第527話 第十二章「存在しない人の葬儀」前編
事件の翌朝に必要なのは、真相の復唱ではない。
朝食。
睡眠。
濡れた服の交換。
壊れた扉の仮修理。
薬の配布時刻。
欠勤届。
店を閉めた分の補償。
拘束された時間の記録。
恐怖で眠れない人へ、眠らなくても座っていられる場所。
英雄譚は、事件が終わったところで幕を下ろす。
生活は、その幕を雑巾にして床を拭くところから始まる。
「昨夜、何時間寝た」
メイ・カフは、一人ずつ同じ質問をした。
比喩を許さない声。
「五分間、喋らず座った」とハル。
「睡眠ではない」
「目は閉じた」
「意識は」
「エリアが起きてるか確認してた」
「睡眠零」
「厳しい」
「事実」
生活の状態を方眼光へ変える診療譜〈デイリー・グリッド〉が、ハルの周囲へ開く。
睡眠、赤。
食事、黄。
住居、緑。
仕事、黒。
「仕事だけ黒い」
「休めていない」
「黒は格好いい」
「診断を意匠へ変えるな」
「今日、飛ぶ?」
「飛ばない」エリア。
隣の椅子。
彼女の方眼。
睡眠、赤。
食事、黄。
呼吸、黄。
踵、黄。
「あなたも」とハル。
「私は二時間」
「勝った顔」
「勝負ではありません」
「二時間差」
「睡眠負債に利子はつきます」メイ。
「ロロに聞かせないで。請求される」
「聞こえてる!」
診療所の外から、四本の補助腕が一斉に扉を叩く。
「白階段修理、夢心室隔離、配信層分離、紙輿解体! 全部、仮見積もり出たぞ!」
「いくら」とハル。
「お前が一生、朝飯抜いても足りねえ」
「寝る方が安い?」
「寝台壊すなよ」
「寝相への信頼がない」
「実績がある」
メイが扉を開ける。
「ロロ。喘鳴」
「一」
「嘘」
「一・五」
「座れ」
「請求が」
「座って書け」
「右眼」
「まだ見える」
「見えると使っていいは別」
「この町の医者、言葉遊びが強い」
「診断」
同じ返し。
ロロは不満そうに椅子へ座る。
補助腕だけが帳簿をめくる。
ソムナは、自分の確認札を読んでいた。
名前。
日付。
豆と根菜のスープ。
赤いマフラー。
淡緑の地図針。
苺三個。
八ルク。
左の単眼鏡。
尾二本。
「赤いマフラー」と読む。
ハルが首へ巻いている布を見る。
「それ?」
「そう」
「知ってる感じがない」
「昨日、君が縫い目を作った時も見た」
「札では」
「自分の記憶は」メイ。
「ない」
マフラーの色を失った。
苺の数も。
二項目。
夢から戻った後の現実負担〈モーニング・コスト〉。
魔法を使えば、代償がある。
伝承は、魔法の代償を格好よく語りたがる。
眼から血が出る。
寿命が縮む。
力を使うほど強くなる。
ソムナの代償は、もっと小さい。
昨日一緒に食べたもの。
誰かの色。
会話の順序。
小さいから、日常を壊す。
「返す?」ハル。
「何を」
「昨日のこと、話す」
「全部は要らない」
「じゃ、どこまで」
「僕が選ぶ」
ソムナは確認札へ、三つの欄を作る。
『今、聞く』
『後で聞く』
『聞かない』
「苺は」
「聞かない。カイルの胃袋は医療に不要」
「ひどい」とカイル。
診療所の奥から、焼き苺を持って出てくる。
「新しい三個で上書きしよう」
「記憶は上書き用の帳簿ではない」とセレナ。
「朝飯の提案」
「では可」
「判決が速い」
「色」とソムナ。
ハルのマフラーを見る。
「今、聞く」
「赤」
「赤」
自分で紙へ書く。
「昨日、何をした」
「どの部分」
「夢の出口」
ハルは答えを急がない。
「一人ずつ別に縫った。途中で記憶が二つ欠けた。メイが終了させた。君は、自分一人で全員を連れて帰るとは言わなかった」
「僕は、止めた?」
「自分で終了を選んだ」
「そこは、今聞く」
「今、言った」
「もう一回」
「自分で終了を選んだ」
ソムナは紙へ書く。
文字が少し震える。
「覚えていないのに、安心するのは変?」
「覚えてる俺が言うのも変だけど、変じゃない」
「根拠」
「今の君が、その話を聞いて嫌じゃなかった」
「弱い」
「弱い根拠を、確実って表示しない」
ソムナが薄く笑う。
苦い種を噛まない。
「それなら使える」
予防拘束室の扉は、取り外された。
ハルだけのためではない。
夢像を根拠に拘束された市民は、過去にもいた。
火事を起こす夢を見た料理人。
子供を落とす夢を見た母親。
王を殴る夢を見た役者。
罪に問われなかった者も、拘束歴は記録へ残った。
就職、住居、夢市場の信用へ影響した。
「過去記録を全部消す?」ユーディ。
公聴会の準備卓。
「消すと、拘束した事実も消えます」とセレナ。
「残せば、本人へ不利益」
「本人が公開、封印、訂正、削除申請を選べるよう分ける」
「事務量」
「多い」
「人員」
「足りない」
「予算」
「ロロが見積もる」
「俺を万能会計にするな!」
「万能ではない。高い」ハル。
「褒めてない!」
ユーディは紙面を三度叩く。
「十四日で無理です」
「公開配信停止の十四日と、記録救済の期限は分けます」とエリア。
「いつまで」
「申請受付は七日で開始。処理期限は一件ごとに通知。遅延理由を公開」
「未完成の制度を開く?」
「完成を待つ間も、不利益は続きます」
「失敗します」
「します」
エリアは言い切る。
「だから、訂正路を先に作る」
「公女らしくない」
「褒めていますか」
「判定保留です」
上陸した夜の言葉が返る。
ユーディが初めて笑う。
申請受付は、制度が完成する前に始まった。
完成していない窓口へ人を呼ぶのは無責任だ、と危機局は言った。
完成するまで過去の不利益を受け続けろ、と市民へ言う方が責任ある態度なのか、とアサは返した。
結果、白階公館の一階へ、机が五つだけ置かれた。
『公開を残す』
『公開から外す』
『監査だけに封印する』
『本人の説明を付ける』
『今日は決めない』
一つを選ぶ必要はない。
後から変えてよい。
理由を書かなくてよい。
「説明を書かないと審査できません」と記録係。
「何を審査するの」とアサ。
「正当な削除理由か」
「拘束した側が、拘束された側の忘れたい理由まで正当か決める?」
「悪用があります」
「ある。だから改竄と非公開を分ける。原記録を監査封印して、公開検索だけ外す選択も作る」
「五種類では足りない」
「足りないと分かるための五種類。足りなければ六つ目を作る」
制度というものは、最初から完成していたふりをした瞬間に、過去になる。
歴史上、多くの役所は石造りの建物を永続の象徴にしたが、実際に永続したのは建物ではなく、書式の方だった。誰も疑わず同じ欄を埋め続けるうち、欄にない人生が、人生ではないものとして扱われる。
最初の申請者は、火事を起こす夢を見たため三日拘束された菓子職人だった。
「消さない」と彼は言った。
記録係が顔を上げる。
「不利益が残ります」
「消したら、三日店を閉めさせられた理由も消える。補償を請求できない」
「では公開を残す」
「違う。『放火予備』という見出しを外せ。代わりに『夢像のみを根拠とした拘束』と赤く書け」
「赤は危険表示です」
「危険だっただろ。俺がじゃない。拘束のやり方が」
二人目は、子供を窓から落とす夢を見た母親だった。
「公開から外して。監査には残して。息子が成人した後、本人が求めたら見せて」
「息子さんの同意は」
「今は七歳。今の同意を未来まで固定しないで」
「では十八歳で自動通知」
「十八歳の誕生日に、母親が自分を落とす夢を見た記録を贈るの?」
「……通知時期を本人が選べる予告だけ送る」
「それなら」
三人目は、王を殴る夢を見た役者だった。
「全部公開。私の説明も付ける」
「説明は」
「王を殴りたかったのではない。殴る役を演じたかった。現実の王は殴らない。舞台の王は毎晩殴る。役者から役まで奪うな」
「夢では本物の王でした」
「夢の配役担当へ抗議する」
ハルが小声で言う。
「強い」
「あなたも申請できます」とアサ。
机の端へ、ハルの拘束記録が置かれる。
凪野ハル。
殺人予測対象。
予防拘束。
釈放。
四行。
四行で、壁の向こうからエリアの呼吸を聞いていた時間は書けない。
走れば犯人になるかもしれず、止まれば助けられないかもしれなかった身体も書けない。
「消す?」エリア。
「拘束されたのは残す」
「殺人予測対象は」
「公開から外す。監査には残す。そこに、『夢は証拠ではない』って付ける」
「あなたの言葉として?」セレナ。
「町の決定として」
「まだ法改訂前です」
「じゃ、俺の説明として。法になったら分ける」
「顔と現在地は」アサ。
「消す」
「理由」
「書かない」
アサが二度、左膝を指で叩く。
承認の癖。
「英雄の記録にしないのですね」とカイル。
「拘束されたことを勲章にしたら、次に拘束された人へ頑張って英雄になれって言うことになる」
「珍しく賢い」エリア。
「珍しくは余計」
「余計だから記録へ残しません」
ソムナは五つの札を見る。
「同じ傷でも、残したい人、隠したい人、後で決めたい人がいる」
「だから一つの治し方にしない」とメイ。
「夢の出口と同じ」
「似ているだけ。同じにするな」
「うん」
ソムナは六枚目の札を作らなかった。
五つで足りない人が来た時、その人の前で増やすため、空いた机を一つ残した。
ベレト・カームは拘置所ではなく、医療監視付きの取調室へ移された。
逃亡防止。
証拠改変防止。
自傷防止。
三つを分けて記録する。
彼の妹の火災記録は、その場で公開も削除もしない。
遺族、同じ火災の生存者、医療者、法葬礼の代表による別審査へ回す。
「私の動機を理解するには必要だ」とベレト。
「理解と立証は別です」とセレナ。
「裁判で話す」
「あなたが話す範囲はあなたが選べる。妹の記録を見せる範囲は、あなた一人で選べない」
「死者に選べない」
「だから生者が全部選んでいい、にはならない」
「では誰が」
「決まっていません」
空白を、急いで埋めない。
セレナは調書へ『未決』と書く。
右手首が熱を持ち、筆を置く。
ベレトが見る。
「あなたも記録で傷ついている」
「左眼のこと?」
「証羽事故」
「公開情報です」
「それでも」
「私の傷を、あなたの理解へ勝手に使わないでください」
ベレトは黙る。
同じことを、自分がアサへした。
反省したとは記録しない。
黙ったという事実だけ。
雷鎖環から、公共救難線の報告が届いた。
小型救難車は旧採鉱索で妊婦ルアへ追いついた。
出血は治療され、母子ともに生存。
成功。
同時に、中央診療拠点へ先行した診療車では、呼吸停止患者一名が死亡した。
二名は蘇生。
失敗。
朝汽笛分岐へ戻ったための遅延が、死亡へ影響したか。
医師は「影響を否定できない」と記録した。
断定はしない。
「私が戻ると決めた」とイヴァの伝話。
ゼロスター号の食堂。
「テトも、停車権限を使わなかった」とテト。
「中央救命の情報を見て、私が先に通過を決めた」
「俺は反対した。でも止めなかった」
「誰の責任」とハル。
「分ける」とイヴァ。
「薄くしない?」
「私の通過判断。テトの停止権不使用。中央からの情報不足。小駅に診療者を置かなかった制度。単独救難車を常備しなかった予算。全部、別欄」
「亡くなった人へは」
「別欄を作っても戻らない」
「うん」
「だから、次の便から小駅へ必ず止まる、とはしない」
「なぜ」とエリア。
「一律停車にすれば、別の中央救命が遅れる。代わりに、小駅側が緊急度を送れる手段、診療車の先行切離し、小型車常備、地域車掌の独立停止権を作る」
「いつ」
「一つ目は今日。全部は後」
「失敗する?」
「する」
イヴァの左耳が伝話鏡のこちらへ向く。
「次の失敗を、乗客数ゼロへしない」
彼女の仕事は、ゼロスター号を降りた日で終わっていない。
ゼロスター号が別の空域へ向かっても、公共線は走る。
停まり、通過し、戻り、遅れ、時に救い、時に間に合わない。