第555話 第二章「夢市場の怪盗」前編

盗まれたものが目の前に残っている場合、人は盗難届を出しにくい。

 椅子はある。

 椅子へ座った記憶だけがない。

 手紙はある。

 誰が書いたかという署名だけが切り取られている。

 夢はある。

 それが自分の夢だと証明する札だけが、別の誰かの手に渡っている。

 夜市では、最後のものが最も高く売れた。

 夢を売買する地下市場〈ナイト・バザー〉の入口は、地下になかった。

「上?」

 ハルは、ゼロスター号の舷側から見上げた。

 常夜の空へ、逆さの町がぶら下がっている。

 夢灯都市の下層から伸びた紙の根。

 何千本もの細い吊索。

 その先に、屋根を下へ向けた市場船が連なっていた。

 地面から見れば地下市場。

 空から見れば、町の裏側へ吊られた上空市場。

「地上から階段を下りると地下、船から上がると上」とロロ。「場所まで立場で値段変えんのかよ」

「市場は、客がどこから来たかで入口を変える」とソムナ。

「入口が違うと値段も?」

「違う」

「最悪」

「だから夜市」

 ゼロスター号を、紙根の一本へ係留する。

 ロロは索の張力を測り、ハルへ補助帯を投げた。

「左肩」

「平気」

「平気料金、通常料金の三倍」

「何で」

「言うこと聞かない客の危険手当」

「労働で払う」

「それを拒否する権利を俺にくれ!」

 ハルは補助帯を右腰へ通す。

 片腕へ全体重を預けない。

 古傷は治ったのではなく、扱い方を覚えた。

 エリアが先に紙根へ足を置いた。

 出発前、両踵を二度鳴らす。

 路祖礼の小さな音。

「紙に見えるけれど、中は星麻と細鋼線。踏面幅は二十六センチ。三人以上で同じ節へ乗らないで」

「近い方へ行く」とハル。

「誰にとって近いかを言って」

「俺」

「却下」

「じゃ、カイル」

「判断能力低下中」とセレナ。

「王太子の扱いが雑だな」

 カイルは笑った。

 笑いながら、紙根へ足をかける前に一度、目を閉じる。

 赤い星痕が光る。

 全員が止まった。

「寝てない」と彼。

「今のは」とメイ。

「瞬き」

「長い」

「格式のある瞬き」

「二秒を超えたら座る」

「市場の入口で診察を始めるな」

「市場の入口で倒れるな」

 カイルは反論を飲み、紙根を渡った。

 眠れない人間は、身体が止まることを敗北だと思いやすい。

 止まれば眠る。

 眠れば夢へ落ちる。

 夢へ落ちれば、自分の中に何がないか分かってしまう。

 だから歩く。

 だから喋る。

 だから王子は、危険な吊橋の上で景気の悪い冗談を言う。

 夜市の門には、顔がなかった。

 白い紙を何百枚も重ねた壁。

 中央へ、人一人が通れる切れ目。

 その両側に、手、目、耳、鼻、舌を描いた五枚の札が吊られている。

「持ち込み感覚を選んで」と、門番が言った。

 門番も顔を隠していた。

 橙の袋面。声は若い。

「全部」とハル。

「全部は追加料金」

「入場に?」

「夢酔いの救護費。匂いを切るなら安い。痛覚を切るなら高い。味覚は本日無料」

「無料の理由」

「昨日、辛味夢が破裂した」

「何が起きた」

「市場じゅうが泣いた」

「感動?」

「唐辛子」

 ハルは鼻の札を取ろうとした。

 ノクスが手へ噛みつく。

「痛っ」

「匂いを切ると怒る」とエリア。

「ノクスの匂いは残せる?」

 門番は首を傾ける。

「同行獣の感覚は本人契約」

「本人に聞く」

「ナァ」

「残すって」

「今のは、お前が勝手に札を取るな、だと思う」とロロ。

「ノゥ」

「俺が正解」

 ノクスは二人とも噛んだ。

 結局、全員が感覚を残した。

 メイだけは、夢酔い止めを人数分用意し、アサは退出札を一人一枚、胸へ見えるよう付ける。

「途中で出る時、理由はいらない」とアサ。「札を折る。話せなければ床へ落とす。誰かの手を取れなくてもいい」

「夢の中で落とした札は現実へ届く?」ハル。

「届かない」

「じゃ何で」

「周りが止まるため」

「本人が出られなくても?」

「まず、続けない」

 ソムナの綴灯杖ピロウへ、退出札の輪が一枚ずつ通された。

 彼の夢の断片を縫う共有術〈ドリーム・ステッチ〉は、入る技術より、出る手順の方が多い。

 夢は、入口が魅力的であるほど危険だ。

 出口は、魅力的である必要がない。

 見つけられればよい。

 門をくぐる。

 市場の上下が、ゆっくり反転した。

 ハルの足が紙壁を離れ、次の瞬間には別の地面へ着く。

 夜市は、海だった。

 黒い水。

 水面に浮かぶ紙灯籠。

 灯籠を積んだ小舟。

 頭上には市場船の裏面が星空のように広がり、何千もの店が逆さに吊られている。

 足元の桟橋は、誰かが夢で見た駅のホーム。

 右の屋台は、誰かが夢で通った学校の廊下。

 左の看板は、知らない家の食卓。

 正面の帆船は、子供が一度だけ見た海賊船。

 夢は建築資材である。

 誰かが見た場所だけが、夜市では道になる。

「夢の中?」ハル。

「半分」とソムナ。

「半分って便利な言葉だな」

「現実の市場へ、共有夢の景観を重ねてる。身体は門の向こうを歩いてる。意識は海を見る」

「落ちたら」

「現実では床へ転ぶ」

「夢では?」

「溺れる」

「どっちが本当」

「両方。怪我は床」

「怖さは海」とアサ。

 ハルは黒い水へ手を伸ばさない。

 水面の下に、無数の顔が流れていた。

 顔ではない。

 夢の記憶や誓いが場所や物へ残した残光像〈アフター・ライト〉

 笑う口。

 閉じる瞼。

 握れなかった手。

 試験へ受かった瞬間。

 誰かへ別れを告げられた自分。

 別れを告げられなかった自分。

 市場では、それらに値札が付く。

「三時間だけ剣が上手くなる夢!」

「亡夫と夕食を食べる慰め夢、会話内容は三種から選択!」

「失敗しなかった卒業式!」

「謝罪された記憶、相手の顔は追加料金!」

「顔を足していいの」とハル。

「本人の夢じゃなくなる」とソムナ。

「でも売る」

「売れる」

「買った人は、本当に謝られたと思う?」

「起きたあとも区別できる表示があるはず」

 ソムナの声が硬くなる。

 あるはず。

 あるとは言わなかった。

 あるべき表示が剥がされる場所だから、夜市は夜市なのだ。

 市場の中央に、三つの紙灯籠が浮いていた。

 鍋。

 食卓。

 歯の欠けた歯車。

 それぞれ透明な箱へ入り、箱の四隅から金の細糸が伸びている。

 細糸の先に、長方形の札。

 来歴札。

 誰が夢を見たか。

 いつ記録したか。

 何を編集したか。

 誰が同意したか。

 どこまで再販売できるか。

 夢の中身が商品なら、来歴札は、その商品へ誰が責任を持つかを示す骨である。

「触らないでください」

 札守が言った。

 小柄な老女だった。

 薄桃の髪を十二本の細い編みへ分け、片眼へ大きな値札形の眼鏡をかけている。名は名乗らない。

「異議申立人」とセレナ。「星律官セレナ・クロウ。出品停止を求めます」

「停止申請は受領。審査中」

「所有者本人がここにいる」

「三つとも本人を名乗る来歴札がある」

「夢が本人を名乗る?」ハル。

「札が名乗る」と札守。

「じゃ、札が本人?」

「市場では、本人より札の方が長く残る」

「それ、変じゃない?」

「変だから法が要る。法があっても変だから監査が要る。監査があっても盗まれるから、私の仕事がある」

 老女は、値札眼鏡を上げた。

「王太子殿下。三点すべてへ異議を申し立てますか」

「内容を見る前に?」

「見れば、夢と接触した記録が残る。接触を同意と扱う古い契約もある」

「なら、先に札を見せろ」

「開示範囲は、出品者の商業秘密」

「私の夢の来歴が?」

「あなたのものだと決まれば」

 カイルの笑いが消える。

「決めるための記録を、決まるまで見せない」

「市場は矛盾を手数料へ変える場所です」

「誇るな」

「誇っていない。料金表を読んでいる」

 セレナが三枚の札を単眼鏡で見る。

 左眼ではなく右眼。

 証羽は出さない。

「王家旧封印庫の印。記録時刻は三つとも同日。同じ夢へ同じ時刻は付けられない」

「複製なら付く」と札守。

「複製と原本の区分」

「三枚とも原本」

「不可能です」

「不可能なものほど競売で高くなる」

 カイルが箱へ近づく。

 鍋の灯籠から、炭火肉の匂い。

 食卓から、白百合と温かなパン。

 歯車から、雨上がりの石と――

 苺。

 彼の右手首が光る。

 市場の海が、一瞬だけ赤く照らされた。

「カイル、下がって」とエリア。

「平気だ」

「平気の根拠」

「倒れてない」

「最低基準を根拠にしないで」

 彼は一歩下がる。

 歯車の灯籠が、金属音を鳴らした。

 カン。

 カン。

 低い息。

 カン。

 ロロの補助腕が反射的に同じ拍を打つ。

「やっぱ変だ」

「何が」とハル。

「最後のカン。排気の後に同じ音が出るなら、どこかに別の力が要る。歯車一個の絵じゃ足りねえ」

「夢は正しくなくていい」とソムナ。

「機械は正しく壊れる」

「壊れ方も記憶で変わる」

「だから比べる」

 二人の間に、最初の火花が落ちる。

 修理工は、存在する音を直せる。

 夢葬師は、存在したかもしれない音を守る。

 どちらも、今は答えを持たない。