

『私が頼む』

「何を!」

『先に飛び込まないで。外から、私の位置を聞いて』

 ハルの足が止まる。

 見えている白壁へ、自分の恐怖を投げ込まない。

「位置!」

『上段五、壁から右腕二本、床傾斜七度。刃は左後方、距離三歩』

「出口!」

『正面閉鎖。上に保守孔、届かない』

「俺が孔を」

『肩』

「四」

『使わない方法』

「ロロ!」

「補助腕一、上へ回せる!」

「長さ!」

「一尺足りねえ!」

「カイル盾!」

「足場一尺!」

 王盾炎を壁へ立てず、ロロの補助腕の下へ薄く置く。

 一尺上がる。

 補助腕が保守孔へ届く。

「開く!」

 孔の外から、夜気。

「エリア、匂い!」

『塗料。紙。外気』

「孔、右上!」

『見えた』

 エリアが日傘の柄を伸ばす。

 保守孔へ掛ける。

 灯糸が縮む。

 赤灯籠の刃が床を滑る。

『距離二歩』

「上がれ!」

『呼吸三』

「終了条件!」メイ。

『術は停止。身体移動だけ』

「それでも三は三!」

『ここに残るより』

「比べて選ぶな、助けを増やす!」ハル。

「何を」

「エリア、握力!」

『右、十分。左、弱い』

「両手で登らない。日傘を腰へ固定!」

「白索を孔から!」ロロ。

 補助腕が索を通す。

 エリアが腰帯へ掛ける。

「引く!」

「本人の合図!」セレナ。

『今』

 ロロが巻く。

 カイルの盾が補助腕を支える。

 ハルは索へ触れない。

 自分の肩で助けようとしない。

 エリアの身体が保守孔へ上がる。

 刃が白いケープの裾を切る。

 布だけ。

 エリアが孔を抜ける。

 屋根へ。

 ハルの前へ落ちる。

 抱き留めない。

 左肩四。

 代わりに膝をつき、右腕を床へ出す。

「掴む?」

「右」

 エリアが右前腕を掴む。

 自分で身体を支える。

 白壁の中で、赤灯籠の刃が空を切る。

 三度目の鐘は鳴らない。

 エリアは刺されない。

 明日は、夢と違う形で終わった。

 ベレトは、逃げなかった。

 逃げられなかったのではない。

 予備鍵提出後も、拘束札は任意同行のままだった。

 彼は白階段下へ座り、消えた予測表示を見ていた。

「殺すつもりはなかった」と言う。

 セレナは、言葉だけでは受け取らない。

 白い刃。

 方向索。

 上段七の固定棒。

 医療記録アクセス。

 表示値の補正。

 最終予測の保存。

 停止時封鎖。

 ロロが刃の根元を調べる。

「安全試験なら、刃先を丸める」

「実行者が本物へ差し替える可能性を」

「これは最初から研がれてる」

「保安規格」

「刺突深度、胸郭貫通。停止糸は上段七の二寸前で切られてる」

「切ったのは」

「人の工具痕。お前の保守鋏と幅が一致」

「誰かが盗んだ」

 ノクスが鋏を嗅ぐ。

 白塗料。

 蒼苦葉。

 ベレトの指油。

 破約臭はない。

 約束ではなく、物理痕。

「ノクスの反応は補助」とセレナ。「鋏の摩耗、切断面、入退室記録、袖の樹脂付着を主証拠にする」

 ベレトは下を向く。

「一度、起きればよかった」

「何が」とカイル。

「予測どおりの事件が。一度、誰も『低い確率だった』と逃げられない事件が起きれば、町は次から警告を聞く」

「エリアが死ねば?」

「王家と公女の死なら、制度が変わる」

 エリアが歩いてくる。

 メイの肩を借りない。

 だが速度を落とし、途中で一度座る。

 呼吸は二へ下がった。

「私の死を、あなたの制度改正へ使うつもりだった」

「あなた個人を」

「個人でないから選んだ?」

「影響が必要だった」

「私が何を選ぶかは」

「選べば、予測が崩れる」

「だから選ばせなかった」

 ベレトは答えない。

 悲劇は、彼を正しくしない。

 妹を失った痛みは本物である。

 その痛みを他人の未来へ置く権利は、そこから生まれない。

「あなたの妹の火災記録は、あなたの罰を重くするためにも、軽くするためにも今は使いません」とセレナ。

「なぜ」

「妹の記録は妹の事件です。あなたの罪は、あなたの行為で立証する」

 救難後、白階段の下で最初の聴取が行われた。

 裁判ではない。

 結論を出す場でもない。

 何を保存し、何を今すぐ止め、誰を休ませるかを決めるための聴取。

 ベレトだけを椅子へ座らせない。

 ユーディ。

 保安員ラト。

 鐘守リム。

 アサ。

 エリア。

 ハル。

 灯橋で落ちた市民。

 予防拘束室にいた老人と少女。

 加害行為をした者と、制度を動かした者と、影響を受けた者を同じ「関係者」へ丸めない。

「拘束室の記録を先に」と老人。

「殺人未遂が先でしょう」と危機局員。

「明日まで待てと言われた。時計が全員違うのに」

「今回の刃を調べなければ再発が」

「わしらの拘束も再発する」

 どちらが先か。

 セレナは一つを選ばない。

「刃の物理保全はロロと保安技師。拘束記録は私と法務官。並行します」

「人が足りない」

「足りないことを理由に、被害を順番待ちへしない。外部応援を求めます」

「王家から」とカイル。

「王家の監査だけでは、王家に都合のよい結論と疑われる」エリア。

「学院、自由港、雷鎖公共線へ別々に」

「昔の同行者を便利な専門家として呼ぶな」とロロ。

「依頼内容と断る権利を送る」セレナ。

「ならいい」

 少女が手を上げる。

「夢で学校の灯籠を割った人も、記録を消せる?」

「あなたの名前は」

「言いたくない」

「では言わなくていい。記録の公開、封印、訂正、削除申請を分ける案を作ります」

「割りたい気持ちは消さない」

「なぜ」

「学校が成績の夢を全員へ見せたの、本当に嫌だったから。そこまで消すと、私が悪くないふりになる」

「行動していない気持ちは、罪ではありません」

「でも、嫌だったことは本当」

「本人注記として残せます」

「本人って、名前なしでも?」

「申請者符号で」

「じゃ、それ」

 制度改訂は、専門家が完成形を持ち込むのではない。

 最初に困った人が、自分の困り方へ名前をつけるところから始まる。

 灯橋から落ちた男は、ハルへ礼を言わなかった。

「お前の夢のせいで落ちた」

 ハルは否定しようとする。

 止める。

「俺が夢を送ったわけじゃない」

「知ってる」

「じゃ」

「顔を見ると腹が立つ」

「うん」

「助けられたのも腹が立つ」

「それも、うん」

「感謝しろって言わない?」

「言わない」

「謝れって言ったら」

「俺がしたことじゃない部分まで謝ると、した人が薄くなる。でも、俺の顔が使われて、君が怖かったことは聞く」

「面倒な答え」

「簡単なの、今回危ない」

 男は鼻を鳴らす。

「左肩、痛いのか」

「四から二」

「助けたせい」

「前から」

「じゃ、そこは礼に入れない」

「細かい」

「お前らが細かくした」

 男は去る。

 和解しない。

 被害を受けた人が、救助した者を好きになる義務はない。

 ハルは、その背中を追わない。

 助けた事実を、好かれる権利へ換えない。

 夢灯網の公開予測は停止された。

 予測そのものを燃やさない。

 火災、感染、医療の内部警告は残す。

 ただし市民へ配信する時は、確率、誤差、入力情報、更新時刻、行動による変化を分ける。

 医療記録は、治療目的、研究目的、保安目的、予測目的へ権限を分離する。

 緊急時でも、一人の保全官が横断できない。

 回避案は、一つの道を必須にしない。

 複数案と、従わない選択の危険を別に表示する。

 予防拘束は夢像だけで行わない。

 現実の準備行動、物証、本人の状態を個別に審査する。

 決めたのは、ゼロスター号の一行だけではない。

 危機局。

 夢療師組合。

 患者組合。

 保安員。

 鐘守。

 市場。

 医師。

 夢を売った者。

 夢を買わなかった者。

 最初の会議で、全員は合意しなかった。

 合意しないまま、公開配信停止だけを期限付きで決めた。

 十四日。

 その後は公聴会。

「短い」とユーディ。

「永続停止を今決める方が危険」とセレナ。

「十四日で制度を作れる?」

「作れない」とエリア。

「では」

「作れないことを記録した上で、延長条件を公開する」

「不格好」

「正確です」

 常夜都市に、朝は昇らない。

 代わりに、町は一日一度、灯籠の色を変える。

 深い藍から、薄い灰青へ。

 眠っている者を起こさず、起きている者へ日付が変わったと知らせる色。

 夜明け色。

 白階段の灯籠が、橙から灰青へ変わる。

 夢では、エリアの影が倒れた後、灯籠は全部消えた。

 現実では消えない。

 色が変わる。

 エリアは階段下の腰掛けへ座っていた。

 白いケープの裾が切れている。

 胸は無傷。

 ハルは隣へ座らない。

「座っていい?」

「聞くのね」

「夢で勝手に近づいたから」

「右側」

 左肺側を空ける。

 ハルは右へ座る。

 左肩へ冷却帯。

「俺、夢の俺を少し信じた」

「いつ」

「みんなが同じのを見た時。自分の中に、知らない何かがあるのかと」

「誰にでも、知らない自分はあります」

「刺す自分も?」

「可能性だけなら。怒り、事故、強制、誤認。だからといって、映像があなたの未来を所有しません」

「君は怖くなかった?」

「怖かった」

 地図針を外す。

 不安の癖。

 差し直さず、手の中へ置く。

「あなたが犯人だからではなく、皆があなたを犯人として扱い、その扱いがあなたを追い込むことが」

「俺が、君を守るため何でもするのも?」

「それも」

「傷つく」

「何でもする人は、私の選択までします」

「じゃ、何をする」

「具体的に聞いて」

「今、手伝うこと」

「五分、喋らず座って」

「難しい」

「能力不足?」

「訓練する」

 二人は黙る。

 一分。

 ハルが口を開きかける。

 エリアが地図針を一本、彼の右手へ置く。

 黙って持つ。

 五分。

 朝のない町に、夢と違う朝が来た。

 誰も刺されなかった。

 だから事件がなかったことにはならない。

 刺されない明日は、何もしなかった未来ではない。

 夢を証拠にしなかった人。

 出口を残した人。

 役を辞めた人。

 鐘を破った人。

 数字を止めた人。

 刃を切った人。

 飛び込まず、頼んだ人。

 それぞれの選択が、起きなかった殺人の代わりに、現在へ残った。