第528話 第十二章「存在しない人の葬儀」後編
「客員として乗る」とソムナが言った。
ゼロスター号の甲板。
常夜の風。
船の客員席には、五枚の航路札が残っている。
規則の期限を示す札。
契約へ参加しない者の救難札。
異なる拍を分ける札。
幻の確度を示す札。
行き先を保留する切符札。
六枚目はまだない。
「目的地」とエリア。
「保留」
「職務」セレナ。
「夢の案内。治療の決定はしない」
「費用」ロロ。
「現地報酬から共同費へ。私の診療分は別」
「細かい。好き」
「友人として?」ハル。
「会計対象として」
「厳しい」
「同行条件」とメイ。
彼女はゼロスター号へ乗らない。
診療所へ残る。
「一日一回、体温、食事、睡眠。夢術は確認札八項目、欠落一で終了。単独夢潜行禁止。苦い種を食事代わりにしない。帰還後、現実生活の患者を夢だけで診断しない」
「多い」
「増やせる」
「このまま」
「署名」
ソムナは読む。
一項目ずつ。
「夢術、欠落一で終了」
止まる。
「今回、二まで続けた」
「次は一」メイ。
「一だと、途中で終わる」
「途中で他人へ頼む」
「誰も分からなければ」
「分からないまま戻る」
「救えない」
「救えない時もある」
メイは優しい言い方をしない。
「お前一人が記憶を失えば、全員救えるという計算を、患者へ見せるな。患者が自分を犠牲にしろと言い始める」
ソムナは紙札を折る。
破らない。
「分かった」
「本音」
苦い種を噛んでいる。
ソムナは種を出す。
「嫌だ。でも署名する」
「それでいい」
署名。
メイは彼を抱かない。
小鍋を渡す。
「船で使え」
「重い」
「身体が勝つ」
客員席へ荷物を置く前に、ソムナは船内の出口を数えた。
主甲板へ一。
機関室へ一。
船腹の緊急孔へ二。
客員席の窓は開くが、人が通れる幅ではない。
「窓を出口へ数えない」と彼。
「外へ出るぞ」とハル。
「落ちる」
「出た後の安全まで出口?」
「患者へは」
「じゃ、船腹孔も雲の上」
「救命索がある」ロロ。
「誰でも使える?」
「説明を読めば」
ソムナは説明板を見る。
細かな機関字。
四つの専門記号。
色分けだけの弁。
「読めない人は」
「俺を呼ぶ」
「あなたが眠っていたら」
「補助腕が」
「呼ばれた理由を理解できる?」
「……図にする」
ロロは文句を言いながら、緊急孔の説明板を外す。
文字を減らす。
手の絵。
索を掛ける位置。
開ける順番。
やめる条件。
「夢療患者が覚醒直後でも分かる形」とソムナ。
「追加注文は有料」
「客員費から」
「話が早い」
ハルが客員席の寝台へ座る。
「ここ、前の人の跡が残ってる」
柱へティアの短い規則札。
棚へミラが刻んだ契約の傷。
床へガンガが数えた七拍の線。
鏡へユノの白縁表示。
窓枠へイヴァの切符穴。
「消さない?」ソムナ。
「本人が残したもの」とエリア。
「船の物になった?」
「預かりもの」
「返す時」
「本人が求めた時、または船を解体する時に連絡。返せない物は、記録と選択肢を送る」
「ルール、ある」
「過去に揉めた」とロロ。
「誰と」
「全員」
ソムナは自分の紙札を柱へ打たない。
「まだ残さない」
「客員じゃない?」ハル。
「乗ることと、痕跡を永久に置くことは別」
「何を置く」
「途中で決める」
未完成の航路札は、机の上。
中央に切れ目。
名前なし。
ハルは触れない。
「触らないの」とソムナ。
「触っていい?」
「今は、見るだけ」
「了解」
エリアが客員席の地図へ、出口を四つ描く。
「窓は」
「観測口。出口ではない」
「分けた」
「あなたの指摘です」
「地図へ入った」
ソムナは少し驚く。
自分の言葉が、相手の世界の描き方へ残る。
夢へ入らなくても、人は他人の地図を変える。
メイとアサは、町に残る仕事を始めていた。
予測網の監査ではない。
白階段へ集められたため薬を飲めなかった人。
店を閉め、夢薬を失った人。
ハルの顔を見ると発作が出る人。
逆流夢で、自分が犯人になる像を見た人。
夢が外れたのに、次の夢を信じられなくなった人。
「診療所を増やす?」ユーディ。
「寝台より先に、食事と窓」とメイ。
「夢療師は」
「本人が望む人だけ」
「ソムナが出る」
「一人減る。だから、全部を夢療へ回さない」
アサは受付の椅子を出口へ向ける。
胸の札は『退出可』のまま。
保安連絡員へ戻るかは決めていない。
「あなたの傷、報道が聞きたいと」とユーディ。
「話さない」
「声明だけ」
「『話さない』が声明」
「なぜ使われたかを市民へ」
「制度は説明して。私の傷の話で説明しないで」
ユーディは紙面を叩きかけ、止める。
「分かりました」
「分かってない顔」
「市民は具体例を求める」
「具体例にされる人へ、具体的な損が来る」
「代わりに、架空事例を」
「架空だと軽く見られる」
「匿名化」
「私だけでなく、複数事例の構造を出して」
「時間が」
「十四日ある」
「短い」
「昨日、あなたが決めた」
ユーディは苦く笑う。
「戻ってきますか」とアサが、出航前のソムナへ聞く。
「戻る。時期は決めない」
「患者を置いていく?」
「メイと、あなたと、患者本人がいる。私の患者、とは言わない」
「逃げる?」
ソムナは苦い種を噛まない。
「少し」
「それでいい」
「怒らない」
「私も治療から逃げた」
「同じにしない」
「同じじゃない。逃げても続く点だけ」
ソムナは頷く。
彼の生活も、同行によって新しく動き始める。
メイとアサの仕事も、町に残って続く。
別れは、誰かの時間を止める操作ではなかった。
出航は、葬列で遅れた。
夢灯都市の中央通り。
黒ではなく、薄い灰青の紙衣を着た人々が歩いている。
先頭には棺。
棺は軽い。
人が入っていないから。
「誰の葬儀」とハル。
ソムナが顔を上げる。
「ルメ」
「知ってる?」
「名前だけ」
葬儀記録をセレナが確認する。
死亡診断書、なし。
戸籍、なし。
住居記録、なし。
治療記録、なし。
「存在しない人?」ハル。
「行政上不存在とは限りません」とセレナ。
「十三番駅の行政上不存在とは同じじゃない」
「同じ名前の穴へ、同じ答えを入れないで」
葬列の人々へ聞く。
「ルメは、何をしていた人ですか」
パン屋。
「朝、窯の火を見てくれた」
仕立屋。
「夜中に寸法を忘れた時、袖の順番を教えた」
薬師。
「飲み忘れた人へ、灯籠を一つ暗くした」
子供。
「怖い夢を半分持ってくれた」
老人。
「妻の口癖を忘れないよう、週に一度聞かせた」
鐘守リム。
「鐘を鳴らす前、町の眠りが深いか見た」
「一人で全部?」ロロ。
「さあ」とパン屋。
「顔は」セレナ。
「丸かった」
「細かった」と仕立屋。
「髪は」
「白」
「黒」
「なかった」
「声」
「高い」
「低い」
「喋らない」
誰も、同じ人を説明しない。
それでも全員が、ルメへ何かを頼んだと言う。
「夢の共同役?」ハル。
「断定しない」とソムナ。
「じゃ、何」
「今は葬られている名前」
葬列は止まらない。
棺の蓋が、風で少し開く。
中に身体はない。
パン切り包丁。
糸巻き。
薬匙。
古い目覚まし。
片方だけの靴。
子供の絵。
鍵束。
修理済みの椅子脚。
紙灯籠。
生活道具が詰まっている。
「遺品?」
「依頼品」と老人。
「返ってきた?」
「使えなくなった」
「ルメが死んだから」
「そう聞いた」
「誰から」
老人は周囲を見る。
「葬列から」
葬列が、死を知らせた。
死が、葬列を始めた。
原因が輪になっている。
セレナは棺へ手を触れない。
「止めますか」とユーディ。
「死亡確認がない」
「しかし住民は弔いたい」
「葬儀を止める理由と、死亡を認定しない理由は別です」
「では続ける」
「棺の中身を証拠保全?」ハル。
「本人や所有者の同意がない。今は観測だけ」
「盗まれたら」
「葬列へ保管責任を確認」
棺を担ぐ人々は、一人ずつ違う答えをする。
「町のもの」
「ルメのもの」
「頼んだ人のもの」
「もう誰のものでもない」
所有者も一人ではない。
ソムナは葬列の横へ歩く。
ゼロスター号へ乗ると決めたばかり。
「残る?」ハル。
「今は乗る」
「ルメを調べない?」
「調べる。町のメイとアサが始める。私は全部を持っていかない」
メイは診療所へ。
アサは葬列の最後尾。
ゼロスター号が離れても、調査は止まらない。
「途中で戻るかも」ソムナ。
「客員席、固定じゃない」
「目的地保留」
「イヴァの切符」
「借りない。自分の札を作る」
ソムナは袖の内側から紙札を一枚外す。
何も書かない。
中央へ細い切れ目。
「意味」エリア。
「夢から出る切れ目」
「一つ?」
「今は一つ。でも持つ人が、自分で増やす」
「名前」
「まだ」
「台帳へ登録できません」とセレナ。
「決まってから」
「空欄で記録」
六枚目の航路札は、未完成だった。
未完成のまま、客員席へ置かれる。
ゼロスター号が離岸する。
常夜都市の灯籠が、下でゆっくり流れる。
白階段は、白いまま。
事件が終わったから元の青灰へ戻す、とは決めない。
白く塗ったこと自体が、町の失敗記録である。
ただし毎日見せ続けることが被害者へ負担なら、色を変える選択も残す。
決定は公聴会へ。
ハルは甲板から、葬列を見る。
棺。
道具。
紙灯籠。
「ルメ、誰だったんだろう」
「誰か、とは限らない」とエリア。
「人じゃない?」
「人ではない、とも限らない」
「答えが両側に逃げる」
「今は、分からない」
ハルが頷く。
「分からないまま乗る?」
「ええ」
「前なら、地図を描いた?」
「今も描きます」
「描くんだ」
「棺の位置、葬列の経路、道具を返した店。分からない中心は空欄」
「空欄も地図」
「空欄だから、次に誰かが勝手な顔を描かないよう、縁を残します」
ハルは零星針を開かない。
羅針盤は、まだ答えを指せない。
ノクスは甲板の端へ座る。
匂いを追わない。
葬列が見えなくなっても、同じ場所へ座っている。
悲しい時の癖。
ハルは撫でない。
隣へ座る。
「ルメ、ノクスの知り合い?」
「ナァ」
「知ってる」
「知らない」とロロ。
「名前じゃなく匂いを知っている」とエリア。
「全員、翻訳停止」とセレナ。
ノクスが一人ずつ噛む。
ソムナだけは避けない。
二本尾の夜獣が手首へ歯を当てる直前、彼は手を引かずに聞く。
「噛む?」
ノクスは噛まない。
額を当てる。
「今のは」ハル。
「翻訳しない」とソムナ。
薄紫の瞳に、常夜の灯が映る。
「ただ、覚えておく」
「忘れたら」
「聞き直す」
夢を見る町から、星のない船が離れていく。
後ろでは、存在を確認できない人の葬儀が続く。
前には、まだ名前のない航路。
同じ夢を見たことは、同じ未来を持つことではない。
同じ人を悼むことさえ、同じ人を知っていた証明にはならない。
それでも人は、隣の人へ現在地を言い、戻りたい出口を聞き、分からない名前のために道具を棺へ入れる。
予言ではなく。
記録でもなく。
今ここで、誰かと続ける生活として。