第551話 第十二章「盗まれた王子の夢」前編
事件が終わった翌朝、町は元に戻らなかった。
パンは昨日より少しだけ丸くなった。
橋の点検は三倍の時間がかかった。
薬室では、投入順を読む声が二人分重なった。
夜荷区の子供たちは、魚灯を泳がせる当番表を作り、初日にもう順番を間違えた。
元に戻らないことは、失敗ではない。
ただし、前より良くなったことの証明でもない。
町は今日も、間違えながら生活を続けなければならない。
「焦げてる」とハル。
「焼けている」とカナ。
「黒い」
「香ばしい」
「苦い」
「大人の味」
「失敗を年齢制限で隠すな」
朝窯街の最初のパンを、広場で分ける。
カイルは苺ジャムを厚く塗った。
「焦げは苺で中和できる」
「赤で黒を消す?」エリア。
「政治の比喩にするな」
「していない」
「した顔だ」
「顔を証拠にしないで」とセレナ。
「お前が言うと重い」
ノクスはパンを嗅ぎ、焦げた端だけハルの皿へ押した。
「自分は食べない?」
「ナァ」
「約束の匂いじゃなくても、嫌なもの分かるんだな」
二本の尾が得意そうに上がる。
ロロは食べながら請求書を配った。
「棺補助輪。塔壁用滑車。吸入器薬剤。橋槌の柄。全部、町」
エダは受け取る。
「高い」
「壊れた後より安い」
「値引き」
「人命救助へ値切り入れる?」
「継続運用には交渉が必要」
「払う気ある交渉なら好きだ!」
カイルが王家拠出の札を置く。
「初年度分」
「王家の名前を制度へ刻む?」エダ。
「刻まない。会計欄へだけ」
「後世、王子が救ったと書かれる」
「書いた者へ訂正札を送る」
「百年後も?」ハル。
「王家は、不要な美談だけ長生きする」
冗談のように言い、カイルは焦げたパンを噛んだ。
母の葬列を思い出しているのだと、ハルは聞かなかった。
朝食の後、最初の苦情会が開かれた。
祝賀会ではない。
制度を作った翌朝に必要なのは、拍手より苦情である。
パンが硬い。
薬を受け取るまで二十分長い。
橋の閉鎖札が触って分からない。
夜の相談役が交代するたび、同じ話を最初からさせられる。
子守小組が安全確認を増やしすぎて、迎えへ三枚も署名が要る。
ルメの魚灯が、頼んでいない時にも窓の外へ来た。
「一日目で多すぎない?」ハル。
「一日目だから多い」とメイ。「前は不満を言う相手が一つだった。今は、どこへ言うかも覚える必要がある」
「ルメへ言えば全部伝わった」住民。
「全部を同じ耳へ入れたから、薬の苦情と寂しさと橋の亀裂が同じ優先表へ載った」とエリア。
「じゃ、どこへ」
エリアの地図には、苦情の道も描かれている。
パンはパン小組。
薬は診療所。
橋は橋小組。
複数にまたがるものは接続会。
どこか分からないものは、入口案内。
「入口案内が、またルメになる」とハル。
「ならないよう、三人交代。案内できなければ『分からない』札を出し、接続会へ。自分で答えを作らない」
「不便」
「ええ」
「認めるんだ」
「不便を隠して便利と呼ぶより正確です」
最初の苦情は、魚灯だった。
ノナの窓へ、依頼していない夜にも来た。
イアは停止を求める。
ノナは残したい。
「昨日決めたばかり」とイア。
「昨日の決定は、今日の同意じゃない」とアサ。
「毎日聞くの?」
「毎日同じ長さでは聞かない。窓札で、来てよい、今日は来ない、声なし、灯だけ」
ノナは魚の形をした四枚の札から、灯だけを選んだ。
「明日も?」
「明日は明日」
「面倒」
「面倒でいい」とイアが言う。
母親が先にそう言った。
夜荷場で働き、娘の夜をルメへ預け、自分がいないことへ罪を感じ続けた女が、毎日選び直す面倒を、自分の側へ戻した。
薬小組では、二重確認のせいで患者が待たされた。
「旧ルメなら三十秒」と薬師。
「今は三分」とメイ。
「十倍」
「誤配率は」
「零」
「旧記録」
「零点二」
「待ち時間と誤配、両方を出す」
「数字で患者を安心させる?」
「安心させない。選ぶ材料」
急ぐ患者には、危険を説明した上で暫定一人確認。
待てる患者は二重確認。
意識のない患者は医療代理。
完璧な安全はない。
速さを選べば危険が増え、安全を増やせば待つ人が苦しむ。
制度は、その苦しみをゼロにしたふりをせず、誰がどの危険を引き受けたかを残す。
「この記録、誰が読む」とハル。
「当事者。監査。次の勤務者」とメイ。
「全部読む時間」
「ない」
「じゃ、またルメに要約」
「要約機能を小灯へ頼むことはできる。ただし原文を消さない。要約者名をルメ一つにせず、使用した記憶束と規則を表示」
「結局、ルメ働く」
「働くことを禁じない。働かなければ存在できない、をやめる」
その違いは、外から見れば小さい。
同じ灯が点き、同じ紙が出る。
だが、依頼を断れる。
休める。
誰かが代わる。
仕事がなくても名が消えない。
自由はしばしば、見た目ではなく、途中で止められる場所に宿る。
ルメの小灯には、初めて休止時間ができた。
一日に六時間。
依頼がなくても消えてよい。
消えている間、誰も故障と呼ばない。
「休んでるかどうか、本人に分かる?」ハル。
「旧構造には本人感覚がない」と技術者。
「じゃ、休みって誰のため」
「構成記憶の摩耗防止」
「それだけ?」
灰色の小灯が、机の上で一度またたく。
『その質問は』
『依頼にありません』
「質問を依頼する」とハル。
「待って」とソムナ。
「何」
「答えを作る負担を、すぐ渡さない」
「考えない方がいい?」
「違う。考える機能を作るなら、止める権利も一緒に」
「面倒」
「人になるって、面倒?」
「人じゃないって決めてない」
「だから、もっと面倒」
一拍。
二人は小灯を見る。
「今は、質問を残すだけ」とソムナ。
札へ書く。
――休みは、誰のために必要か。
回答期限なし。
回答義務なし。
破棄可。
小灯はその札を受け取り、消えた。
「寝た?」ハル。
「休止」
「おやすみ」
返事はない。
返事がないことを、故障にも拒絶にも解釈しなかった。