第529話 第一章「ルメの葬列」前編

葬儀とは、死者のために行うものだと考えられている。

 これは半分だけ正しい。

 死者は、葬儀へ遅刻しない。反対もしない。棺の値段へ文句を言わず、弔辞の誤字を訂正せず、誰を呼ばなかったかについて親族会議を開かない。

 葬儀を必要とするのは、生きている側である。

 誰がいなくなったのかを確かめるため。

 その不在で何が変わるのかを知るため。

 そして時には、いなくなったことにしておかなければ困る何かを、棺へ入れて町の外へ運ぶため。

 夢灯環ネムリアでは、眠りの中で失ったものにも葬儀を出した。

 忘れたい夢。

 忘れられなかった悪夢。

 もう会えない人の声。

 目覚めた後には持ち帰れない未来。

 だから、遺体のない棺は珍しくない。

 町じゅうの仕事が一緒に死ぬ棺だけが、珍しかった。

「戻って」

 伝羽が、ゼロスター号の前窓へ正面衝突した。

 羽毛ではない。

 橙色の紙を鳥型へ折った緊急伝羽で、嘴が硝子へ刺さる直前に翼を広げ、ぺたりと貼り付く。

 紙の腹へ、黒い字。

 パンが焼けない。

 薬も次に止まる。

 戻れ。

 署名は、メイ・カフ。

「命令文が三行」とカイルが言った。「医師が短い時は、長い説明をする暇がないか、説明すると怒鳴るからだ」

「どちらでも戻る理由は足りる」エリア。

「方向転換!」ハル。

「操舵席へ先に走るな!」

「走ってから言われた!」

「言う前に走ったのよ!」

 ハルは甲板へ出る扉の前で踵を返した。

 左肩へは荷物を掛けない。配達鞄は右肩から斜めへ。全体重を預ける跳躍はしない。

 回復とは、痛まなくなることではない。

 痛む前に、何をしないかを決められるようになることだった。

 ロロの四本の補助腕が、同時に帆索へ伸びる。

「一枚帆を返す! この役立たず船、出たばっかりで帰港費二回分かよ!」

「町へ請求」とセレナ。

「緊急救難の経費で通る?」

「記録すれば」

「通るとは言ってねえ!」

 ゼロスター号が横風へ腹を見せた。

 片帆が鳴る。

 船体が傾く。

 エリアが白い日傘を開く。

 傘骨の一部が地図槍グリムリリーへ変わり、空中へ三本の淡緑線を描いた。

「帰港路、三案。最短は葬列の上を横切る。安全路は外灯環を半周。中間路は鐘紙街の手動標へ従う」

「最短」とハル。

「棺の上へ船影を落とす」

「不吉」カイル。

「葬式で不吉を気にする?」

「死者へ二度目の悪運を送る必要はない」

「中間」ソムナが、一拍遅れて言った。

 薄い青緑の髪が風に持ち上がる。

 長い袖の内側で、夢札がかすかに鳴る。

「鐘紙街なら、葬列の位置が分かる。戻る理由も、町の人へ聞ける」

「本人の葬式へ本人が戻るみたいな言い方」とハル。

「誰が本人か、まだ分からない」

 ソムナは苦い種を噛む。

「だから、棺より町を見る」

 ゼロスター号が離岸してから、まだ半刻も経っていなかった。

 それでも町は変わっていた。

 常夜都市の灯籠は、ふつう、流れ星のように動く。

 屋根から屋根へ。

 橋の下から運河の上へ。

 眠る家へ薄く、起きている市場へ明るく。

 今は、すべての灯が一つの遅い輪へ入っていた。

 葬列。

 白灰の紙布を肩へ掛けた住民が、町を一周する環状路を歩いている。

 先頭に鐘。

 続いて、名前のない旗。

 その後ろへ、八人で担ぐ長い棺。

 棺の蓋は半分だけ透明だった。

 中に人はいない。

 煤けた鍋。

 片方だけの革手袋。

 三十七本の鍵。

 小児用の木匙。

 赤い糸で綴じたレシピ束。

 橋の検査槌。

 薬研。

 子守歌の穴譜。

 紙灯籠。

「増えてる」とハル。

「昨夜、見た時より?」エリア。

「匙はなかった。鍵ももっと少なかった」

「所有者が後から入れている」セレナ。

「遺品?」

「所有者が誰か、確認できていません」

 セレナは六角単眼鏡を下ろす。

 左眼を閉じ、右だけで棺を追う。長時間の細字確認へ入る前に、右手首の固定帯を一段ゆるめた。

「葬列へ近づく。触れない。回収しない。質問だけ」

「棺が落ちたら?」ハル。

「救う」

「証拠より?」

「人を」

「棺は」

「落下後に記録」

「順番、分かった」

 ゼロスター号は鐘紙街の仮桟橋へ横付けした。

 ユーディ・カンデラが待っていた。

 濃い菫色の長外套。口元の黒い半面紙。右人差し指で、手にした決裁札を三度叩く。

「選択肢を三つ。締切を一つ」

「挨拶?」ハル。

「挨拶をしている時間はある。説明を長くする時間がない。第一、葬列を止め棺を保全。第二、葬列を続けながら調査。第三、町の生活機能を先に復旧。次の薬配合まで二十八分」

「三」とメイが言った。

 診療所の白外套を着たまま、ユーディの隣へ立っている。

 黒い顎線ボブの中央へ白い前髪。透明な四角眼鏡。右手には帳簿、左手には小鍋。

「三をしながら二。棺を止めても薬は混ざらない」

「葬列の通過と機能停止に関連がある可能性」セレナ。

「相関はある」メイ。「棺が一巡目で東製パン区を通過。二十二分後、三軒のパン工房が作業停止。二巡目で南診療区へ入った直後、薬配合札の照合が消えた」

「消えた?」ロロ。

「札はある。手が続きを知らない」

「機械故障」

「機械は動く」

「人が故障?」

「人を故障と呼ぶな」

「じゃ、手順が故障」

「それなら調べろ」

「修理代」

「見積書を出せ」

「払うとは」

「言っていない」

 ロロが胸を押さえた。

「この町、言葉が医療刃物なんだよ」

「切開は必要な時だけ」メイ。

 葬列へ合流する前に、ハルたちは町の現在地を確認した。

 公開予測配信は昨夜から十四日間停止。

 医療、火災、記録保全は別系統で継続。

 危機局は手動鐘と地上伝令へ移行。

 ベレト・カームは拘束審査中。

 白階段は現場保存。

 そして、ルメという存在の死亡記録は、どこにもない。

「出生記録も?」ハル。

「なし」とセレナ。

「住民票」

「なし」

「仕事の記録」

「『ルメ担当』『ルメ確認』『ルメへ依頼』は合計八千二百六十一件」

「いるじゃん」

「記録上、担当名があることと、人間一名が存在することは同じではありません」

「名前が仕事して、人がいない?」

「名前だけで仕事はできない」エリア。

「でも仕事した記録はある」

「だから調べる」

 アサが葬列の最後尾から離れ、こちらへ歩いてきた。

 暗い梅色の髪。左右で丈の違う薄青の上着。胸へ「退出可」の札。

「棺を見た?」ソムナ。

「見た」

「夢は」

「見ていない」

「入らなかった?」

「入る夢がなかった」

 アサは杖をつく。

「みんな、ルメを知っている。知り方だけ違う」

「どれくらい」セレナ。

「鐘守は、四十二歳の女だと言った。パン屋は、手の大きい老人。子守区の子は、髪の長い若い人。橋守は、顔を見たことがない」

「同名の複数人?」

「かもしれない」

「共同名?」

「かもしれない」

「答えがない」ハル。

「質問に出口を一つだけ作らない」アサ。

「ソムナに似てきた」

「ソムナが私に似た」

「どっちが先」

「必要ない」

 ソムナは一拍置く。

「今は」

「付け足した」とハル。

「今は、必要ない」

 葬列は、鐘紙街から灯籠川沿いへ曲がった。

 町の人々は泣いている。

 泣き方まで同じではない。

 声を上げる者。

 仕事着のまま歩く者。

 何度も別れ札を読み返す者。

 泣いていないことを恥じる者。

 棺へ道具を入れ、すぐ列から離れる者。

 ハルは最後の人へ声をかけた。

「それ、何を入れた?」

 五十代の女。

 頬に紙粉。

 昨夜、予測灯から起きた時に名を確かめた、ネラ・ヒュームだった。

「廃灯区の戸鍵」

「ルメの?」

「私の仕事の」

「じゃ、なぜ棺へ」

「ルメが毎朝、先に開けた」

「あなたは」

「私は後から点検票を書く」

「開け方は」

「鍵を回す」

「回せる?」

 ネラは答えない。

 腰へ下げた予備鍵を取る。

 近くの小扉へ差す。

 右へ。

 左へ。

 もう一度右へ。

 錠は開かない。

「順番を、忘れた」

「いつから」セレナ。

「棺が区を通ってから」

「身体が動かない?」メイ。

「動く。鍵も分かる。扉も分かる。なのに、どこで押して、どこで半回転にするかが――手の外へ出た」

「夢灯網へ預けていた?」ソムナ。

「毎日やることほど、忘れても困らないと思った」

「誰へ」

「ルメへ」

 ネラは棺を振り返る。

「返してもらうつもりだった。いつか」

「いつ」ハル。

「忙しくなくなったら」

「それ、いつ来る?」

「来なかった」

 ノクスが戸鍵を嗅いだ。

 二本の尾が同じ方向へ上がらない。

 一本は棺。

 もう一本はネラの家。

 次に、尾が別の家へ。

 さらに向こうの工房へ。

 橋の下へ。

 診療所へ。

「匂いが散ってる」とハル。

「破られた約束が複数ある」とエリア。

「誰の約束」

「嗅覚は主語を出さない」セレナ。

 ノクスは一人を追わない。

 町のあちこちへ顔を向け、最後には座り込んだ。

 匂いが多すぎる時、追跡は答えにならない。

 棺へ付けられた別れ札は、各家へ同じ時刻に届いていた。

 文面は短い。

 お預かりしていたことを、終えます。

 返せないものがあります。

 忘れたままにしたことを、忘れないでください。

 ルメ。

「同じ筆跡」とユーディ。

「見た限りでは」セレナ。

「偽造?」ハル。

「まだ断定しない」

「同じ人が書いた」

「同じ筆跡に見えることと、一人が書いたことも同じではない」

「今回、同じじゃないもの多すぎる」

「世界は、言葉より種類が多い」カイル。

「王子みたいなこと言った」

「王子だ」

「忘れてた」

「私の仕事まで棺へ入れるな」

 カイルは笑った。

 だが、笑った後に胸の右を押さえる。

 肋部の古傷。

「痛み」メイ。

「一」

「食べ物で言うな」

「小苺一個分」

「数字で」

「一だ」

 恐怖が強いほど、食べ物が増える。

 メイは帳簿へ、数字だけを書いた。