第553話 第一章「王子は眠れない」前編

王子は眠ってはならない。

 これは古い国の冗談であり、古い国ほど冗談を法律へ書きたがる。

 王が眠っている間に国境が動くかもしれない。

 王子が夢を見ている間に反乱が起きるかもしれない。

 寝返り一つで軍令印が割れ、寝言一つで婚約が成立し、いびきの拍子で税率が上がる――そこまで愚かな制度は、さすがのルーメン王国にもなかった。

 ただし、人が眠る時間を「公務から外れた私生活」と認めるまでには、王家は六百年かかった。

 六百年かけて認めたあとも、王太子の寝室には三人の侍従、二人の医師、一人の記録官、四系統の防衛誓術が置かれた。

 だから王子は眠ってよい。

 王国が、その眠りを見張っている限り。

 カイル・アークレイは、その種の親切を嫌っていた。

 ゆえに彼は、ゼロスター号の食堂で眠らなかった。

「目を閉じてる」

 凪野ハルが言った。

「王子の熟考だ」

「三分前も同じこと言った」

「三分ぶん深くなった」

「いびき」

「熟考が風を切った音だ」

「涎」

「国家機密」

 カイルは卓へ伏せたまま答えた。

 答えられるうちは、起きている。

 王家ではそういうことになっていた。

 実際には、右頬が木の卓へ貼りつき、赤金の髪が苺のへたのように四方へ跳ね、深紅の半マントは椅子の背から床へ半分落ちている。盾型籠手は外してあった。右手首の輪状星痕だけが、薄い赤で明滅している。

 明滅は、心拍より遅い。

 眠りへ近づくほど、遅くなる。

「カイル」

 エリアの声だった。

 冷たく明瞭な声である。

 普段なら、カイルはその声の子音の硬さから、幼なじみがどの程度怒っているかを五段階で判定した。今夜は判定に二拍かかった。

「……一番端の串肉は私のだ」

「違う」

「起きた」

「国家機密へ手を出すな」

「それはロロの朝食」とエリア。

 卓の端で、ロロが補助腕を四本とも上げた。

「俺のだよ! つーか朝食じゃねえ、夜食だ。寝てない奴が時間帯を盗むな!」

「夜と朝の境を王家が管理する」

「夢灯環でそれ言うと暴動起きるぞ」

 夢灯環ネムリアには朝がない。

 正確には、空に朝がない。

 第五環の上空は常夜であり、青緑の薄闇を橙の紙灯籠が埋める。住民は時計、食事、勤務鐘、灯籠の色で一日を分けた。

 空が明るくならない町ほど、人は夜明けを制度にする。

 起床鐘。

 配給湯。

 初便。

 夢の返却期限。

 眠りから戻った人間が、自分の名を言えるか確かめる朝の問い。

 ゼロスター号は、その常夜の雲海を切っていた。

 片帆の内側には、これまでの客員航路士たちが残した札が揺れている。

 黒板片。

 港札。

 獣毛を編んだ鈴片。

 白い鏡砂の弦。

 行き先未記入の切符。

 船内には、今までの旅人が残した生活痕がある。

 ミラの義足用の低い足掛け。

 ガンガの重みで少しへこんだ床。

 ユノの白いヴァイオリンを固定した帯。

 イヴァが付けた小さな車内鐘。

 ソムナの長い袖が機関歯へ吸われないよう、ロロが張った紙札避け。

 客員席は空いていなかった。

 ソムナが座っていた。

 ただし彼は椅子を出口が見える角度へ七度だけ動かし、八度目にメイから止められている。

「床が削れる」とメイ。

「出口が帆柱で半分隠れる」

「火事なら左扉」

「左扉は夢酔いの人が集中する」

「なら右」

「右は階段が三段」

「あなた、今朝から何も食べてない」

「話が変わった」

「変えてない。出口へ歩く脚が低血糖で動かなければ、椅子の角度は治療にならない」

 メイは小鍋から、湯気の少ない豆のスープを注いだ。

 香りは弱い。

 夢灯都市の患者には、強い匂いが夢と現実の境を曖昧にすることがある。だから彼女は、匂いを治療の演出へ使わない。

 ソムナは苦い種を噛み、それからスープを受け取った。

「料金」

「後で帳簿」

「今」

「患者じゃなく同行者料金。食べた量で計算する」

「残したら」

「残した量も記録。罰にはしない」

 アサが出口近くの椅子で、鼻から短く笑った。

「診療より会計が長い」

「会計を短くすると、診療所が先に死ぬ」とメイ。

「分かってる」

「分かっていて残す?」

 アサの梨茶は、いつも半分残る。

「退出の余地」

「飲み物からも退出するの」

「全部飲んだら、次を勧められる」

「勧めない」

「今は」

 メイは帳簿へ一行書いた。

 否定しなかった。

 そのやり取りを聞きながら、カイルは卓へ伏せている。

「王子」とソムナ。

「案内人」

「呼び方を訂正する元気はある」

「王子は訂正でできている」

「昨夜、何時間寝た」とメイ。

「王家の記録では」

「比喩でなく時間」

「零」

「その前」

「一」

「その前」

「二」

 ハルが指を折る。

「足して三」

「数学に強くなったな」

「三日で三時間?」

「平均すれば一日一時間。規則正しい」

「規則に謝れ」とロロ。

 カイルは顔を上げた。

 琥珀の瞳の下に、薄い影がある。

 笑えば犬歯が見えるはずなのに、口元だけが笑いの形を作って、目が追いつかない。

「寝ようとはした」

「結果じゃなく手順を聞く」とメイ。

「寝台へ入る。目を閉じる。国政の失敗を百二十七件数える」

「羊より景気悪い」

「百二十八件目へ行く前に、苺の匂いがする」

 食堂の空気が止まった。

 苺はカイルの好きなものだ。

 好きなものが夢へ出る。それだけなら異常ではない。

「どんな苺」とハル。

「食べ物じゃない」

「香水」

「違う」

「薬?」

 メイが聞く。

 カイルは右籠手を左拳で叩こうとして、籠手がないことに気づいた。左拳が卓へ軽く当たる。

「雨上がりの石。鉄。少し焦げた布。その中に、苺」

「場所の匂い」とハル。

「たぶんな」

「音は」とソムナ。

 カイルは彼を見る。

「なぜ音があると」

「甲板で言ってた。古い機械音」

 共同人格ルメの葬列を見送った夜。

 出航前。

 カイルは、夢の空白に苺の匂いと機械音があると話した。

「……カン、カン」

 彼は卓を指で叩く。

 左手。

 二度。

「それから、低い擦れ音。ギィ、じゃない。シューでもない。金属が息を吐くみたいな」

「蒸気弁?」ロロ。

「分からん。そのあと、もう一度、カン」

 カン、カン。

 息。

 カン。

 ロロの補助腕が、順に同じ拍を刻んだ。

「変な並びだな」

「知ってる?」

「知らねえ。知ってる機械なら、最初の二回が同じ強さで、間に排気が入って、最後だけ単発ってのは――」

「今は再現しない」

 メイが切った。

「なぜ」

「患者の身体反応を取る前に刺激を増やさない」

「患者ではない」

「三日で三時間しか寝ていない人」

「王太子だ」

「身分は睡眠時間へ足せない」

「国家資産として――」

「その言い方をすると、点滴代を王室へ十倍請求する」

「恐ろしい医師だ」

「眠れ」

 カイルが目を閉じる。

 ほんの一拍。