第554話 第一章「王子は眠れない」後編
食堂の窓へ、深紅の光が走った。
右手首の星痕が燃える。
「カイル!」
エリアが椅子を蹴った。
ゼロスター号の外側へ、炎の盾が六枚、花弁のように開く。
守る人数で燃える王盾〈レグルス・ガード〉。
本来は、カイルが意識して展開する。
盾の向き。
守る対象。
受ける衝撃。
返る痛み。
今回は、どれも選ばれていない。
六枚の盾は船を包み、同時に出入口を塞いだ。
炎が防ぐのは外からの攻撃だけではない。
「王太子を危険へ出さない」という古い防衛条件が、扉、窓、甲板昇降口を内側から閉じる。
「起きろ!」
ハルがカイルの肩を掴む。
左肩ではない。
カイルの。
揺する前に、ソムナが手を止めた。
「急に起こさない。盾と心拍がつながってる」
「でも閉じる!」
「名前を呼んで。今いる場所を言って」
アサが杖で床を二度叩く。
「カイル。食堂。ゼロスター号」
返事がない。
王盾の炎が厚くなる。
エリアの地図槍が開き、床へ淡緑の線が走る。
扉まで三歩。
盾の隙間まで二十七センチ。
ただし炎は、近づいた人間を「守る対象」に追加し、さらに強くなる。
「近づくほど閉じる」とエリア。
「優しい牢屋だな!」ロロが工具箱を開く。「王家って毎回、親切の設計が最悪だ!」
「外から切る?」
「船体まで切る気か!」
「なら内側の命令を止める」とセレナ。
彼女は黒い羽根型証拠札を伏せる。
証羽は使わない。
眠りの中の命令を映像として再生しても、それが本人の意思か、防衛術の古い条件か、証明できないからだ。
「カイル・アークレイ。現在時刻、第三夜鐘後四十二分。あなたはゼロスター号食堂にいる。外敵の確認なし。守る対象は避難を希望していない」
法的な言葉。
正確な言葉。
夢へ届くとは限らない。
ハルはカイルの左手を見る。
最後の一口を残して誰かへ渡す手。
母の記憶へ触れる手。
王子でない相手へ慰める時の手。
その指が、卓の上で何かを探している。
苺はない。
ハルは自分の赤いマフラーの端を丸め、カイルの左手へ握らせた。
「カイル」
低い声。
「今、俺がいる」
王子ではなく、人名を呼ぶ。
「盾いらない」
カイルの指が、布を掴んだ。
炎が一枚、薄くなる。
「エリアもいる」
「正確には右側」とエリア。
「ロロ」
「修理代請求中!」
「ノクス」
「ナァ」
黒い小獣は、苦い種を警戒しながら卓の下から顔を出した。
「セレナ」
「王太子の無許可睡眠を記録するか検討中です」
「メイ」
「起きたら食事」
「アサ」
「退出していい」
「ソムナ」
一拍。
「起きたあとも、ここにいる」
カイルが息を吸う。
瞼が開いた。
王盾が砕ける。
炎の破片は床へ落ちず、窓の外で赤い火の粉へ変わった。
カイルは椅子から立とうとして、膝が卓へ当たった。
左膝の古傷ではない。
単純に、眠気で距離を誤った。
「景気が悪いな」
「今のが防衛?」ハル。
「寝相だ」
「国を包む寝相」
「王子は規模が違う」
「痛み」とメイ。
「背中、少し。肋骨は平気」
「少しを数値に」
「苺大福一個半」
「診療単位として認めない」
メイは背中の火傷へ手を当てず、衣服越しの熱を測る。
カイルは隠さなかった。
「眠るたび?」セレナ。
「ここ二夜。今夜が一番強い」
「なぜ報告しなかった」
「眠らなければ発動しない」
「その結論を報告しなかった理由」
「眠らない案が却下されるから」
「正しい判断です。却下します」
「王太子権限で――」
「睡眠不足により判断能力の低下が疑われます」
「便利だな、医療」
「不便にしたのはあなたです」とメイ。
カイルは反論しようとして、卓の端の串肉を見る。
ロロの夜食。
炭火の焦げ。
油。
苺ではない。
「夢を盗まれたから?」ハル。
「夢の競売告知が来た時からだ」とエリア。「小灯が反応した。王家旧封印庫の夢記録と、カイルの誓紋がまだ接続されている可能性がある」
「夢を持ち出すと盾が暴れる?」
「正確には、持ち主の眠りと保管記録の所属が食い違っている」
セレナが黒い競売告知を卓へ置いた。
出品番号、零。
由来、王家旧封印庫。
保存状態、完全。
所有権、異議申立てあり。
品名、王子の原初夢。
「原初夢って何」とハル。
「最初の夢ではない」とソムナ。
「名前が嘘」
「名前が大げさ。初誓の前後に記録される、その人が自分をどう呼ぶかに近い夢。王家は継承者の誓術が役職だけへ結びつかないよう、私的な願いを一つ保存する」
「王子じゃない自分を残す?」
カイルが笑う。
「王家にも、たまには自分で仕掛けた罠へ気づく者がいたらしい」
「その夢がないと」
「王子という役職だけが眠りの中へ残る」とエリア。「危険を判断する本人の願いが抜けて、防衛条件が最も古い命令へ戻る」
「王子を守れ」
「誰から?」
「全部から」とカイル。
笑いながら言った。
全部から守る盾は、本人を閉じ込める。
歴史上、王家の防衛術は何度も外敵を退けた。
同じ回数だけ、王族を寝室、城、役割、国民の期待へ閉じ込めた。
「取り戻す」とハル。
「異議申立ては出した」とセレナ。「ただし夜市は、同一名の夢が三つ出品されたと通知しています」
「三つ?」
黒い紙を開く。
新しい金文字が浮いていた。
出品零甲。
王子が港の料理人として暮らす夢。
出品零乙。
亡母を含む王家が幸福に食卓を囲む夢。
出品零丙。
旧王城工房で記録された幼少夢。欠損あり。
三品とも、来歴証明あり。
三品とも、原本を名乗る。
三品とも、同じ王家印を持つ。
「原本が三つ」とロロ。
「原本の意味まで競売か」とカイル。
「どれが本物?」ハル。
ソムナはすぐに答えなかった。
夢を扱う者が、夢の美しさや痛みを見ただけで本物と言えば、その瞬間から治療者が持ち主になる。
「見ないと分からない」
「全部見る?」ハル。
カイルは黒い紙を睨む。
眠れば盾が暴れる。
眠らなければ、判断が壊れる。
夢へ入れば、王子ではない人生を見つけるかもしれない。
王子である現実へ、戻りたくなくなるかもしれない。
「行く」と彼は言った。
「行かない理由は」とハル。
「探した」
「見つかった?」
「百二十八件」
「多い」
「全部、却下した」
「誰が」
カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。
「俺が」
その時、船首の観測窓へ、三つの紙灯籠が並んだ。
同じ王家印。
同じ出品番号。
違う形。
一つは鍋。
一つは食卓。
一つは、歯の欠けた小さな歯車。
三つの灯りが同時に点く。
夢を売買する地下市場〈ナイト・バザー〉から、競売開始の鐘が届いた。
カン。
カン。
金属が息を吐くような、低い音。
最後に、もう一度。
カン。
カイルの瞳が、完全に覚めた。