第552話 第十二章「盗まれた王子の夢」後編

 ソムナはゼロスター号の客員席へ、自分の荷物を戻した。

 薄い寝具。

 苦い種の袋。

 夢札。

 綴灯杖ピロウ。

「残る?」エリア。

「夜市の契約記録を調べる」

「町に?」

「船に」

「どっち」

「行き来する」

「目的地」

「まだ決めない」

 アサが船外から言った。

「有効」

「アサは残る?」

「町」

「ソムナを一人にして平気?」ハル。

 長い沈黙。

「一人にしないため、ずっと一緒にいるとは決めない」

「難しい」

「簡単にすると、見守りが監視になる」

 アサはソムナへ、退出可の小札を渡した。

「船からも、治療からも、議論からも」

「帰る場所は」

「町」

「戻れない時」

「連絡」

「返事がない時」

「もう一度。次は、別の人から」

 ソムナは札を長い袖へ縫う。

「起きたあとも、ここにいる」

「誰が」とハル。

 ソムナは一拍置いた。

「今は、俺」

 以前なら、患者へ向ける言葉だった。

 今日は、自分へ言った。

 王家の小灯は、出航前に三度調べられた。

 一度目はセレナ。

 封印面の金線、熱、重量、灯力の流れ。

「開封痕なし。ただし、封印そのものが旧式で、現在の王家権限台帳と一致しない」

「偽物?」ハル。

「不一致は偽物の証拠ではない。古い制度が今の制度へ移されていない可能性」

「また古い制度」

「歴史は、捨てたつもりの鍵を別の扉へ残します」カイル。

「格好いい」

「今のは教科書から盗んだ」

「出典」セレナ。

「王家史講義、第三巻、著者は私の曾祖母」

「家族から盗むのは相続?」

「引用です」

 二度目はロロ。

 補助腕で外周を測り、右眼を休ませながら左で拡大鏡を見る。

「灯自体は町の規格。中の封印層だけ王家。外から入れたんじゃなく、昔から共同網へ混じってた」

「いつ」とカイル。

「紙の劣化、十五年以上、二十五年未満。正確な年は無理」

「私の年齢と重なる」

「重なるから、お前のものとは限らねえ」

「分かっている」

「分かってる顔が、答えを先に食ってる」

「顔を証拠にしない」とセレナ。

「便利だな、その台詞」

 三度目はソムナ。

 夢へは入らない。

 灯へ綴灯杖を触れず、周囲の出口だけ確認する。

「夢断片がある?」カイル。

「夢として開ける構造はある。でも、誰の夢かは見ないと分からない」

「見れば」

「僕が見たこと自体で、開封になる」

「王家権限で許可する」

「今のカイルが許可できるのは、今のカイルの記録。幼いカイルが預けたなら、当時の代理同意をそのまま今へ持ってこない」

「本人は同じだ」

「同じでも、同じ同意じゃない」

「では、今の私が、自分の過去を見たいと同意する」

「今は、やめると言った」

「撤回できる」

「撤回を急がない」

「夢葬師は、人の決断を遅くする職か」

「遅くするんじゃない。速く決めたくなる理由を、一緒に見る」

「私は、欠けているのが怖い」

 食べ物の冗談が出ない。

「王子としてではなく?」ソムナ。

「王子としてもだ。王家の夢が市場へ流れれば政治問題になる。個人としても、穴がある」

「どっちを先にする」

「王子」

「本当?」ハル。

「……個人」

「カイル、嘘下手」

「政治家として致命的だな」

「そこは冗談」

「戻ってきた」

 カイルは苺ジャムの小瓶を指で回す。

 苺は彼にとって、好物である。

 王宮の温室で育ち、母が砂糖を減らして煮た。祝宴の赤い飾りにも、風邪の日の薄い水にも、戦勝の菓子にも使われた。

 だから苺の匂いだけでは、時刻も場所も分からない。

 だが記憶とは、手掛かりの数で戻るものではない。

 たった一つの匂いが、戻れない場所の形を正確に残すことがある。

「幼い頃の寝台記録」とセレナ。

「王宮にある」

「夢売買契約」

「王家は夢を売らない」

「事実?」

「規則」

「同じではない」

 カイルが目を閉じる。

「調べる」

「誰に知らせる」とエリア。

「王宮医、記録官、母の旧侍従」

「父王」

「最後」

「なぜ」

「王としての答えが先に来る」

「カイルも王子として答えた」とハル。

「だから、個人として聞ける人から始める」

「母の記録を勝手に開く?」ソムナ。

「開かない。私に関する記録の存在を聞く」

「同じ頁に母の私事があったら」

「分離できる部分だけ。できなければ保留」

 共同人格ルメの件で町が作った原則を、王家へ持ち帰る。

 庶民の制度として褒め、王宮では例外にするのが、王権の最も古い癖だった。

「王家も見ない権利?」ハル。

「王家こそ要る。見られることを公務と呼ばれやすい」カイル。

「見せないと秘密主義って言われる」

「言われる。だから、見せない内容と、見せない決定をした者と、監査方法を分けて出す」

「ユノみたい」

「不本意だが、学んだ」

 白銀の演出家が聞けば、完璧な微笑みで勝利を否定しただろう。

 小灯を収める箱には、王家の封印を付けなかった。

 市の封印も。

 夜市の封印も。

 七権限のうち、開封申請はカイル。

 保全はセレナ。

 技術監査はロロと町の技術者。

 夢内接触はソムナと本人同意。

 公開範囲は別審査。

 緊急停止は誰でもできる。

 再開は複数承認。

「一個見るのに人が多い」とハル。

「多すぎると、今度は誰も見られない」とエリア。

「だから期限。申請から十二時間以内に、開く、開かない、追加条件のどれかを返す」セレナ。

「返事がなかったら」

「開かない。返事をしなかった責任は記録」

「待ってる間に競売」

「市場へ異議申立て。停止を求める」

「止まる?」

「分からない」

「じゃ、走る?」

 ハルが立つ。

「まだ告知も来てない」とカイル。

「来たら走る」

「お前は、未来へ先に走るな」

「王子が言う?」

「私は格式を付けてから走る」

「遅い」

「三秒だけだ」

 その三秒を、後に誰かが歴史的熟慮と書くかもしれない。

 実際には、カイルが半マントの留め具を一度掛け損ねた時間だった。

      カイルが眠れないと気づいたのは、出航準備が終わった後だった。

 彼は眠れない夜ほど、甲板へ出る。

 王子の寝台には、眠れなかった者の記録が残る。侍従が灯りを数え、医師が睡眠時間を測り、翌日の予定を調整する。

 船の甲板には、記録係がいない。

 いるのは、赤いマフラーを枕にして帆柱の根元へ座る少年だけだった。

「寝ないの」とハル。

「星を見ている」

「常夜都市で言うと、寝ない人の言い訳一位」

「二位は」

「パン待ってる」

「三位」

「お前が寝てるか見てる」

「では私は三位だ」

「俺、寝てない」

「見れば分かる」

 カイルは隣へ座る。

 右籠手は外している。

 左手に、王家紋を映した小灯。

「触った?」ハル。

「まだ」

「怖い?」

「苺大福二個分」

「大きい」

「一個では足りなかった」

「何が」

「分からない」

 カイルは小灯へ近づいた時から、胸の奥に穴がある。

 記憶がないとは違う。

 思い出せないことを知っている。

「幼い頃の夢を、順に思い出してみた」

「王子になりたい、とか」

「なりたくなかった」

「最初から?」

「王子は生まれた時から役職だ。なりたいと思う前になっていた」

「じゃ、夢」

「母と逃げる夢。城の屋根へ苺畑を作る夢。盾を捨てて剣だけ持つ夢。全部ある」

「楽しい夢、少ない」

「王家の教育は夢まで予算不足だ」

「一個、ない?」

「あるはずの場所だけがある」

「どんな」

「分からない」

「匂い」

「苺」

「全部、苺じゃない?」

「違う」

 カイルの冗談が消える。

「畑でも菓子でもない。雨上がりの石。母の手。誰かの笑い声。それから、苺の匂い」

「誰」

「顔がない」

「夢だから?」

「抜けている」

 言い切った。

 人は、忘れたことを思い出せない。

 盗まれた記憶だけが、そこに何かあった形を残すことがある。

 ソムナが甲板へ上がってきた。

「眠れない?」

「王子の職務」

「それ、病名じゃない」

「診る?」ハル。

 ソムナはカイルへ聞く。

「夢へ入っていい?」

 カイルは小灯を見る。

「今は、やめる」

「うん」

「理由を聞かない?」

「言いたいなら聞く」

「見つけた瞬間、戻せと言ってしまいそうだ」

「戻すかは、見つけた後も決められる」

「それを忘れそうだから、今は見ない」

「分かった」

 ソムナは隣へ座り、苦い種を一粒渡す。

「眠気止め?」

「低血糖用」

「味」

「苦い」

「苺は」

「ない」

「景気が悪い」

 冗談が戻った。

 完全ではない。

 それでよかった。

 夜市からの伝羽は、出航三分前に届いた。

 黒い紙。

 金の嘴。

 競売告知に使う折り方。

 セレナが手袋をして開く。

「差出人」

「記載なし」

「市場印」

「本物?」ロロ。

「現時点で一致」

「内容」とカイル。

 セレナは読む前に彼を見る。

「個人に関する可能性があります。公開範囲を」

「ここにいる全員」

「後から変更できません」

「読む」

 紙を開く。

 夢を売買する地下市場、次回特別競売。

 出品番号、零。

 由来、王家旧封印庫。

 保存状態、完全。

 所有権、異議申立てあり。

 内容、非公開。

 品名。

 王子の原初夢。

 甲板に、苺の匂いが広がった。

 小灯が金色に点る。

 誰も、夢の内容を説明しない。

 誰が盗んだかも、なぜ市場へ出たかも、どこへ通じるかも分からない。

 分かるのは、一つだけだった。

 カイルが失ったと感じた夢と同じ名のものが、夜市で売りに出される。

「行く?」ハル。

 カイルは告知を左手で折る。

「行かない理由を、これから探す」

「見つかったら」

「それでも行く」

「最初から言え」

「王子は、決断へ一度くらい格式を付ける」

 ゼロスター号の片帆が上がる。

 夢灯都市の小灯は、それぞれの家へ散っている。

 誰か一人の名へ戻らず、誰か一人の所有物にもならず、休み、間違い、頼まれ、断られながら。

 町には、ルメがいた。

 一人ではない形で。

 そして船には、いないはずの夢を取り戻しに行く王子がいた。

 苺の匂いだけを、手掛かりにして。