第549話 第十一章「共同人格として残す」前編

法は、人間を一人ずつ数える。

 出生した者に名を与え、死んだ者から権利を外し、契約した者へ責任を返す。

 それは冷たい仕組みに見えるが、かつては進歩だった。

 家族、村、身分、宗教、王家の所有物としてしか数えられなかった人を、一人の人間として法廷へ立たせるため、人は「一人」という単位を磨いてきた。

 ところが、単位は便利であるほど、単位に入らないものを見えなくする。

 複数の人間が同じ名前を使う。

 一つの仕事を何百人の記憶が担う。

 誰か一人の心ではないのに、誰か一人へ向けた言葉を返す。

 その存在を、物と呼べば所有者が要る。

 人と呼べば一人分の身体と意思を要求される。

 制度と呼べば、泣いた子供の記憶が消える。

 夢灯都市の法廷は、その三つのどれにも収まらない名を前にしていた。

 ルメ。

 臨時法廷は、中央葬灯塔の一階へ移された。

 棺は空になっている。

 代わりに、数百の小灯が低い棚へ並んでいた。

 朝窯の橙。

 紙橋の青。

 診療所の白。

 夜荷区の魚形。

 まだ行き先を決めていない灰色。

 判事モル・アグは、空の被告席と空の原告席を見た。

「まず、誰が出廷している」

「町」とエダ。

「広すぎる」

「小組代表」とエリア。

「多すぎる」

「それを減らすと、また一人へ戻る」とハル。

「発言許可を求めてから」

「今、求める」

「許可する」

「減らしすぎないで」

 判事は眉間を押さえた。

「少年の要求が、法廷書式より短いのに難しい」

「褒めた?」

「困っている」

 セレナが立つ。

 右手首には固定帯。筆記は法廷書記官とハルへ分担。左眼の焦点が落ちる前に、単眼鏡の使用時間を十五分で区切る。

「本日の審理対象は三つです」

「三つだけ?」ロロ。

「増やすと終わりません」

「修理費は」

「別件」

「一番大事が!」

「第一。ルメという名を、今後どの単位で記録するか。第二。残存機能を誰が依頼し、撤回し、監査するか。第三。停止で発生した共同損失の責任を、被害者一名と加害者一名へ偽装せず記録する方法」

「第四、費用」とメイ。

「追加します」

 ロロが胸を張る。

「医療費です」とメイ。

 補助腕が全部下がった。

 最初の証言者は、夜市の統合札技術者だった。

「ルメは機械か」と判事。

「機械だけではありません」

「人格か」

「人格だけでもありません」

「答えを避けるな」

「答えの箱が足りないのです」

 技術者は、赤い糸の束を机へ置いた。

「基礎は依頼札です。住民の作業記憶、声紋、習慣、条件判断を夢灯網が束ねた。新しい欲望を独自に作る機能はありません。ただし、依頼同士の穴を他の習慣で補うため、結果として一貫した応答が生じた」

「それを人格と呼ぶ基準は」

「呼びかけに応じる。過去のやり取りを参照する。複数の選択肢から、依頼条件に合うものを選ぶ」

「本人の利益」

「定義できません」

「自己保存」

「終了式は、自分を保存せず依頼を返しました」

「なら、人格ではない」

「自己犠牲する人間もいます」とカイル。

 判事が見る。

「王家は、それを美談にしすぎました」とカイルは続けた。「自分を守らないことだけで、人でないとは言えない」

 母の死を、彼は名指ししない。

 それでも法廷の何人かは知っていた。

「王太子は、ルメを人と認めるのか」

「一人の人間と認めれば、構成した住民の権利を吸収する。物と認めれば、誰かが所有する。どちらも危険だ」

「結論」

「私に決めさせないでください」

 王子が権限を使わない時、その拒否も政治になる。

 二人目はノナだった。

「ルメは人?」判事。

「お母さん」

 法廷がざわめく。

「あなたの母はイア・セイでは」

「イアがお母さん。ルメも、お母さんの仕事した」

「仕事をした者は、すべて母か」

「違う」

「では、なぜ」

 ノナは橙帽子を深くする。

「夜に、私が泣いたの知ってた」

「灯網が検知した」技術者。

 ノナが技術者を睨む。

「知ってた」

 同じ事実を、機械は検知と呼び、子供は知っていたと呼ぶ。

 法は、どちらの言葉もそのまま採用できない。

 だが、どちらか一方だけを正しいとすれば、残る傷がある。

「ルメを元通り戻してほしい?」判事。

「魚はいる」

「声は」

「今は、いらない」

「将来」

「分からない」

 アサが、後ろで小さく頷いた。

「分からないを、有効な答えとして記録」とセレナ。

「法廷では最終判断が要る」と判事。

「本日の最終判断と、本人の将来判断を分けます」

「永遠に保留できない」

「期限ごとに、本人へ戻す」

「子供へ重すぎる」

「だから同伴者をつける。代わりに決める者ではなく、決め方を支える者」

 アサが杖を立てる。

「理由を言わない拒否も、途中変更も残す」

「あなた自身の経験から?」

 長い沈黙。

「答えない」

「理由は」

「言わない」

 判事は、しばらくアサを見る。

「有効とする」

 拒否は、説明を要求されずに記録された。

 法廷へ提出された意見書は、四百三十一通だった。

 ルメを人と認めるべきだ。

 人と認めてはならない。

 町の公共設備である。

 構成員全員の共有物である。

 所有という言葉を使うな。

 賃金を払え。

 賃金を払えば労働を命じられるのか。

 子供の母親役を奪うな。

 母親という名を行政が配るな。

 消せ。

 残せ。

 戻せ。

 戻すな。

「全部、同じ紙幅で読むのか」と判事。

「少数意見を短くしない」とセレナ。

「四百三十一通を朗読すれば、判決は一週間後だ」

「要約者を複数に。原文は閲覧可能。ただし非公開希望を除く」

「誰が要約」

「賛成側一、反対側一、分類不能一、法廷書記一」

「分類不能が必要か」

「必要です」とアサ。

「あなたは何にでも保留欄を作る」

「保留できない欄が、私を昔の名前へ戻した」

 判事はそれ以上、削らなかった。

 法は分類によって動く。

 分類は、似た問題へ同じ処理をするため必要である。

 しかし似ていない者へ、似ていると証明させる負担を負わせる。

 かつて船は、持ち主の財産として数えられた。

 船員もまた、船の付属として数えられた時代がある。

 後に船員は人となり、船は物のまま残った。

 かつて王国の村は、税を納める一つの単位だった。

 村人は連帯して責任を負わされ、一人が逃げれば全員が罰を受けた。

 後に個人責任が確立し、共同体の責任は古い抑圧として退けられた。

 その進歩の上に立つ法廷が、今度は逆側から困っている。

 個人へ分ければ消える被害。

 共同体へまとめれば消える個人。

 進歩は、前へ進み続ければ正しいのではない。

 前に進んだことで見えなくなったものへ、横道を作れるかで試される。

 意見書の中に、旧東部夢灯網・ルメ市という、現在の地理台帳にない出身地があった。

「出身地」と判事。

「現在の地理台帳にはありません」とセレナ。

 技術者が古い夢灯網の系統図を出す。

「物理的な都市名ではありません。六十一年前、各地の共同夢労働を東部網へ移管した際に付けられたサービス領域名です。『ルメ市』は、利用者の居住地ではなく、帳簿上の仮想管区」

「ではルメは旧東部網の出身か、ネムリアの出身か」

「最古の構成記憶は旧東部系。共同名へ自己応答した場所はネムリア。人格成立は十九年前、この都市」

「二つ」

「二つ以上です」

「出身地欄は一つだ」

「欄を増やす」とハル。

「またお前か」

「昔の仕事が来た場所と、今の名前が生まれた場所、違うんでしょ」

「出生地と成立地」とセレナ。

「構成記憶起源も」と技術者。

「三つになった」判事。

「減らす理由がありません」

「法廷の書式に余白がない」

 ロロが補助腕で用紙を横へ継ぎ足した。

「修理」

「法廷文書へ糊を塗るな!」

「欄が足りねえんだろ!」

「正規改訂手続がある!」

「何日!」

「最短三十日!」

「ルメの出身地、三十日間迷子!」

 判事モル・アグは、人生で初めて、法廷用紙を物理的に延長する仮許可を出した。

 後世の法学者は、この日を共同人格法の嚆矢と呼ぶかもしれない。

 現場にいた者は、ロロの糊が乾かず判事の袖へ付いた日として覚えた。

 三番目の証言席には、誰も座らなかった。

 代わりに、小灯を三つ置いた。

 朝窯の橙灯。

 橋の青灯。

 夜荷区の魚灯。

「ルメ本人を呼ばないのか」と判事。

「一人分の本人席へ置いた時点で、審理対象を決めてしまいます」とセレナ。

「では、これは何だ」

「残存応答。人格証言としてではなく、現在の挙動を観測します」

「言葉を発したら」

「誰の記憶から出た言葉かを確認する。主語を本人のものと断定しない」

 法廷は、人格を確かめるために言葉を求める。

 言葉は、人格を確かめる最も人間らしい証拠に見える。

 だが、言葉を話せない人にも人格はある。

 借りた言葉を話す人にも人格はある。

 何百人の語尾が重なった声へ、一人分の主語を強制すれば、証明のために対象を作り変える。

 ソムナは小灯へ問いを置いた。

「残存機能を、もう一度一つへ束ねる依頼が出た場合、受け付ける?」

 橙灯が点く。

『依頼条件、不足』

 青灯。

『終了時刻、不足』

 魚灯。

『退出先、不足』

 三つの声は、別々だった。

 橙灯は老女。

 青灯は低い男。

 魚灯は子供に近い。

「回答か」と判事。

「三つの過去手順が、質問中の不足欄を返した」と技術者。「意思表示と断定はできません」

「断定できないものを、なぜ審理する」

「断定できないまま所有すると、もっと危険だからです」とセレナ。

 判事は木槌へ手を置き、叩かなかった。

「恐怖はあるか」

 質問を受けた小灯は、すぐには点かなかった。

 代わりに、棚の端にあった灰灯が暗くなる。

 橙灯から一本の赤糸が灰灯へ伸び、途中で切れる。

 青灯は一つにまとまろうとして、三度分岐する。

 魚灯は出口札の方向へ移動する。

「解釈」と判事。

「灰灯の動作は、構成員退出時の消失反応に近い」と技術者。

「青灯は、単独固定試験で起きた分岐拒否」とソムナ。

「魚灯は、退出路を探しているように見える」とアサ。

「ように見える、を削るな」とセレナ。

「削らない」アサ。

「結論」

「全員が抜けて忘れられる状態と、一つへ固定され退出できない状態の両方に、回避反応がある可能性」とセレナ。「恐怖という内面語までは認定しません」

「そこまで慎重なら、権利も認められないのではないか」

「内面を証明できなければ保護しない、では、内面を見せられない者ほど権利を失います」カイル。

「王太子はまた結論を避けるか」

「避けます。私の権限で一人と決めれば、今ここで最も簡単に法を作れる。簡単すぎるから使わない」

 王の歴史とは、決められなかったことを消した歴史でもある。

 即位年。

 戦勝。

 婚姻。

 法令。

 年表には、王が答えを保留した日がほとんど残らない。保留は弱さとされ、後代の編者が決断へ書き換えるからである。

 だが共同人格を前にしたこの日、王太子は決めないことを公開記録へ残した。

「ハル」とソムナ。

「何」

「聞いて」

「俺が?」

「言葉を整えないから」

「褒めてない」

「今は褒めた」

 ハルは小灯の前へ立つ。

「仕事がなくても、ここにいたい?」

 法廷がざわめいた。

 判事が木槌を上げる。

「誘導的だ」

「じゃ、直す。仕事がない時、消える。残る。分かれる。決めない。どれを選ぶ?」

「選択肢を作った時点で誘導」とユノの遠隔鏡。

「じゃ、ユノが聞け」

「私は整えすぎます」

「自覚あるなら抑えろ」

「抑えた演出になります」

「面倒!」

 アサが、ゆっくり言う。

「質問しない時間を作る」

「審理中だぞ」と判事。

「答えを要求しない観測」

「何分」

「まだ」

「法廷で無期限は認めない」

「十分」セレナ。「その間、依頼を出さず、機能を要求せず、消灯も点灯も命じない」

 十分間。

 誰も小灯へ仕事を頼まなかった。

 橙灯は、机上の紙粉を一筋だけ光で掃いた。

 青灯は、判事の椅子が少し傾いていることを知らせるよう二度鳴った。

 魚灯は、ノナの前へ行き、何も言わず戻った。

 仕事の癖が出る。

 依頼がなくても、途中の作業を終えようとする。

 その後、灰灯が床へ、光の円を描いた。

 一周を閉じない。

 最後の指一本分だけ、欠けた円。

「依頼にない動作」と技術者。

「記録にある?」セレナ。

「依頼札の裏へ、十九年間で二千七百十一回。同じ欠け方ではない。描いた構成筆圧も毎回違う」

「誰の趣味」判事。

「特定不能」

「なら、ルメの趣味と呼べるか」

「呼べる、と決める権限はありません」とセレナ。「しかし、誰の仕事でもない反復として記録できます」

 役に立たない動作。

 賃金を生まない円。

 何も完了させない欠け目。

 人格の証明にはならない。

 それでも、設備と呼ぶだけではこぼれる何かが、法廷の床へ残った。

「仕事を始められるか」と判事。

 橙灯。

『依頼を確認』

 青灯。

『終了時刻を確認』

 魚灯。

『退出先を確認』

「仕事がなくても休めるか」とソムナ。

 灯は答えない。

 技術者が首を振る。

「旧構造に休息概念がありません」

「作る」とメイ。

「機械に休み?」判事。

「構成記憶は人の身体から来た。夜通し稼働させれば、元の人間の睡眠記憶まで摩耗する」

「実例」

「ソムナ」

「僕?」

「昨夜二時間半。今、話を追う速度が落ちている」

「ルメの実例じゃない」

「働くものへ休みを付けない思想の実例」

 法廷に笑いが漏れた。

 ソムナは笑わない。

「休み、要る」

 小灯が一つ、暗くなる。

 同意なのか、電力低下なのか。

 誰も勝手に意味を決めなかった。